さて、今日この日のこの時間の魔法の森の中。 閑古鳥も泣き喚く程にお客も利益も無い、香霖堂という一軒の店の中で、店主である眼鏡を掛けた銀髪の青年――森近霖之助は、少し難しい顔をして何やら考え込んでいた。 珍しく思い悩むようなその視線の先には、何やらよく分からない物。 強いて言うなら、二枚の細長く白い布、だろうか。寧ろ、そうとしか言えない代物である。 一応、端と端を結ぶ為の小さな布も取り付いているのだが、一見するとやはり唯の布キレにしか見えないだろう。 そんなガラクタとも言えない様な代物を霖之助は、相変わらずの難しい顔でじっと見ている。 「やっぱり、直接本人に試してみるしか方法は無い、か」 誰も居ない店内を、大して悲観もせずに眺めながら、ぽつりと呟く霖之助。 大きさも作られた年代も多種多様な物品が、お世辞にも綺麗に並べられたと言えない光景は、商店というよりむしろ趣味人の娯楽の延長線上の末路にも見えた。 「それにしても、何故こんな物にこんな用途があるんだろうか……?」 独り言をぼやきながら霖之助は、改めて先程の二枚の布を手にする。 やはりどう見ても、ただの布。裁縫用具に使うとしても、せいぜい人形の服で精一杯な程に小さい。 こんな、燃えるゴミと言われても仕方の無いような代物に彼が頭を悩ませているのには、一応ちゃんとした理由があるのだ。 霖之助の能力は、【未知のアイテムの名称と用途がわかる程度の能力】である。 そんな彼の手に触れられれば、外から流れ着いた訳の分からない物品も、名称と用途なら手に取るように分かる――筈なのだ。 しかし目の前の布キレの名称と用途は、霖之助でさえも思わず首を捻る物だった。 まず、名称が無い。というより彼の頭には【布】という言葉しか、思い浮かんでこないのだ。 とは言え、これだけなら別に不思議でも何でもない。目の前の布キレは、確かにただの【布】である事に間違いはないのだから。 問題は、用途の方である。 これがあったから、知り合いの魔法使いが勝手に押し付けたガラクタの中に混じってあった、この二枚の布キレに興味を惹かれたと言っても過言ではない。 その用途とは―― 「……霊夢。店に入るときくらいは、普通に挨拶をしてくれないかな?」 「あら霖之助さん。お邪魔するわね」 霖之助の常識に満ち溢れた発言を、いつの間にか店内に居た紅白の少女は、ごくごく自然にかわす。 何処かずれているその対応に思わず溜め息が漏れるが、いつもの事なのでなるべく気にしない事にした。 決して掴む事叶わない、しかしそこに確実に在る、雲。 そんな物を見る者に連想させる様な空気を纏った、店内を物色する少女――楽園の素敵な巫女の博麗霊夢は、今日も特徴的な紅白の衣装に身を包んでいた。 「実は、またお払い棒が折れちゃったのよ。新しいの貰えないかしら?」 「……また、ツケかい?」 「当然じゃない」 一片の疑問も混ざっていない声色で言ってのけた霊夢に、霖之助の口から再び、大きな溜め息が漏れて―― 不意に彼の視線に入ったのは、先程の二枚の布キレ。 実は何を隠そう、この布キレ。 今も目の前で店内を物色している、紅白の巫女――博麗霊夢に対してのみ、効能を発揮すると思える物なのだ。 尤も、用途から推測した結果なので、あくまで想像の範囲を超えてはいないのだが…… こうやって試すべき相手が目の前に居る事は、まさに絶好の機会と言えた。 「……ふむ、いいよ。ただし条件がある」 「条件?」 普段とは違う霖之助の言葉に、訝しげな表情へと変じる霊夢。 この不可思議な布キレの、不可思議な用途の詳細が解る事態。 それは、自身の無駄な知的欲求を満たしてくれる、絶好の機会と言い換える事が出来る。 それを思えば、お払い棒の一本や二本をタダでくれてやる事など、霖之助にとっては何でも無かった。 「なに、別段難しい事じゃない。ちょっと、これを着けてほしいんだ」 だから彼は二枚の布キレを手に取ると、微笑みながらそれだけを言った。 自身の知的欲求を満たす、ただそれだけの為に。 ◆◆◆ 「――これで、いいのかしら?」 怪訝な色を惜し気もせずに顔に表しながら、霊夢は呟く。 彼女は今、地面と平行になる様に精一杯に腕を広げていた。 