忘れ物の置き土産



「今年も調子が良いわね〜」
 しんしんと降り積もる雪の中、一人の妖怪はこの場所に来て早々、こんな事を言ってのけた。
 いきなり何の事だと大抵の者が思うが、彼女が冬の妖怪という事と今年の冬の寒さが半端でないという事を知っていれば、言葉の意味が分かるだろう。
 夜の何も無い雪原の中で、冬の忘れ物――レティ・ホワイトロックは、ふわふわと笑みを浮かべながら、嬉しそうに雪降らせる曇天を見上げていた。
 どうやら、かなりご機嫌な様子である。
「……こんな所に呼び出しておいて、何の用なのよ?」
 そんなご機嫌な妖怪に投げかけられたのは、かなりご機嫌ナナメそうな声だった。
 声の主は、まだ幼さの残る――というか、まんま子供の顔立ちをした、空色の髪の女の子。
 声色と同じようなご機嫌ナナメな表情を隠しもせずに、湖上の氷精――チルノは、自分を呼び出した妖怪を、あらん限りの敵意を寄せ集めて睨みつける。
 ……尤も、まんま子供の外見もあってか、傍目から見ている分には全く敵意が感じられなかったが。
「あら、呼び出したら駄目だったかしら?」
「別にそんな事言ってないじゃない!」
 口元を隠しながらやんわりと言ったレティの言葉に、思わず強く反応してしまうチルノ。
 傍目から見ると、反発する妹とそれを優しくなだめる姉の様にも見えるから、不思議なものである。
 妖怪と妖精。種族の全く違う、二人なのに。
「それより答えなさいよ! どうして私を、こんな所に呼び出したのよ!?」
 何故か顔を赤くしながら叫ぶチルノ。馬鹿にされたとでも思っているのだろうか。
 妙にムキになっているところが、何とも微笑ましいものである。
 レティもそう感じたのか、やんわりとした微笑みをさらに少しだけ深いものにする。さらには、口元をおさえた手の間から笑い声も漏れ出していた。
 それに対して、チルノはまたしても強く反応する。
「なにが可笑しいのよ!」
「うふふ、ご免なさいね。あなたが凄く面白かったからついつい……」
「な――!」
「怒らない怒らない、はいコレ」
 耳まで真っ赤になったチルノの眼前に、レティは何処からか取り出したのか何かをつきつけた。
 その予想外の行動に、一瞬だけチルノの氷を生み出そうとした手が止まる。


 彼女の眼前に現れた物。それは、それなりの値段がしそうな、一本の酒瓶だった。


 目の前の氷精の動きが止まったのを確認すると、レティはさらに言葉を続ける。
「雪の綺麗な夜だし、たまには飲もうかなって思ったの。でも冬の妖怪と、真冬の真夜中の雪の中で飲もうって物好き、なかなか思いつかなくてね〜」
「……それで、私を呼んだの?」
「そうよ。氷の妖精なら、真冬の真夜中の雪の中でも平気でしょう?」
「平気だけど……でもそれなら、普通に呼べば良いじゃない!」
「まあ、たまには、ね……それともあなた、もしかしてお酒飲めない?」
「の、飲めるわよ!」
 うっすらと目を細めるレティの言葉に、やっぱりチルノはムキになって反論してしまう。
 こういった態度をとる事自体が彼女を楽しませているとは、露とも知らずに。
「うふふ。じゃあ、飲みましょうか?」
「いいわよ!」
 かなりご機嫌な様子で、何処からか二つのグラスを取り出すレティと、何故か語尾を荒くしながら答えるチルノ。
 二人は適当な岩を見つけると、その上に並んで腰掛ける。
 酒瓶からグラスへと注がれる、透明な液体。
 適当に注いだそれを、冬の妖怪は氷の妖精へと手渡す。
 相変わらずの、柔らかくご機嫌な微笑みを浮かべながら。
「――乾杯」
 それだけ言って手に持つ自分のグラスを、チルノの持つグラスに近づける。
「……乾杯」
 レティの意図を理解したチルノは、若干不機嫌そうに呟きながら、レティの持つグラスへと自分のグラスを、さらに近づける。
 軽く打ち合わされる、ふたつのグラス。
 つられるように辺りに響く、澄んだ音。
 何事も無いかのように降り続ける、白い雪。
 そんな中でたった今、一人の冬の妖怪と一人の氷の妖精の、ささやかな酒宴が幕を開けた。
 静かに、とても静かに。



