Typhoon



 その日は、夏にしてはやや肌寒い日だった。
 ぎらつく太陽光は灰色の分厚い雲によって適度に覆い隠され、水の薫りを多分に含んだ緩やかな季節風は程好く湿っている。
 まるで、あの紅い霧の異変が再び訪れたかのような、この季節に相応しくない涼しげな気候だ――だからこそ霧雨魔理沙は、跨り続ける箒への力をほんの少しだけ強め、空を翔るその身体を更に加速させた。寒いのは、人一倍苦手なのだ。
 薄黒い雲海に突っ込まないよう箒の先端を微細に変動させながら、それでも黄金色のその瞳は、前だけを見据えている。
「懐かしいな。あの日もこんな、寒い日だったっけ」
 見覚えのある記憶の空と、今こうして見続けている空とが重なり、魔理沙の口元はゆるりと緩む。
 彼女が目指すのは、思い描いた当時とまったく同じ場所。目に優しくないほどに真っ赤な吸血鬼のお屋敷、紅魔館――なのだが、今日の彼女の目的は、あの紅い吸血鬼に弾幕勝負を吹っかける事ではない。
 用があるのは吸血鬼の友人の、病弱な紫の魔女――より正確に言うならば、その魔女が自分の居室に溜め込んでいる、無数の書物である。それを拝借するのが、今回の目的だった。
 人間と魔女の違いはあれど、魔理沙とて歴きとした魔法使いである。そして魔法使いとは、新しい知識を得る事にひたすら貪欲なのだ。おまけに困った事に霧雨魔理沙という人間は、そういった自分の欲望に対しては非常に素直な性質であり、更には、目的の為には多少以上の身勝手さを以って行動に移せるほどの厚顔無恥な一面も、持ち合わせているのである。
「それじゃあ、前と同じように温かいお茶でも淹れてもらわないとな。割に合わないぜ」
 言って、黒白の魔法使いは、緩ませていたその口元をより一層引き伸ばす。
 所謂、破顔一笑。
 常日頃から我が道を往く少女は、やがて湖の向こう側に見えてきた紅いものに対し、念願の玩具を手中に掴んだ幼子のような正直な笑みを向けている。
 あの異変とよく似た天気、同じ空、同じ目的地――そして、傍から見れば侘しさを覚えるほどに断崖絶壁な胸の奥に秘めるのは、真っ直ぐ過ぎるが故に傍迷惑で、あの異変の時とはまったく別物の、児戯にも等しい目的だ。
「さて」
 吐息と共に漏れ出た呟きに、逡巡の色は塵ほども含まれていない。止め処無く溢れる、何かを知り得たいという子供心にも似たその衝動を、只々満たしたいが為に。
 見覚えのあるメイド服に身を包んだ妖精の一団を視界の隅に捉えながら、彼女は愛用の帽子の鍔をぎゅっと掴む。
「We were all on an equal footing,fighting under the same conditions.――そこには上座も下座も無い、条件は皆同じ」
【魔符「ミルキーウェイ」】
 瞬間、可愛らしくデフォルメされた無数の星々が、魔法使いを守るかのように曇天の空を舞った。
「今更ながら、私にお似合いの場所と状況だな」
 霧雨魔理沙が、動く。


