幻想郷の境に存在する、マヨヒガという場所。 此処の主の一日が、基本的に夕刻から始まり真夜中に終わるという事実は、割りとよく聞く話である。 そしてその、基本的で変則的な主の一日は、今日も変わり無い様子だった。 布団に潜り込み、遠慮無く惰眠を貪っている、一人の女性。 部屋の窓から差し込む橙色の斜光によって、満遍なくその顔を照らされているにも拘らず、目を覚ます気配は一向に無い。 これが暁時による陽光だったらまだ救い様があるのだが、生憎、迫る夕刻に備えて沈んでいる最中の黄昏時の陽光なのだから、始末に終えない。 おまけに女性は、あどけない表情で気持ち良さそうに顔を弛緩させている上に、口の端には乾いた涎も確認する事が出来る。 成熟した外見年齢からは、何処までも掛け離れているのは言うまでも無い。 就寝時とは言い難い時刻に、童女のごとく眠りこける豪奢な金髪の女性。 あまりに不釣り合いな物が組み合わさったその様相は、見る者を戸惑いという名の不可視な楔で縫い止め、戸惑いを禁じ得ないであろう一種のうねりを、これでもかと醸し出していた。 すなわち、胡散臭い。 惰眠を貪り続ける女性からは、妖艶さ、あどけなさ、美しさ、禍々しさ、気品、無邪気、その他諸々の要素が、確かに感じ取られる。 しかし、それら全てが無秩序に混ざり合い、一つの形となった事によって感じ取れるのは、果てしなく胡散臭い雰囲気。それが、一番強かった。 そしてこの胡散臭さこそが、女性が何者であるのかを何よりも雄弁に語り尽くしてくれている。 マヨヒガの主、八雲紫。 一日十二時間惰眠が基本の彼女は、当たり前の様に今日この時も、果てしなく胡散臭かった。 童女の様に涎を垂らす口元や、気持ち良さそうに弧を描く目元さえも疑り深く見てしまうのは、致し方無いのかもしれない。 何故なら、眠りこけるその弛緩し切った横顔でさえも、妖怪の皮を被った禍々しい別の何かを幻視してしまうのだから。 それこそ、嫌と言う程に。 「……んぅ?」 奇妙に緩んだ声が耳朶を打ったのは、そんな時だった。 うっすらと目を開け、容赦無く降り注ぐ橙色に気付いて即座に顔を背け、今度は慎重に目を開ける。 手で影を作りながら黄昏の斜光を確認すると、夢見心地で惚けている事実を隠しもせずに、八雲紫はぽそぽそと口を動かした。 「綺麗、ねぇ」 たったそれだけ。 再び口元を緩めて目を閉じると紫は、全てを任せる様に敷布団に身を沈める。 どうやら、二度寝を決め込む魂胆らしい。枕に沈む横顔の柔らかな微笑みから、容易に窺い知る事が出来る。 布団を被り直し身体の居心地を戻して、いざ目くるめく幸福感と満足感を味わい尽くすべく、紫は己の意識を暖かな誘いへと一心不乱に落として―― 「紫様、お食事が冷めてしまいますから、そろそろ起きて下さい」 「きゃっ」 情け容赦の無い言葉と寒さによって紫は、幸福に包まれ掛けていた意識を引っ張り戻されてしまう。 思わず目を開けた際に視界に飛び込んで来たのは、自分を優しく慎ましく暖かく包んでくれていた布団を引っ掴む、金色九尾な式の姿。 「……何するのよ、藍」 呆れた様な色を惜し気もなく浮かべる自分の式、八雲藍に向かって紫は、不満気に口を横一文字に引き伸ばして、う〜、となるべく可愛らしく聞こえる様な唸り声を、精一杯演じながら上げてみる。 勿論、身体を起こすという面倒な事は、全く試みていない。幸福の熱を逃さない為に、身体を丸めるだけである。 「布団を返しなさい。じゃないと私、風邪引いちゃうわよ?」 「夕方に起こせと言ったのは、紫様自身じゃないですか。御飯が冷えるのが嫌だから起こしなさい、って」 「気分が変わったのよ、気分が。だからね、藍、早く布団を返しなさい。私のこんな団子蟲みたいな情け無い格好、見たく無いでしょう?」 器用に熱を逃さない様に、身を捩って丸くなる。それでも熱が逃げてしまうのは、やはり致し方無いのだろうか。 だからこそ紫は、一刻も早く布団を取り返して理想郷へと旅立つ為に、恨めし気な視線の成分をもう六割程強めに調整しながら、藍を睨み付けてみる。勿論、身体は団子蟲を髣髴とさせる程に、丸く丸く縮こまりながら。 