 ◆◆◆



「――ひとつ、聞いてもいいかしら?」
 唐突にレティが呟いたのは、二人が二杯目に口をつけようとしていた時だった。
 彼女が持ってきたお酒は、それなりにアルコール度数の強いものだったのだが、静かに口を開くレティの横顔には酔った様子がほとんど見られない。
「ん〜、なぁにー?」
 答えたチルノはレティとは逆に、かなり酔いが回っているようだった。
 顔が赤いのは言うまでもなく、答えた声の呂律も危うい。
 それでもレティをじっと見ながら、質問を待っているのを見る限りでは、まだ意識は保てているらしい。
「こんな事を聞くのも、変なんだけどね……」
 それだけ言うと、レティは言い淀んでしまい、そのまま黙ってしまった。
「……なによ、早く言っちゃいなさいよ」
 珍しく躊躇うようなレティの言葉に、チルノは少しだけ違和感を覚える。
 先程までの飄々とした雰囲気もそこには無く、どこか億劫そうな横顔が垣間見えるだけだ。
 それから少しの間、考え込むように曇天を見上げるレティと、その横顔を訳も分からずに見つめるチルノ。
 唐突に訪れたのは、静かで重い静寂の空気。
 静かで心地良いはずの冬の風さえ、耳に痛いほどだった。
 そんな状態が、どれほど続いたのだろうか?
 永遠に続くとも思われるような静けさだったが、不意に漏れた溜め息によって、何処かへと霧散してしまう。
 溜め息をついたのは、曇天をただ見上げていた冬の妖怪。
「えっと、ね――」
 そう言ってチルノへと振り向いたレティの顔には、相変わらずの柔らかい微笑み。
 雪の夜、という情景もあわさってか、その表情はいつになく物悲しく寂しいものも、感じられた。


「――私の事、嫌い?」


 出来るだけ何気なく、しかしはっきりと聞き取れる言葉。
 その言葉に対してチルノは。


「うん、嫌い」


 こちらも何気なく、しかしはっきりと聞き取れる言葉で返してみせた。
「……そう」
 あまりに単純明快なその言葉に、少しだけ呆気にとられたレティだったが、すぐにそれだけ言うと視線を元に戻す。
 何処か遠くを見つめながらグラスを傾けるその横顔には、尚も変わることのない柔らかい微笑みが浮かんでいた。
「出来たら、理由を教えてくれない?」
 曇天を見上げながら、ごくごく自然に言葉をこぼすレティ。
「だってあんた、私の事を【自然の歪み】とか言ったらしいじゃない。そんなの聞いたら、誰だって嫌いになるわよ」
「……誰から聞いたの?」
「新聞記者」
「そっか……」
 チルノの言葉に、何処か納得したかのように呟くと、再びグラスを傾けるレティ。
 だが自分のグラスに中身が無い事にようやく気づくと、淡い苦笑いを浮かべながら、グラスに酒を注ぎ足す。
「……あんたさ、なんで私にそんな事聞くのよ?」
 一気に飲み干した一杯目とは違い、ちびちびと舐める様に飲みながらチルノは問い掛けた。
 その目に浮かぶのは、純粋なたった一つの疑問。
 どうやら、レティが何故そんな事を聞いてきたのか、本気で気になるらしい。
 ここら辺は、妖精特有の純粋な面、とでも言うのだろうか。
「そうね〜。酔った勢いっていうのも、あるだろうけど――」
 別段、何でもない風に答えるレティ。
 その言葉とは裏腹に、目の前の彼女に酔った面影はまるで見られなかった。