 ◆◆◆


 湖畔の彼方に、黒白の野良鼠の姿を発見。

 紅魔館の門番である紅美鈴がその報告を受けたのは、いざ恒例のシエスタを堪能しようかとまどろみ始めていた時だった。門柱へと遠慮無く背を預け、うつらうつらとぼやけた極上の意識を慈しみながら、やがて羽毛布団以上に柔らかな眠りの中へと心身を投げ出す――はずだったのだが、今ではその愛しい世界は何処にも無い。後に残ったのは、異様に慌しかったメイド妖精によって中途半端に叩き起こされ、湿り気を帯びた風が必要以上に冷たく感じられる、物悲しい世界だけだ。
「ああもう……眠い」
 普段の美鈴からは想像も出来ないような、奇妙に据わった声が吐き出される。
 寝起きは良い方なのだが、それでもやはり眠いものは眠い。それに、後もう少しで寝付けられるという時に意識を引っ張り起こされるのは、それこそ人妖問わず、誰だって嫌なものなのだ。人が好い事で知られる美鈴とて、例外では無い。
 ちなみに報告に来たメイド妖精は、愛しのシエスタを寸前のところで妨害された門番その人の手によって、今は大人しく地面へと横たわっている。勿論、それが八つ当たりだという事を、手を下した美鈴本人は重々理解していたつもりなのだが――まあ、仕方が無いと思っておく事にする。それもこれも全て、勝手に襲撃してくるあの黒白が悪いのだ。
「そうよね〜、全てはあの黒白が悪いのよ」
 灰色の空を仰ぎ、嘆息する。
 脳裏に思い起こされるのは、今こうして見上げている分厚い雲の代わりに、濃密な紅い霧が夏の蒼穹を覆い尽くしていたあの日々だ。
 そして、その異変の原因が此処の主の我侭だったが故に、紅魔館に関わる者の大半がたった二人の傍若無人な人間によって叩きのめされてしまった、嵐にも似ていたあの日の事も。
 美鈴とて例外では無かった。門番としてそれなりの実力で門を守っていた彼女は、それでも最後には人間に負けてしまった。
 弾幕勝負。
 儀礼的とも呼べる小奇麗なこの決闘は、確かに人間にとって若干有利な部分がある。だがそれでも、妖怪が妖怪である事に変わりは無く、身体的に妖怪の方が有利だという事実にも変わりは無い。
 結果、有利と不利が混ぜ合わせになった、単純な足し算で見ればある程度は平等だったその弾幕勝負に、美鈴は負けてしまった――そう捉える事も、出来てしまう訳だ。
「あの時と同じ、か」
 垣間見えたのは、紅い屋敷に向かって悠々と飛び去る人間の後ろ姿、だったのだろうか。
 翡翠のような瞳に挑戦的な光が宿った時には、美鈴はその身を颯爽と翻している。黒白の野良鼠が確認された場所とは逆の、己が守るはずの門を潜り抜け、そのまま紅魔館の中へと姿を消してしまう。
 彼女が戻って来たのは、昏倒していたメイド妖精が唐突にふにゃっと頭を上げ、痛そうに頭頂部を摩っている時だった。
 屋敷へ入った時と同じように、美鈴は威風堂々とした出で立ちで、門の外へと歩み寄る。その手に無造作に握られていたのは、硬質な輝きを鈍く発する、棒状の物体だ。
「よし」
 片端には、幾つかの金属製の輪が装飾された三日月形の刃を備え、もう片端はシャベルのような幅広の重々しい形状をしている得物――月牙≠ニも呼ばれる鉄製の長大な禅杖を、美鈴は感触を確かめるかのように軽い動作で振るう。
 重なるようにして響いたのは、全身の毛が逆立つような重厚な風切り音と、金属の輪と刃とが激しくぶつかり合う物々しい雄叫びだ。
 加えて、そこに確かに舞い込む、涼しげで小さな音も――
 それらを耳にして満足気に頷きながら、彼女は禅杖を構え直した。ささやかな音色を演出してくれた、金属の輪に備え付けられた二つの古めかしい鈴を見据えて、ほんの少し唇を緩ませる。
「Time to hunt wild rat.――さあて、野良鼠狩りだ」
 響いた声は静かで、それ以上に強靭な色を孕んでいる。
「今日こそ、落とすわよ」
 未だに呆けているメイド妖精に向かって、紅美鈴は久々の得物に胸を昂らせながら、きっぱりと言ってのけた。