丁度、何処ぞの金髪闇妖怪が言った『聖者は磔にされました』の様な形――と言えば、恐らく大抵の方は分かってくれるであろう。 「それでいい。今から着けるから、しばらくじっとしていてくれ」 言いながら霖之助は、二枚の布キレの内の一枚を手に取る。 視線の先に在るのは、特徴的な霊夢の紅白巫女服の中でも、特に特徴的で奇抜と言える部分。 露出した、白く透き通る様な肌に布キレを当てると、そのまま包帯を巻くかの様に一周させる。 そして端と端とを合わせると、そこに付いた小さな布を紐として扱いながら結び合わせ、しっかりとその場所に布キレを固定させた。 「終わった?」 「片方は終わった。今からもう片方に取り掛かるから、もう少し待ってくれないかな」 「はいはい、腕が疲れるから早くしてよ」 体に停止を強要させている状態に対してなのか、霊夢の口から辟易した様な声が漏れた。 思わず苦笑しながら霖之助は、もう片方にも先程と同じ様に布キレを巻き付ける。 普段から色々と細かい作業を行っている彼にとって、この程度の事は朝飯前でも何でも無い。 「――お待たせ、終わったよ」 ふぅ、と軽く溜め息をつきながら、霖之助は静かに口を開いた。 目の前に立つ、後ろを向いたままの霊夢。 彼女が着ている特徴的な紅白服の中でも、極めて特異な部分――惜し気もなく開けていた、腋の部分だ。 そこが今は、二枚の布キレが覆い被さった事により、しっかりと隠されて見えなくなっていた。 「気分はどうだい、霊夢?」 腋以外には、全く変化が無いと思える霊夢の後姿に、霖之助は問い掛ける。 頭を捻るしか無かった布キレの用途だったが、今こうして考え直してみれば、何でも無かったのかもしれない。 霊夢の巫女服の中でも、極めて特異な部分である開けた腋が、こうして隠されている状態。 恐らく、これ以外には何も意味を為さない、用途だったのだろう。 無駄な知的欲求が満たされた満足と、無駄な知識が増えてしまった落胆。 その二つが奇妙に絶妙に混ざった溜め息を軽く吐き出しながら霖之助は、普段と変わらない太平楽な口調で語られるであろう霊夢の言葉を、期待も何も浮かべずに待っていた。 しかし、である。 「――森近霖之助さん」 唐突に響いた声の、何と澄んだ事だろうか。 凛、とした物で模られたその声は、風鈴の様に儚く美しい物と鋼の様に輝く強固な物――そんな相反する二つの事柄を、霖之助に連想させた。 何処か優雅な立ち振る舞いで、霊夢は振り返る。振り返ったその顔は、博麗霊夢本人の顔立ちに間違いは無い。 間違いは無いのだが――浮かんでいた表情が、普段から浮かべているふわふわした物とは、あまりにも懸け離れている。 引き締まった形の美しい口元に、鋭くも見る者を魅了する輝きを放つ二つの瞳。 その時の霊夢の顔は、これでもかと言う程に凛々しい物だった。 思わず幾度も瞬きをしながら霊夢を凝視していた霖之助は、戸惑いながらも何とか言葉を返す。 「な、何かな?」 「お払い棒、お借りしてもよろしいでしょうか? 数刻もすれば、お返し致しますので」 清流を思わせる涼しげな声で、霊夢はそれだけを言った。 その言葉に籠められた只ならぬ迫力に、霖之助はカクカクと頷きながら、傍に立て掛けてあったお払い棒を手渡す。 「ありがとうございます。出来るだけ早目に、お返し致しますので……では、失礼します」 普段の飄々とした態度からは、とても想像出来ない様な角度も深さも完璧な礼をすると、颯爽と身を翻して出口へと歩む、腋の無い霊夢。 何処ぞの完全で瀟洒な従者を髣髴させる様な素晴らしいお辞儀だったので、霖之助は思わず見惚れかけて、そのまま見送りそうになってしまう。 しかし、霊夢が外へと出掛ける寸前で何とか自我を取り戻すと、呼び止める為に慌てて声を掛ける。 「ちょ、ちょっと待ってくれ。お払い棒は後で返すって言ってたけど、一体何に使うつもりなんだい?」 足を止め、自然な動作で静かに振り返った霊夢は、そのまま静かに口を開いた。 「決まっています。人間と妖怪のバランスを保つ為に、少しだけ妖怪を退治して来るつもりです。なので、その時に使おうかと考えています」 「なっ……」 一片の迷いも嘘も存在していない、単純明快で強固な言葉。 あまりに突拍子も無いその内容に対して、二の句が継げられない霖之助へと、霊夢はさらに続ける。 