「――強いて言うなら、自分が嫌われ者って分かったから、かな〜」


「……え?」
 予想外の言葉に、チルノは一瞬で酔いが冷めてしまい、そのままレティの横顔に目が行ってしまう。
 爆弾発言を投げかけた本人は、何でもない風に曇天を見上げているだけだというのに。
「冬は、生物にとって厳しい以外の何物でもない。その凍てつく寒さは、全てを奪っていくわ。食べ物も、温もりも――そして、命さえもね」
 呆気にとられるチルノの様子に気付いていないかのように、レティは平然とした態度でぽつりぽつりと語り始める。
 その言葉は、横に座る氷の妖精に言い聞かせるようにも聞こえたし、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「そんな冬が嫌われ者になるのは、至極当然よね。そうしたら、冬にしか活動しない私が嫌われるのも、割と自然な流れなのかも」
 自嘲。
 ふわふわとした雰囲気を持つ冬の妖怪に、あまりにも似つかわしくない表情。
 それが今、その冬の妖怪の顔に浮かんでいるのを、チルノははっきりと目撃した。
「そんな風に考えちゃうと、他の妖怪が私の事をどう思っているか、どうしても気になっちゃって」
 それだけ言って、レティはチルノへと振り向く。
 浮かんでいるのは、相変わらずの柔らかい微笑み。
 柔らかいんだけど、何処か寂しげな感じもする微笑みだった。
「おまけに、同じ冬の妖怪達からは『あんたは冬って感じじゃない』なんて言われて、爪弾きされるし……ふぅ」
 グラスを傾け、一息に中身を飲み干すレティ。
 その柔らかい表情とふわふわした雰囲気は、確かに【冬の妖怪】という冷たい響きを持つ言葉には、あまりにも懸け離れていた。
「――本当、参っちゃうわよね」
 付け加えるようにそれだけ言うと、レティは笑みを浮かべてみせる。
 柔らかい、いつもの微笑み。
 似合わない、自嘲の微笑み。
 困ったような、苦笑の微笑み。
 全部が混ざっていて何だかよく分からない、でもやっぱり寂しげな微笑みだった。
「……」
 そんなレティを、チルノはただ見ているだけだった。
 何かを言う様子も無く、黙ってその微笑みを見つめているだけである。
 黙したまま向かい合う、一人の妖怪と一人の妖精。
 しんしんと音も無く降る雪もいつの間にか止んでいたが、二人には気付いた様子も無い。



 ◆◆◆



 ……どれくらい、時間が経っただろうか。
 流れるように夜空を覆う雲が退いていき、月明かりが二人と雪原を照らす。
 今宵は、見事な満月だ。
 うっすらと蒼を着飾る、狂気が垣間見えるくらい、美しい満月。
 その光が、グラスに注がれた琥珀色の液体を、神秘的に煌かせる。
 何をとっても、美しい。
 美しい以外に形容の仕様が無いほど、美しい。
 この幻想郷において、尚も幻想的と感じさせるほどに、美しい。
 それ程までに、二人を取り巻く全ての情景は、美しかった。
「――あんたさ」
 唐突に口を開いたのは、氷の妖精だった。
 幼く白いその顔立ちは、蒼い月明かりの中でさらに美しく際立っている。
 普段こそただただ無邪気な彼女も、優艶な月光に晒された事により、普段は垣間見ることの出来ない、子供特有の美しさを存分に醸し出していた。
 それは、思わず息を呑むほど。
 白い肌はより際立ち、氷を思わせる羽は優雅に煌き、空色の髪は万年雪を思わせる程に澄んでいた。
 そんな自分の恐ろしい魅力にも、自分を際立たせる月明かりにも気付く事無いまま、チルノは遠慮なく口を開き。