 ◆◆◆


 速度は上々、気分はそれ以上。
 灰色の世界に一瞬だけ映った三つの影に、それぞれ錬度の低い魔法弾頭を律儀に投擲してやりながら、魔理沙は箒の先端を上空へと傾けた。直後、間の抜けるような小さな爆発音をあげて落下していった黒焦げのメイド妖精三体を置き去りにして、一気に速度を上げる。
 空が前に、大地が後ろに。
 頬が強く引っ張られるのを我慢しながら、魔理沙は横目で背後を確認し、飛来してきた小さな妖弾を首を傾げて回避する。耳元を掠めたそいつは、名残惜しそうにか細い摩擦音で鼓膜を震わせながら、明後日の方向へと飛んでいった。
 それを得意気な笑みで見送りながら、魔理沙は箒の向きを少しだけずらす。飛行軌道を修正された箒は、真っ直ぐな直進から螺旋を描くかのような蛇行へとその軌道を大きく変更し、迫っていた妖弾の第二波を難なく遣り過ごした。悔しそうな気配が背後から伝わり、魔理沙の後頭部を軽く撫ぜる。
「いやいや、その程度じゃあ落ちてはやれないぜ」
 見覚えのあるメイド服が七つ。垣間見えたその事実を脳裏で反芻しながら、黒白の魔法使いは自信満々に嘯く。
 尚も、躍起になって放たれてくる眩い妖弾を、踊るような飛行で鮮やかにかわしながら。
「一撃必殺〜、なんてな」
 スカートの中から取り出した小瓶を、背後も見ずに投げ捨てる。
 花火のような美しい爆発と共に、合計七つの焦げた何かが緩やかに地面へと落下していったのは、それから三拍ほどの間を置いてからの事だった。
 それらを尻目に、箒の速度をぎりぎりまで弱める。
 他に飛ぶ者の居なくなった曇天を見渡して、魔理沙は一つ、長い溜め息をついた。ようやく此処にも、吹き荒ぶ風の音以外は何も聞こえない、喧しい静寂が戻ってきた。湿り気を帯びた風に晒された事によって濡れた唇を、喧嘩後の餓鬼大将のようなふてぶてしい仕草で拭う。
「まったく、やれやれだぜ」
 何処かで聞いたような台詞を呟きながら、魔理沙はいつの間にか随分と近くまで迫っていた紅魔館へと目を向けた。今やその黄金色の瞳には、人間にとって最大の長所であり最大の短所でもある好奇心が、晴れ渡る夏空のように爛々と瞬いている。少女特有の肌理細やかな頬は、弾幕勝負によって身体が火照ったのとはまた別の理由で、微かに紅潮していた。
 今日は何をどれだけ借りて行くかな――早くも書物の算段へと思いを馳せてしまった自分自身に苦笑しながら、それでも魔理沙は箒を握るその手に力を込め、前方へと意識を集中し始める。