尤も、その丸くなるという行為が仇となって、恨めし気な視線の効果をたっぷり十割は削減していた為に、藍への効果は全く無かったのだが、当の紫本人がそれに気付いた様子は、微塵も見受けられない。 主の、暴挙とは呼べない程に浅ましく情けない行為に、遠慮する事無く額を押さえながら、藍は長くて深い溜め息を吐き出す。 「もう慣れていますから平気です。それに紫様の気分が変わっても、お食事の熱は待ってくれません。冷えた八宝菜なんて、食べたくありませんよね?」 「そりゃそうよ。笑いながら後ろに引っくり返るハゲなんて、絶対に食べたく無いわ」 「乱交騒ぎで恥を忍んだ太郎君は関係有りません。いい加減、起きて下さい」 「藍、それはかなり無理があると思うわよ、色々と」 「……今日の紫様のお食事は、氷嚢のごとく冷え切って固まった八宝菜で決定ですね」 「あぁん、藍のいけずぅ〜」 丸くなりながら敷布団の上で、くねくねと器用に蠢いて見せる紫。本人は媚びているつもりなのかもしれないが、非常に鬱陶しく感じてしまうのは、恐らく気の所為では無いだろう。 一方の藍は最早、馴れているのか諦めているのか再び溜め息を吐き出すと、それ以上は相手にしなかった。 「早く来ないと、本当に冷めちゃいますからね」 それだけを残すと、丁寧にもお辞儀をしてから襖を閉める。ちなみに愛しい布団は、容赦無く持って行かれた。 「持ってかないでー」 諦めきれないのか今度は、う〜、と可愛らしく聞こえると思う唸り声に加え、某紳士達が一斉に決起すると伝わる謳い文句で抗議してみる。しかしそれも、襖の向こうから聞こえた廊下を歩く音によって、徒労に終わったと即座に判明してしまった。 黄昏時、敷布団の上で横たわる、スキマ団子。傍から見て情け無い上に、語呂も悪い事この上ない。 仕方無いので紫は、渋々とした表情ながらも団子蟲から人型へと進化すると、立ち上がって伸びをしてみる。同時に欠伸が出てしまったが、なるべく気にしない事にしておいた。 伸びのおかげで、少しだけ覚醒した頭を軽く振りながら紫はしゃがみ込むと、敷布団の上を人差し指と中指で軽く撫でる。 ほんの僅かな挙動。それだけで敷布団の上――正確に言えば、敷布団の上に存在する空間概念にズレが生じてスキマが現れ、さらに一瞬で肥大というプロセスを実行して、スキマから穴へと覚醒する。 準備は万端。 後は、その穴へと躊躇無く飛び込んで、同時に部屋の上空に出現した別の穴から飛び出せば、あっという間に出来上がり。 涎の乾いた跡は何処にも無く団子蟲など微塵も感じさせない、紫を基調とした服に身を包む胡散臭さ満天のスキマ妖怪、八雲紫のお出ましだ。 「呼ばれて飛び出てぇ」 誰も呼んで無い、などど突っ込んでくれる輩も居ないので、紫の言葉に答える声は当然、無い。 にも拘らず、紫は嬉しそうにうっすらと微笑みを浮かべると、出口の襖とは逆の方へと振り返る。 その先には特に何か怪しい物も見当たらず、人影などその欠片の影ですら見受けられない。橙色の斜光によって、例外無く満遍無く彩られたマヨヒガの一室が存在するだけである。 「そこの通りすがりの誰かさん、ちょいとお時間いいかしら?」 だがそれでも、一点を見据え続ける紫は微動だにしない。 食事が氷嚢もどきの八宝菜になる事など、既に忘却の彼方へと置き去りにしてしまったかの様に動かずに、静かに佇んでいる。 部屋の中にも拘らずに日傘を差し、もう片方の手に艶やかな装飾の施された扇を握るその姿から、寝惚けながら式に愚痴を垂れる様相を想像するのは、かなり難しいだろう。 在るがままに八雲紫は、黄昏色に染まり続ける。 「今、此処にこうやって立っているのは……極めて平凡な一人の人間が思い浮かべる、私の姿なの」 別の生き物が蠢く様に形を変えながら、艶かしく言の葉を紡ぐ。 うっすらと笑みを浮かべる紫の視線の先には、確かに誰も居ない。せいぜい、敷布団と簡素な箪笥が置かれているだけ。 意思を伝え共有するべき相手など、その部屋には存在する筈が無かった。 「他の人間達の私は、どう在ってくれるのかしら? 此処以上に強大なのか、又はその逆でとんでもなく惰弱なのか……どちらにしろ、興味が尽きる事は無いわねぇ、それなりには」 開いた扇で口元を隠しながら、くつくつと押し殺された様な笑い声を上げる。 