「実は、私より馬鹿でしょ?」
 場の空気を完膚無きまでにぶち壊す一言を、躊躇する無く言ってのけた。


「……はぁ?」
 あまりに突拍子も無い失礼な言葉に、思わずレティは目が丸くなってしまった。
 無理もないだろう。
 比較的に精神が高等でない妖精の中でも、影で【馬鹿の代名詞】と言われている、目の前の氷の妖精に、よりにもよって馬鹿呼ばわりされたのだから。
 仮にこれを言ったのが、性格の温厚なレティ以外だったとしたら……あっという間に、弾幕で一網打尽にされているはずだ。
「だって、そんなこと気にしているんだもん。馬鹿としか言えないじゃない」
 そんな危機一髪な状況にも全く気付かずに、チルノはさらに言葉を続ける。
 唖然半分、興味半分の心持ちで黙って聞いている、冬の妖怪も目に入らないかのように。
「他の奴らの言う事なんて、気にするだけ【くたびれ損の骨折り儲け】になるだけよ」
 そこまで言って、得意そうに胸をふんぞり返らせてフンっと鼻息を出す。
 明らかに何処か間違っていたのだが、レティはとりあえず黙っておくことにした。
「……それの所為で、周りに友達って呼べる人が、一人も居なくても?」
 問い掛けは、あくまで自然に。
 しかし声が多少強張るのは、どうしても防げない。
 鳩尾の奥に感じる、微かなむず痒さを誤魔化すかのように夜空を見上げながら、レティは再びグラスを傾けた。
 自分の何気ない悩み事に、横に居るお馬鹿な妖精がどう答えてくれるのか、ほんの少しだけ期待しながら。
「ん? あんた、友達いないの?」
 果たしてチルノは、即座に答えてくれた。
 問い掛けに問い掛けるという、あまり誉められた答えではあったが……まあ妖精なら、仕方が無いだろう。
 だからレティはそう思う事にして、軽く頷いて見せた。
 あくまで視線は、夜空を彩る星を見上げながら。



 ◆◆◆



 その生まれから他の妖怪から相手にされることも無く、その雰囲気から同じ冬の妖怪に爪弾きにされてきた、レティ・ホワイトロックという一人の冬の妖怪。

 温和な性格が幸いして、露骨に忌み嫌われるという事は無いのだが、それでも友達と呼べるほどに親しい者は、誰も居なかった。

 別にそれが、心の底から辛い訳では無かった。

 言い訳に聞こえるかもしれないが、今のままでもそれなりには満足しているつもりだった。



 ――だけど。

 だけどやはり、何でもない事で笑いあえる間柄が居ないのは、何処か物悲しいものを感じていたのも事実だ。

 馬鹿みたいに語り合い、笑いあえる二人組を目にする機会が増えたレティにとって、その思いは確固たる物になっていた。



 ――私も、あんな風にお喋りをしてみたい。

 ――私も、あんな風に笑ってみたい。

 一人の冬の妖怪がそんな思いを抱くのに、そう大した時間は掛からなかった。



 ◆◆◆



「ふーん、そうなんだ」
 言葉と共に、チルノは一息に琥珀色の液体を飲み干――そうとして、苦しそうに咽た。
 げほげほと涙目になるその姿は、見る者によっては何処かそそる光景……だったのかもしれない。
 少しの間、チルノの咳き込む声だけが聞こえる。
 げほげほごほごほ、と。
 やがて、ひとしきり咳き込んで楽になったのか、溜め息をひとつしてレティへと向き直ると、一言。


「じゃあさ、私が友達になってあげる」


「………………はぁ?」
 再びの突拍子も無い言葉に、またしてもレティは目を丸くしてしまった。
 無理もないだろう。
 計らずとも自分の望んでいたモノが、目の前にいきなり転がり込んできたのだから。
 そしてそうした事が起こった時、大抵の者は喜び勇む前に、戸惑い慌てふためくのが条理である。
 レティ・ホワイトロックという一人の冬の妖怪も、その例外ではなかった。
「あ、あなた……意味分かって、言っているの?」
「当たり前じゃない」
 慌てる口調も隠せないレティに対し、チルノは何でもない風に断言してみせる。
 相変わらずの得意気なその顔は、お世辞にも分かっている風には見えなかったのが、レティの正直な感想だ。
 しかし当の本人は、そんな冬の妖怪の様子に気付いた様子もなく、尚も言葉を続ける。
「私が良いって言っているんだから、良いに決まっているじゃん」
「それは……そうかもしれないけど……」
 馬鹿正直みたいな正論に、珍しくレティは戸惑って言葉に詰まってしまう。
 普段とは正反対な立場の二人は、もし通りすがった者が居たとしたら、それなりに楽しめた状況だったろう。
 尤も、こんな真冬の真夜中に外をうろつく物好きなど、滅多に居るはずも無いのだが。
「私だってそりゃあ、友達が出来るのは嬉しいけど……でもあなた、なんで私なんかと……さっき、私の事が嫌いって……」
「ああ、それね」
 待っていました、とばかりにチルノはニカッと微笑む。
 純真無垢と馬鹿っぽい二つの笑みが絶妙に混ざり合った、子供特有の眩しい笑顔だった。
 思わずレティがその笑みに見惚れてしまう間に、チルノは右手に持ったグラスを少しだけ掲げると、こう言ってのけた。