 りぃん、と。
 不気味なほどに凛然とした鈴の音が頭上を過ったのは、その時だった。

「――っ!?」
 聞き覚えのあるその音色によって全身の毛が粟立つのを感じながら、魔理沙は咄嗟に懐へと右手を伸ばして拳大の物体――虎の子のミニ八卦炉を引っ掴み、更には同時に左手へと一瞬で込められる限りの魔力を利用して、飾り気の無い簡素で強固な魔法障壁を瞬時に展開させる。
 瞬間、襲ってきた轟音と衝撃が火花となって、瞼の裏に明滅した。
 紅い髪が絢爛たる様相で灰色の世界に乱入したその一瞬の後には、白黒の魔法使い特製の魔法障壁は樫の木が無残にも噛み砕かれるかのような悲鳴をあげて、呆気無く粉砕されてしまっている。あまりの衝撃に、魔理沙の小柄な体躯は錐揉みしながら大きく後方へと吹っ飛び、数メートルほどの距離を置いてからようやく静止した。
 それほどの強烈な一撃を成し得たのは、得物を振り下ろした体勢もそのままに宙へと現れた門番、紅美鈴の手に握られる長大な禅杖によるものだ。錬度によっては人形遣いの犠牲爆弾すら防ぐ事の出来る魔法障壁を、練り上げる時間こそあまり無かったとは言え、いとも簡単に砕いてしまったその事実は到底無視出来るものでは無い。おまけに、それだけの豪快な所業をやってのけたその禅杖自体には、傷一つ見当たらなかった。
 どうやら、中々に物騒な代物らしい。
「……本当、やれやれだぜ」
 体勢を立て直しながらそこまで考えて、魔理沙は自分を鼓舞するかのように帽子の鍔をぎゅっと掴んだ。今や、触れた指がぷにゃっと沈み込むかのように柔らかなその頬は、自信に裏打ちされるこの少女特有の満面の笑みによって、鮮やかに彩られている。
 魔法障壁の尊い犠牲のおかげで、魔理沙の身体に目立った外傷は何一つ無い。強いて言うなら、衝撃と風圧を受け流し切れなかった左手が、ちりちりじわじわと痺れているだけだ。少し落ち着かないものの、この程度ならすぐに治まるだろう。
 ――だから、やれる。
「不意の一撃か。実に妖怪らしいやり方だな、かなり卑怯だぜ」
 揶揄するような言葉と共に、魔理沙は箒をほんの少しだけ後退させる。まるで西部劇の舞台にでも降り立ったかのように、慎重に慎重を重ねながら。
「毎度毎度、押し入り強盗みたく突貫してくる、あんたが言えた義理じゃないでしょうが」
 一方の美鈴には、そんな魔理沙の行動を気にする素振りは微塵も無い。泰然と虚空に佇みながら、皮肉の響きが滲む低い声で、にべも無く答えを返す。
「おっと、勘違いは損をするぜ。何度も言っていると思うが、私は本を借りているだけだ、私が死ぬまでな」
「そういうのを、世間では軽蔑の意を込めて借りパク≠チて呼ぶのよ、知ってた?」
「それは存じませんでしたわ。私は魔法の森でひっそりと暮らす、慎ましやかな魔女ですから」
 わざとらしく、魔理沙はやんわりと微笑んだ。
 見ようによっては良家のお嬢様≠ノも見えてしまいそうなその仕草に、美鈴は疲れたような表情で目頭を押さえる。
「……嗚呼、なるほどね。これが憎まれっ子世に憚る≠チて奴か」
「うん、レミリアの事だな」
 ぴくりと、紅い柳眉が跳ね上がった。
「あんたの事よ!」
 一喝。
 叱咤するかのような鋭い指摘を置き去りにしながら、紅魔館の門番は侵入者に対する適切な応対を、唐突に再開し始めた。そこに母なる大地が存在するかの如く、長く美しいその脚で、何も無い宙を力強く蹴る。
 りぃん。
 鈴の音が朗々と響き、紅い髪が鋭く靡く。
 妖怪としての身体能力と、武術に秀でた合理的な動きとを併せたその踏み込みによって、美鈴と魔理沙との距離は瞬く間に半分ほどへと縮まり。
【恋符「マスタースパーク」】
 刹那の間を置いて、虚空そのものが鳴動するかのような轟音が辺りを蹂躙し、清々しいほどに極太の白光が灰色の世界を駆け抜けた。
 魔理沙の右手に掲げられた、色々と規格外の代物――ミニ八卦炉を通じて解き放たれたのは、出鱈目という言葉こそが最も似合うであろう、強大な魔力の奔流だ。そいつは、空腹を抱えた錦鯉を思わせるほどの貪欲な速度で、今にも魔法使いを撃ち落とさんとしていた門番へと肉薄する。
 互いが、同時に笑みを浮かべた。
「じゃあ今日も、さっくり貰って行くぜ」
「好い加減、お預けくらい覚えろ」
 確固たる自信の込められた二つの囁きが曇天へと昇り切らない内に、白い暴君はあんぐりと開けたその巨大な顎で麩菓子でも喰らうかのようにして、紅い颱風をぺろりと呑み込んでしまう。
 それを見送った魔理沙の笑みが、いよいよ勝利を確信して満面のものへと移り変わる。
【華符「破山砲」】
 だが、それも束の間。
 高々と響いたスペルカード宣言を押し潰すその前に、突如として銅鑼を鳴らすかのような快音が、戛然と虚空に向かって打ち上げられ――ほぼ同時に、極太の白の胴体が、ぱっくりと裂けた。
 それこそ、月下美人がその濃密な香りと共に大輪を咲かせるかのような美しさを伴いながら、内側から外側に向かって大きく裂けたのだ。許容範囲以上の負荷が一箇所に集中し、形状を維持し切れなくなった白の暴君が、苦悶にのたうつかのように大きくうねる。そしてそのまま、ちりちりと魔力の残滓を周囲へと弱々しく撒き散らしながら、宙へと溶け消えてしまった。
 全てを傍観していた金色の瞳が、好奇心とはまったく別の感情で大きく揺れる。そこに映り込んでいたのは、無骨な得物を振り上げ抜いた姿勢もそのままに、不敵な笑みで見返してくる人影だ。
「お決まりのパターンばかりじゃあ、誰も面白く無いでしょう?」
 その身に刻まれた幾つもの裂傷や服の汚れを、まるで無き者と思わせるかのように。
 紅美鈴は威風堂々とした面持ちで、腰を低く落とす。
「Down 'em all.――全て、落とす」
 りぃん。
 唖然とする霧雨魔理沙の耳朶を鈴の音が厳かに打ったその時には、紅い門番は不届きな侵入者に向かって、容赦無く肉薄していた。