「今の幻想郷は、間違いなく均衡の上に成り立っています。人間にも妖怪にも傾いていない、理想の状態と言えるでしょう」 そこまで言って霊夢は静かに瞳を閉じると、しばしの間だけ何かを瞼の裏に思い描く様に、何も言わなくなる。 やがて数秒の後に瞳を開けると同時に、霊夢は再び口を開き始めた。 「しかしそれでも、人間達は余裕の無い生活を強いられ、妖怪への恐怖心を忘れ掛けてしまっている。一方の妖怪達も、退治されるべき人間に対しての懸念が、徐々に薄れてきてしまっている。これは油断をすれば、どちらかに傾いてしまう危険性を孕んでいる、非常に危うい状態とも言えるでしょう」 淡々と、しかし聞く者の何かを捕らえて離さない声色で、霊夢は尚も続けていく。 何処までも澄んでいて真っ直ぐな彼女の瞳に、揺らめき彷徨う様なあやふやな物は、微塵も垣間見えなかった。 「だからこそ今一度、私が人間達に肩入れをして、妖怪達を退治するのです。そうすれば人間達は、生活にほんの少しの余裕が出来ますし、それと同時に妖怪達にも、人間達への懸念を燻り出させる事が出来るでしょう。そして懸念が湧き上がれば、妖怪の注意は人間へと引き寄せられ、人間に無関心な妖怪達も数を減らします。襲われ退治する人間と、襲い退治される妖怪――この理想的で当たり前な関係を、再び幻想郷に根付かせる事が出来るかもしれないのです」 一息に言い終えた霊夢を呆然と見つめながら、霖之助は脳裏で納得をする。 なるほど、これがあの布キレの用途の、本当の意味か、と。 「以上の理由から私は、これより妖怪退治を行ってきます。あくまで必要数ですし、何より無関係な者達を無益に傷付けるつもりはありません。その点は、御安心下さい」 何が御安心下さいなのかは、目の前の霊夢の様子を見ている限りでは、到底解らない。 しかしこのまま彼女を見逃してしまっては、幻想郷にちょっとした大規模な異変が起こってしまう――それが霖之助には、手に取る様に解ってしまった。 「では、失礼します」 解ったからこそ、振り返って店を出て行こうとする霊夢の後姿へ、霖之助は即座に駆け寄る。 視線の先に在るのは、今は布キレに覆い隠された故に不可視の、その腋。 罪深く業深く無遠慮に、腋を隠し続ける二枚の布キレ。 駆け寄った拍子による慣性の法則に従い、多少つんのめりながらも霖之助は、それへと手を伸ばした。 触れた事により訝しがった霊夢が振り返るよりも早く、彼は二枚の布キレの結び目を片手ずつで同時に解いて―― 楽園の素敵な巫女の、素敵過ぎて悶々とする美しい楽園を、即座に解放した。 ◆◆◆ 「……疲れた」 やっぱり、閑古鳥が泣き喚く程にお客も利益も無い香霖堂の中で、霖之助は独り呟いた。 椅子へと深く腰掛ける彼の手には、先程の一悶着の原因である二枚の布キレが、今も握られている。 あの後、腋の復活した霊夢はすぐに普段と同じ雰囲気に戻り、そのままお払い棒を手にして神社へと帰ってしまった。 お払い棒の代金は、貰っていない。故に今回の稼ぎは、零である。 二枚の布キレを着ける事と、お払い棒を手渡す事。これらが交換条件だったので、まあ当然と言えば当然なのだが……骨折り損のくたびれ儲けに終わった事実に、霖之助の口からは、深く重い溜め息しか漏れなかった。 「さて、これはどうするべきかな……」 やがて溜め息を吐き切ると同時に、手の内に視線を落とす。そこには、やはり特徴も変哲も何も無い、白くて細長い二枚の布キレ。 触れると同時に浮かんでくる用途の内容に、霖之助は疲れた様に瞳を細めながら顔を上げた。 窓の外に移るのは、普段から目にしている魔法の森の、群生する多種多様な緑の塊。 既に見えない、緑の中に居たら映えるであろう紅白を思い浮かべながら、そっと両の瞳を閉じる。 【腋を巻き隠し、楽園の素敵な巫女の、素敵な楽園を覆い隠す】 霖之助の瞼の裏では、用途の羅列が奇妙に歪みながらも、拙く細やかに踊っていた。 それから、幾日かが経過したその日。店に押し掛けた黒白が、その布キレに興味を持って勝手に何処かへと持ち出し、一刻も経たない内に青ざめた顔で返しに帰ってくるのだが、それはまた別のお話。 |
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