「だって、これだけ美味しいお酒をタダで飲ませてくれたからね。友達になるくらい【お高い御用】って訳よ」


 また何処か間違えていたのだが、結局レティはそれを注意する事は出来なかった。
 ――否、何も言えなかったと説明する方が正しいだろう。
 何故なら、目の前の【馬鹿の代名詞】のあまりにも眩しい笑顔と言葉に、心奪われてしまっていたのだから。
 呆気に取られるレティに対して、チルノは尚も笑みを浮かべている。
 快活で、無邪気で、お馬鹿で、眩しく。
 そのニカッとした微笑みで、尚も見つめてくる。
「あなたって……」
 やがてレティの顔にも、釣られたかのように笑みが浮かび上がる。
 先程まで見せていた柔らかい、しかし先程とは違い憑き物が剥がれ落ちたかのような微笑みが、彼女の顔に広がっていた。
 そんなふわふわとした笑みを顔いっぱいに浮かべるレティは、たった一言だけチルノへと言い放った。


「――あなたって、本当に馬鹿なのね」
 正直な感想を、言い放った。
 精一杯の感謝と呆れを含めながら、言い放った。
 目の前の妖精は友達なので、遠慮なく言い放ってやった。


「な――だ、誰が――!?」
「はいはい、怒らない怒らない」
 すぐさま表情を百八十度回転させて怒鳴りかかろうとしたチルノだったが、即座に言葉を遮られてしまう。
 遮った張本人のレティは、チルノのグラスへ半ば強引に琥珀色の液体を注ぐと、今度は自分のグラスにも注ぎだした。
 流石に注いでいる最中に怒鳴りつけては、驚いて中身をぶちまける可能性もあるかもしれない。
 そう思ったのか、チルノは渋々大人しくなる。
 ちなみに、レティはチルノがそう考えると見抜いたので、わざとゆっくり慎重にグラスへと注いでいたのだが、もちろんチルノにそれが分かるはずも無い。
 やがて自分のグラスにも注ぎ終わると、今度は何かを言う暇も与えずに呟いた。
「さ、飲みましょうか?」
 グラスを掲げて、少しだけ色っぽく微笑む。
 明らかな誘い。明らかな挑発。
 目の前の妖精なら、絶対にこの誘いに乗らないはずが無い。
 冬の妖怪は、したたかな思考を脳裏に浮かべたまま、柔らかく優しく挑戦的に微笑んでいた。
「――望むところよ! 私の飲みっぷりに泣きを見せてあげる!」
 果たしてチルノは、いとも簡単に誘いへと乗ってしまう。
 乱暴とも言える動きで中身を飲み干して……また咽てしまうのだが、そこはぐぐっと我慢して一息に飲み込んでしまった。
「あら、イケるクチね」
 嬉しそうに楽しそうにそれだけ言うと、レティも負けじと一息に琥珀色の液体を飲み干す。
 こちらは咽る事無くあくまで自然に。まるで水でも飲んでいるかのようである。
「ふ、ふん! 私のマジは、まだまだこんなものじゃないわよ!」
 相手の酒豪っぷりに多少気圧され掛けたチルノだが、すぐに持ち前の気性で持ち直すと、傍にあった酒瓶をひったくってグラスへ注ぎ出す。
 別に張り合う理由など、何処にも誰にも何にも無い筈なのだが……まあ、本人達が楽しそうなのだから、良しとしよう。
 兎にも角にも、酒宴が再開されたという事実に、変わりはないのだから。