 ◆◆◆


 見るも鮮やかな、紅い颱風となって。


 ◇◇◇


『持って行け。こんな辺鄙な場所で腐らせてしまうのには、少々惜しい代物なんだ。女子とは言え化物の類であるお前さんなら、扱う事は造作も無いだろう』
 野太い声でそう言ったのは、八尺はあるであろう巨体に襤褸雑巾のような粗末な僧衣を纏った、筋骨隆々の厳つい坊主だった。
 そいつが、眼前で事態が飲み込めずに呆けている紅い髪の少女――後々、紅い館の門番として遊惰な日々を送る事となる紅美鈴に向かって差し出していたのは、見る者に威圧感を与えるかのように黒光りする、巨大な禅杖だ。
 本当は百斤ほどの物が良かったのだが、鍛冶屋の主人にそれでは見た目が不恰好になると言われてな。仕方がないので六十二斤で妥協してやったんだが、今考えるとやはり百斤の方が良かったかも知れん。かの美髯公に劣ると思われるのは、やはり口惜しいからなぁ――酒の席の途中、その禅杖を軽々と肩に担ぎながら豪侠に笑ってみせた坊主の姿が、美鈴の脳裏に思い起こされる。
『今もなお、恐怖と戦慄によってその悪名をこの国に根付かせている、白面金毛九尾の狐。兼ねてから興味を惹かれていたその化物が隣国のやまとへ渡ったという噂を聞き付け、居ても立っても居られなくなり山奥に篭もり続ける自分の一族をこっそりと抜け出したのが、三日前の晩の事。幾つもの国々を悉く手玉に取ってきた大妖怪は、一体どんな面構えをしているのか。只それだけを知りたいが為に、今はひたすら東を目指している――呆れるほどに単純な理由だが、その思い切りの良さは嫌いじゃない。それこそ、人間とか化物とか関係無く、儂は好きだのぅ』
 幾つもの古傷が刻まれた厳つい丸顔に似つかわしくない、子供のように大きな笑みが口元に広がる。
 禅杖を差し出した手とは別の、もう片方の手で鷲掴みした浅黄色の瓢箪――人間にしておくには勿体無いほどの巨大な掌に握られたそれは、哀しいほど小さく見えた――をぐいっと傾けて、坊主はその中身を豪快に流し込んだ。ちなみにその液体は、多種多様に存在する妖怪の中でも特に酒好きとして知られる一族の出自である美鈴が、最初の一口を含んだ際、その強さに思わず目を瞠ったほどの強烈な代物なのだが――ぐびりと喉を鳴らし、美味そうな顔で酒臭い息を吐き出した禿頭の巨漢に、泥酔するような気配は微塵も無い。
 つくづく、人間離れした坊主である。
 当初、食料目当てで名乗りもそこそこに勢い良く乗り込んできた美鈴に対し、いきなり久々の客人だと喜び勇みながら半ば強引に酒の席を勧めてきたその傍若無人さも、この坊主にとっては至極当たり前の事なのだろう――相手の雰囲気に呑まれ、気が付けばべらべらと身の内を喋ってしまっていた自分の姿を顧みながら、美鈴は妙に納得していた。
『だが、幾らお前さんが妖怪だと言っても、丸腰では心許無いだろう。特にやまとの国は、人も化物も独自の歩みを見せていると聞く――小国とは言え、あそこは油断ならぬ場所だ、用心に越した事は無い』
 研磨された黒檀を思わせる瞳が、重い色を孕みながらうっすらと細められる。
 黒光りする禅杖が、少しだけ近寄った。
『持って行け。こいつの良さは、儂が保障する』
 野太くも静かな呟きが耳朶を打つ。その言葉に半ば誘われるようにして、紅い髪の少女はそれを慎重な手付きで受け取った。
 ――重い。
 思わぬ重量によって身体が前のめりになるのを、足腰を踏ん張らせて辛くも押し止める。人間離れした坊主が寄越した得物は、人間離れした膂力を誇る妖怪でさえ思わず蹈鞴を踏んでしまうほどの、とことん人間離れした代物だった――鉄特有の重厚な質感を不敵に湛えながら、月牙≠ニも呼ばれる戦用の禅杖は鈍く映える。それを見下ろしていた翡翠色の瞳が、嬉しそうに細められた。
『ふぅむ、気に入ったか。そりゃあ良かった、いや、良かった良かった――うはっ、わはは、わっはははははははっ!』
 突如として、周囲を憚らない馬鹿でかい笑声が頭上から雹のように降り注ぐ。見上げると、小さな西瓜程度なら簡単に丸呑みしてしまえそうなほどの大口を盛大に揺らしながら、坊主が心底嬉しそうに笑っていた。
 初対面の、それも妖怪風情に、酒の席の最中も後生大事そうに抱えていた代物を、気前良く明け渡してしまった事実。
 それをまるで生涯最大の誇りとするかのように。
 坊主は、子供のように盛大に、笑っていた。

