カタカタカタカタ…… 日本のとある都道府県のとある市町村のとある番地にある、とあるアパートの一室。 ここに現在住んでいる、これといって人生にも外見にも特徴の無い、一人の男。 彼は今、別段特徴の無い一台のパソコンに向かい、キーボードで文章を打ち込んでいた。 「……これで良し、と」 男の視線の先には、うっすらと光るディスプレイに映された、とある電子掲示板。 それは【東方シリーズ】と呼ばれる同人ゲームについての設定・登場人物・その他諸々を、意見を述べたり情報交換したり好き放題したりする電子掲示板であった。 「うん、書き込まれているな」 声に出す必要もないのに、男は満足したように呟いた。 彼が書き込んだのは【八雲紫】という【東方シリーズ】に度々出演する、とある大妖怪についてのスレッドだった。 ここに男は、とある文章を書き込んだのである。 『ゆかりんになら食べられてもいいかな。年増だとか気にしない』 【八雲紫】という登場人物の設定の中に【冬眠前には人間を蓄える】という一文がある。 そこから、大妖怪である【八雲紫】は人間を捕食するという考えが広まっているのだ。 ちなみに文中の【ゆかりん】とは【八雲紫】の愛称、いわゆるニックネームである。 男はこの【八雲紫】というキャラクターをとても気に入っているので、こういった書き込みをしたのだ。 勿論、半分冗談のつもりであり、はいどうぞと命を差し出すつもりなど、男の頭の中には毛頭ない。 それだけこの【八雲紫】に思い入れがある、という一種の自己表現のつもりなのだろう。 「年増は余計だったかなぁ……まあいいや、ゆかりん可愛いし」 カカカっと笑みを浮かべながら、男は再び何かを書き込もうとした。 「あら、嬉しいことを言ってくれるのね?」 不意に背後からした声に驚き、慌てて後ろを振り返る。 一人暮らし中で、おまけに恋人などいない男にとって、他人の声、それも妙に艶を含んだ女の声が聞こえてくるなど、まったく予想だにしなかったのだろう。 その為か、驚きながらも頭の片隅で「幻聴が聞こえたかな」という、冷静な部分も残っていた。 だがそこには、声の主と思われる一人の妙齢の女が立っていた。 安っぽい蛍光灯の光でも、生気を与えられたかのように煌く豪奢な金髪。 艶やかな、それでいて毒々しい程に鮮やかな紫を基調とした、和洋折衷とは言い難い奇妙な服装。 日傘、と形容するしかないのだが、どこか傘以外の物にも見える不可思議な日傘。 そして、絶世の美女と謳われる程に均整のとれた――だがしかし、不気味なほどに中身の無い微笑みを浮かべる、美しい顔。 これでは、まるで―― 「や、八雲……紫……さん?」 驚き。 それ以外に何も含んでいない、ある意味では純粋と言える言葉が、男の口から吐息と共にかすれ出た。 「うふふ、だ〜いせ〜いか〜い♪」 女――大妖怪【八雲紫】は、心底楽しそうな口調で答えた。 「ほ、ほんもの……?」 一方の男は、未だに事態を呑み込めていなかった。 無理もないだろう。 二次元、それも空想の中でしか存在しないはずの大妖怪が、目の前に居て自分を見ているのだから。 「――で、早速だけど、ここに書いてある事って本当?」 「ひっ――!」 突然、艶かしい吐息と共に真横から吹き付けられた言葉に、男は情けない悲鳴をあげてしまう。 彼のすぐ近くには、相変わらず不気味で美しい微笑を浮かべる【八雲紫】の姿。 一瞬前までは、確かに数メートルほど離れた場所に居たはずなのだが…… 「ほら、これよ、これ」 男の驚きにも、自分が一瞬で数メートル移動したことも歯牙にもかけずに、彼女が指差したもの。 『ゆかりんになら食べられてもいいかな。年増だとか気にしない』という一文。 「え……い、いや、それは、その……」 「あらあら、やっぱり食べられるのは嫌かしら? それもそうよね〜、痛いし暗いし、死ぬのは怖いわよね〜?」 少しだけ、ほんの少しだけ【八雲紫】は、その顔に感情を浮かべる。 優しい微笑を。 それに、ほんの少しだけ救われたように男は表情をほころばせ掛ける。 「けど駄目。あなた、私のこと年増って言ったじゃない。いけないのよ〜、こんな若くて綺麗なお姉さんに、そんな事言っちゃ」 楽しそうな、本当に楽しそうな口調でそれだけ言うと【八雲紫】は、ゆっくりと男に近づき始めた。 最早その顔は、完全にひとつの感情で塗り固められている。 喜び、感激、歓喜、喜悦、狂喜―― ありとあらゆる、しかしひとつの感情で塗り固められた顔。 ああ、これは能面だ。 まさしく、優しく柔和に微笑んだ能面だ。 一見すると表情の無い能面は、しかしひとたび舞台にあがると一瞬で命を持つ。 動きによって、喜びも悲しみも怒りもする。 しかしそれ以上に、影によって感情を現す。 影で口が裂け、目は歪み、世にも恐ろしい【微笑み】を浮かべる。 それが能面。 動かず、しかしそれ以上に表情を浮かべる。 それが能面。 ああ、能面が近づいてくる。 もう男には何も出来ない。 何も出来るはずがない。 否、叫ぶことはできるだろう。 足掻くことは出来るだろう。 泣き悔み、命乞いをすることだって出来るだろう。 しかしそれは出来ない。 出来ようとも、やろうとしない。 何故なら、意味を為さないから。 本能だろうか。 知識だろうか。 それとも、人間の言葉では現せない、深い深い何かだろうか。 兎にも角にも、その何かが、男に出来る全てのことは一切意味を為さないと、教えてくれていた。 否、出来ることはひとつ、たったひとつだけあった。 それは狂うこと。 絶望し、狂うことだ。 だから彼は狂う。 そう決めた。 何故か分からないが、そう決めた。 ああ能面が近づく。微笑みが近づく。喜びが近づく感激が近づく歓喜が近づく喜悦が近づく狂喜が近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づく近づくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくちかづくチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅクチカヅク―― 【八雲紫】が、近づいてくる。 「ふぅ……やっぱり若いと違うわね。本当言うともっと柔らかい方が好みなのだけど……贅沢は言ってられないわよね」 日本のとある都道府県のとある市町村のとある番地にある、とあるアパートの一室。 たった今、住む人間が居なくなったこの部屋で、大妖怪【八雲紫】は結構ご機嫌だった。 「それにしても年増だなんて……いくらなんでも酷いわ。お姉さん泣いちゃうかも」 誰も見てないのにおよよと泣き真似をする彼女だが、誰も居ない部屋である。 もちろん誰も反応してくれるはずがない。 「……やめた」 流石に虚しくなったのか即座に泣き真似をやめると、今度は部屋の主のものだったパソコンに近づく。 そこには、とある電子掲示板と、膨大な書き込みの数々。 「これからまた寒くなるし……腹ごしらえは、しっかりしとかなくちゃね」 うふふ、と相変わらずの不気味で美しい微笑みを浮かべる【八雲紫】。 「――スキマは何処にでもあるわ。それこそ彼岸此岸問わず、ね……今度はあなたの家に、お邪魔するかもしれないわよ」 誰に言うでもなく呟かれた声は、誰も居ないアパートの一室にしんしんと響いた。 文字通り、誰も居ない部屋に。 声の主も、部屋の主も居ない、その部屋に―― |
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