 ◆◆◆



 小さな喧しい宴会は、それなりに長く続いた。

 一人の妖精は半ばムキになりながら。

 一人の妖怪は半ば呆れかえりながら。

 それでも、二人はとても楽しそうにしていた。

 蒼い月が優雅に照らす二人の姿は、既に神秘的には見えなかったかもしれないし、美しくも無かったかもしれない。



 それでも、二人の姿はとても生き生きとしていた。

 それでも、二人の姿はとても活き活きとしていた。

 それでも、二人はとても楽しそうにしていた。



 やがて時間は、ゆっくりとも早くとも過ぎていく。

 そんな中でも二人は、楽しそうにお酒を飲んで、楽しそうに様々な事を語り合っていた。

 いつまでもいつまでも、まるで疲れるという事を、放棄したかのように。

 いつまでもいつまでも、まるでこの小さくて喧しい酒宴を、慈しむかのように。

 いつまでもいつまでも、飲んで喋って笑っていた。



 ◆◆◆



 足元に転がる、二、三本の酒瓶を何気なしに見つめながら、レティはグラスの中身を一息に飲み干した。
 ほぅ、と溜め息をつきながら、椅子代わりに岩の上に腰掛けて蒼い月を見上げる彼女。
 その膝の上で、つい先程まで一緒に飲んでいた友人は、すやすやと静かに寝息をたてていた。
 あの後、すぐに酒瓶が空になってしまったので、予備として用意していた酒瓶まで取り出して、酒宴を続けた二人。
 しかし終盤になって遂に限界が来たのか、チルノは最後の一杯を飲むと同時にうつぶに倒れこみ、そのまま泥の様に眠り始めてしまったのだ。
 氷の妖精なので風邪の心配はたぶん無いのだが、それでもそのまま放って置くのはあまりにもぞんざい過ぎるだろうと思ったので、レティは仕方なく、こうして膝枕をしているのである。
 まあ、あまり酒に強くないのにチルノは、レティに負けじと相当な量を飲んだのだ。無理もないだろう。むしろ今までの間に、酔い潰れなかったのが不思議なくらいだ。
 そんな事を何とはなしに考えながら、まだ微かに赤味の残るチルノの頬に、そっと手を当てるレティ。
 彼女の顔にはその時も、冬の妖怪には似つかわしくない、温かくて柔らかい微笑みが浮かんでいた。
「ん……」
 不意にチルノが、身をよじらせながら小さな声を漏らす。
 起こしてしまったかと思い、慌てて手を離すレティ。
「……あったかい……むにゃ……」
 しかし、聞こえてきたのは結局、ただの寝言だった。そのまま気持ち良さそうに呟くと、また静かな寝息をたて始める。
 友人の安眠を妨害せずに済んだ事に、安堵の溜め息を漏らしながら、今度は苦笑する冬の妖怪。
「まったく……冬の妖怪の膝が、温かい訳ないのに……」
 そう反論しながらも、その表情と口調は何処か嬉しそうだった。
 再び頬を撫でたくなる衝動に駆られるレティだったが、それで起こしてしまうと悪いと考えたので、ここはぐっと堪える。
「……あなたも氷の妖精なんだから……温かいなんて言っちゃ、ダメじゃない」
 何がダメなのか自分でもよく分からなかったレティだったが、ただの独り言なので気にしないことにする。というより、そんな事はどうでも良かったと言ったほうが良いのだろう。
 何故なら今はただ、こうしてじっとしていたかったから。
 膝の上に感じる、冷たくも何処か温かい友人の感触を、心行くまで存分に感じていたかったから。
 そしてやがて目覚めるであろう彼女に、笑顔で答えてやりたかった。
 おはよう、と。
 今のレティには、そんな一種の願いが、心の中に確実に根付いていた。


