部屋の中には人影の欠片も無く、霧と為った鬼が漂う妖気も感じず、何者かが聞き耳を立てている気配すら皆無。 紫は、それを理解していた。その場に居るのが彼女だけだったが故に、誰よりもその事実を理解し尽くしていた。 だからこそ、八雲紫は【こちら】へと静かに視線を傾け、ねっとりと語り掛けてくる。 「そう、私は興味が尽きない。此処に在る私達を覗き見、頭の中で組み立てて膨らませて、千差万別、個別独自の私達を生み出す……うふふ、面白いわよね、人間って」 心底可笑しそうに呟きながら、紫は扇を仰ぐ。ゆらゆらと揺れるのは、橙色に染め上げられた中でもはっきりと認識できる程に濃い、朱色の装飾。 弄ばれる朱は、命の源に勝るとも劣らない鮮やかさを醸し出しながら、紫の手の中で踊っていた。 「面白いから、色々と試したくなってくるのよねぇ。スキマを弄って此処に連れて来たり、冬眠前に料理なんかしてみたり。でも一番面白いのは、やっぱり覗き見かしら」 揺れる扇がぴたりと静止し、朱色も自然と踊りを止める。 紫の表情に変化は無い。うっすらと瞳を細めて、何も無い筈の【こちら】をしっとりと見つめ続ける。 口元は扇によって隠されている為、詳しく窺う事は叶わないが、恐らく上向きの三日月を髣髴させる笑みの形に、歪んでいる事だろう。 「此処を覗き見る人間達と同じ様に、私が向こう側を覗き見るの。色んな反応が見れて、楽しいのよねぇ……そうね、例えば、こんな風に」 言うや否や紫は、眼前の何も無い空間を扇で軽く撫でる。 朱色が通った場所に横一文字に線が生じ、音も無く引き裂かれてスキマへと覚醒し、覗き見るには充分な大きさの穴へと成熟。 あっという間に、紫特製の即席覗き穴が完成する。 「良かったら、ご覧になって?」 濃い紫に覆われた、スキマの中。無数の手と瞳と無機物が、蠢き這いずり回るのが垣間見える。 そんな、横一文字を押し広げて覗き見える紫の中に、それは在った。 蠢く紫の中に横たわる、清涼な白の穴。 小さなその向こう側には、外の式が映し出した薄桃色の花々に浮かぶ文字の羅列を眺める、一人の人間の後姿―― 「はい、お終い」 乾いた音と共に、白の穴も蠢く紫も巻き込んで、スキマは一瞬で消失する。 扇を閉じた紫の顔は、やはり面白可笑しそうに微笑んでいた。 「続きを見るには、追加料金が必要よ……尤も、本当に見たいのなら、だけどね」 くつくつと、気味の悪い笑い声が押さえた口から漏れ出る。 紫はそれだけを言うと、最早興味を失ったのか【こちら】からゆったりと身を反して、部屋の出口である襖へと歩み寄る。 「藍ったら……まさか本当に、氷嚢みたいに冷えて固まった八宝菜を、用意しているんじゃないでしょうね……」 何やら深刻そうに呟きながら紫は襖を引いて廊下に出ると、閉める為に襖へと手を掛けながら、最後に【こちら】へと視線を向けた。 背筋が寒くなる程に整った、美しい微笑み。 幾分か勢いの削がれた、黄昏色の斜光に照らされ煌く、金細工を思わせる豪奢な金髪。 八雲紫が、見つめていた。 「明日のお祭り、楽しみにしているわ」 笑みが濃くなり、口の端がさらに吊り上がる。 「一人ぼっちで何処かをウロウロしてくれると、お姉さん嬉しいかも」 開かれた扇の朱色が、手の中で軽やかに舞う。 「冷えた八宝菜だけだと、やっぱり物足りないのよねぇ」 屋根の下の日傘が、微かに波打つ。 「そういう訳だから、もしスキマを見掛けちゃったら、遠慮無く近づいて頂戴ね」 紫を基調としたドレスの裾が、着る者の動きに合わせて揺らめく。 「では人妖の皆様、御機嫌よう」 童女の様な微笑みを浮かべながら、八雲紫は音も無く襖を閉めた。 ◆◆◆ 大勢の酔狂なる人妖の、壮絶な弾幕消耗戦。 弾幕に被弾して、力尽きる事態。 所持するボムが足りずに、気合避けで泣く泣く後にする事態。 様々な困難が、予想されると思います。 しかし、どんな事態に陥ったとしても、これだけは忘れてはいけません。 紫色の蠢くスキマと、胡散臭い背後の気配。 この二つには、くれぐれも気をつける様、お願い申し上げます。 ほら、貴方の後ろにも―― |
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