 ――だが。

「……」

 そのささやかな願いが叶うのは、もう少し先の事になりそうである。

「……そろそろ、ね」

 時の流れというものは無感情に、そして全てを在るがままに、呑み込んでいってしまう。

「……」

 人も、妖怪も、物も、世界も、幻想も。
 ――そして、季節も。

「……起こさないように気をつけないと」

 今宵は、見事な満月。
 冬が最期に見せてくれる、蒼白色の蓬莱の珠。
 冬が最期に魅せてくれる、蒼白色の幻想の証。

「よいしょ――うん、大丈夫ね」

 蒼い祝福と白い狂気とが降り注ぐ中で、冬の妖怪は氷の妖精を想う。
 眠りこける妖精の枕代わりになっているのは、冬の妖怪の頭を覆っていた、温かく白い忘れ物。

「……」

 冬の妖怪の少女にとって、それは最早、必要が無かった。
 永い永い眠りの中で、心寒い自分を覆ってくれた白い帽子は、もう必要なくなった。
 何故なら――

「……ありがとう、チルノ」

 何故なら、心寒くなる理由が無くなったのだから。
 白い帽子よりも、もっともっと温もりを与えてくれるモノが、ようやく出来たのだから。

「さよならは、言わないわよ」

 冬の妖怪は氷の妖精を想う。
 冬に似つかわしくない、温かくてふわふわしている柔らかい微笑みを、顔一杯に広げながら。
 その微笑みに似つかわしくない、冷たく悲しい煌きを、たった一筋だけ描きながら。

「――――――」

 やがて彼女は視線を外すと、その体を宙に浮かせる。
 氷の妖精とは、逆の方向を振り返りながら。
 そして冬の名残り風が吹くと同時に、それと共にどこかへと飛び去ってしまった。
 ただの一度も振り返らずに、ただ前だけを、ただ虚空だけを見据えながら。



 この日、冬の旅立ちと共に、冬の忘れ物は、深い深い眠りについた。

 誰も知らない、誰もが忘れ去り、誰もが思いもつかない、何処とも知れない場所で、彼女はゆっくりと眠りについた。

 一人の、お馬鹿にして慈しむべき妖精を想いながら、ただただ眠りについた。

 掛け替えの無い、温かいモノを与えてくれた友に感謝しながら、安堵するかのように眠りについた。

 再会できる【いつか】を思い浮かべ、柔らかく嬉しそうな笑みを浮かべながら、在るがままに眠りについた。

 冬から春へと巡り移った今日この日、レティ・ホワイトロックという一人の冬の妖怪は、深い深い眠りについた。



 ◆◆◆



「……ん〜?」
 間延びした声と共に、チルノは目を覚ました。
 若干、重い頭を鬱陶しく感じながらも、何とか身を起こして上空を見上げる。
「……朝?」
 彼女の視線の先には、雲ひとつない真っ青な空が、何処までも何処までも広がっていた。
 その中で活き活きと光る太陽は、もうかなり高い位置にいたのだが、チルノはそんな事まで頭が回らない。
 なにせ昨日は、彼女が生きてきた中でも飛びぬけてお酒を大量に飲んだのだから。
「……あれ?」
 不意に、素っ頓狂な声をあげると、思い直したかのように辺りを見渡しだすチルノ。
 彼女は今さっき、思い出したのだ。
 昨日の晩に馬鹿みたいに一緒にお酒を飲んだ、一人の冬の妖怪の事を。
 お酒をご馳走された御礼に友達になってやった、一人の冬の妖怪の事を。
 その冬の妖怪が見当たらないので、こうして疑問に思って探し出したのだ。
 視線だけだったが、それでもくまなく探すチルノ。しかし目に付くのは、雪の溶けかけた無様な雪原の残りカスだけ。
 自分の探しているモノがなかなか見つからない事に苛立ちを覚えながら、チルノは尚も辺りを見回す。
「ちょっと……何処に行ったのよ?」
 思わず心の焦りを呟くのだが、返事は何も返ってこない。
 無言の返答にチルノはさらに苛立ちを覚えたのか、立ち上がろうとして腰掛ける岩に手を掛ける。


 がさり、と何かが擦れる音が、その手元から聞こえた。


「あ――」
 目をやると、そこには白い布状の物体。
 その形と色は、絶対に見間違える事は無い。
 いくらチルノが【馬鹿の代名詞】と噂される程に馬鹿だからといっても、それだけは見間違えるはずも無い。
 だって、昨日の酔い潰れる直前まで、しっかりと見ていたのだから。
 一緒にお酒を飲んで、一緒に笑って喋っていた、一人の冬の妖怪が着けていたのだから。
「……」
 恐る恐る、だけどしっかりとそれを手に取り、持ち上げる。
 改めて間近で確かめてみるが、やはりその白い帽子は、昨日の酒宴を共に過ごした、出来立てホヤホヤの友達の物だった。
 何故こんな所に置き去りにしているのか……などの様々な疑問が頭を巡るが、とりあえずチルノはそれらを奥へと詰め込んで落ち着かせると、その帽子をもっと詳しく調べてみようと思い、見上げるような形にする為にさらに持ち上げる。


 冬の忘れ物の忘れ物から、はらり、と舞うように何かが彼女の顔を掠めたのは、その時だ。


 慌ててチルノが目で追うと、そこには白くて何の変哲も無い、ただの小さな一枚の紙が落ちていた。
 よく見ると、何やら文字がうっすらと書かれてある。
 そっと、その紙を手に取るチルノ。
 彼女の視線の先には、流麗で優しい感じの文字が白い紙の上で、短い文章を形作っていた。



 ◆◆◆



 また来年、この場所で一緒に飲みましょう。

 その時はもう少し、お酒に強くなっていてくださいね。

 帽子は、あなたに預けておきます。

 あなたが私を、忘れてしまわないようにする為に。

 勿論、被っても良いですよ。たぶん、似合うと思いますから。

 では、御機嫌よう。



 出来立てホヤホヤの、あなたの友人より。



 追伸。

 言葉の勉強も、もう少ししておいた方がいいわよ。

 お馬鹿と呼ばれたくないなら、尚更、ね。



 ◆◆◆



「……何よそれ」
 微かに不機嫌そうにチルノは呟くと、ムスッとした顔で碧空を見上げる。
 彼女は少し怒っていた。友人が勝手に何処かへ行った事でも、勝手に帽子を置いていった事でも無い。
 お馬鹿、と書かれていたことに、少しだけ怒っていた。
 ほんの少しだけでも、自分が馬鹿と自覚している者にとって、他者からそう言われるのは苦痛以外の何物でもないからだ。だからチルノは、お馬鹿と書かれていたことに、少しだけ怒っていた。
 だけど今は、その怒りを向けるべき相手が居ない。その相手は、勝手に手紙と帽子を残して、何処かへと行ってしまったのだから。
「――ふん、いいわよ」
 だからチルノは、それだけを呟くと、今度は不敵な笑みを浮かべた。
 子供特有のあどけなくて、大人には決して真似の出来ない程に自信に満ち溢れた、とびっきりの笑みを。
「来年こそ、私の飲みっぷりに泣きを見させてあげる!」
 声高々に、青空と太陽に向かって吼える、氷の妖精。
 何処かで呑気に笑っているであろう冬の妖怪に届けと願いながら、さらに吼える。
「だから、首を洗って待っているのよ! レティ・ホワイトロック!」
 青空に消えても、太陽に跳ね除けられても、昨日できたばかりの友人に届かなくても。
 それでもチルノは、ただただ上に向かって叫んでいた。
 冬の忘れ物の置き土産をしっかりと握り締めながら、来年にはまた会えると信じて、何処かに向かって叫び続けていた。
 


























「あ、いたいた。お〜い、チルノちゃ〜ん!」

「……ん、大妖精じゃん。どしたの?」

「どしたの、じゃないよ。チルノちゃんたら昨日、急に何処かへ行っちゃうんだもん。だから心配になって探してたのよ」

「そっか……ありがとね」

「……チルノちゃん、大丈夫? もしかして変なものでも食べた?」

「何でよ?」

「だって、チルノちゃんが素直にお礼を言うなんて珍しくて……」

「……ていっ!」

「痛っ。い、いきなり殴らないでよ、チルノちゃん……」

「ふんっ」

「お、怒らないでよ〜……って、チルノちゃん。その帽子どうしたの?」

「……何よ、似合わない?」

「誰もそんな事は言ってないって……似合ってるよ、すごく」

「……これさ」

「ん?」




























「――預かったのよ。来年会うって約束した、真冬の友達から、ね」




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