 ――何故、私にこれを手渡した。
 聞きようによっては怒号に聞こえてしまうかも知れないほどの騒々しい笑い声が治まると同時に、紅美鈴は坊主へと問い掛けた。
 当然と言えば当然のその質問に、黒檀のように映える瞳が優しげに緩められる。
『似ていたんだよ』
 寂しさと懐かしさを綯い交ぜにしながら、坊主の口がぽつりと言葉を紡ぎ出す。
『女、それも相当な別嬪の癖して、戦場では鬼神のような勇壮さで駆け抜けた――お前さんの目がな、どうしてもあいつと被るんだ。色も形も、それこそ内側の瞬きでさえ全く違うと言うのに、それでも似ていると感じてしまう……やれやれ、困ったもんだのぅ。昔を懐かしむほどまだ老いてはおらんと思っていたんだが、やはり歳には勝てんのかなぁ』
 自嘲するかのように、しかしながら卑屈な淀みは一切含ませる事無く、坊主はくつくつと押し殺した笑い声を上げた。一際大きな裂傷の刻まれた禿頭が、その動きに合わせて微かに上下に揺れる。巨体が全身を小刻みに揺れ動かすその様は、冬眠から目覚めた直後の熊を思わせるほどに荒々しく、なにより孤独なものに見えた。
 やがて一頻り笑い終えた後に、坊主は改めて美鈴へと向き直る。
『昔の仲間によく似た女が現れ、そいつを手助けしたくなった――我ながら呆れるほどに単純な理由だが、残念ながら他には全く思い付かん。すまんが、これで勘弁してくれ』
 紅い髪の少女が、何かを言い返すその前に。
 坊主は再び、浅黄色の瓢箪の中身を流し込むかのようにして口へと含み、ぐびりと喉を鳴らした。

『お前さんは、儂らと違ってまだまだ生きられる。だから、儂ら以上に生きて、色々なものを見て来て欲しい――たぶんそれが、儂の願いなんだろうなぁ』


 ◇◇◇


 不意に脳裏を掠めたその記憶に、紅美鈴は六十二斤の禅杖を握り締めながら、にたりと笑い返す。
 恐らくは、あの坊主のものとよく似ているであろう、豪侠な笑みを湛えながら――

 見るも鮮やかな、紅い颱風となって。


 ◆◆◆


「――っと!」
 背筋がうそ寒くなるほどの風圧を纏いながら肉薄してきた紅美鈴に対し、霧雨魔理沙は半ば呆気に取られながら、それでも心臓が一拍の鼓動を打ち鳴らしたその後には既に、意識の集中を取り戻していた。
 右手はエプロンドレスのポケットに突っ込み、左手は箒の柄を固く握り締め、黄金色の瞳はこちらに向かって得物を振り被る門番の姿を捕捉する。
 距離はそれなり――間に合う!
「生憎だが、その程度でも落ちてはやれないぜ!」
 戛然と言い放った黒白の魔法使いはその場でくるりと回転し、スカートの内側から幾つかの色鮮やかな球体を、虚空に向かって遠慮無くばら撒いた。一体何処にどうやって仕舞っていたのか皆目見当が付かないそれらは、無機物独特の何者の意思も感じさせない極々自然な落下軌道を描きながら、眼下に向かってまっしぐらに堕ちて行き――
【天儀「オーレリーズソーラーシステム」】
 だが、誰もが予想したであろうその未来は、直後のスペルカード宣言と同時に裏切られる。
 紫、金、翠、蒼、朱、橙――束の間の意思を与えられた彼らは、灰色の世界に瞬く六色の身近な星々へと成り代わりながら、術者である霧雨魔理沙を中心とした小さな天球儀をその場に創り始める。縦横無尽に三次元的に交錯し合い、それでも互いが軌道の邪魔となる事は無いように微妙な速度と距離間を保ちながら、マガイモノの六色疑似惑星は鳥篭の如く展開した。
 それら全てを見届けるや否や、魔理沙は声高々に命じる。前方――豪勇に迫り来る、紅美鈴に向けて。
 迎撃しろと。
 瞬間、煌びやかに宙を舞っていた六色の天球が、燐光のような眩い光を伴いながら平面的な円の形状へとその配置を変更。同時に鋭く回転し始めたと魔理沙自身が認識したその時には、蒼白い巨大な円輪は美鈴に向かって躊躇無く肉薄していた。摩擦音のような何かが擦れる音が、湿り気を帯びた空気を僅かに震わせる。
 一方の美鈴には、目の前の突発的な脅威に対して慌てた様子は塵ほども無かった。
 振り被った姿勢もそのままに、タイミングを見計らうかのようにして翡翠色の瞳を細めながら、両の掌で禅杖を一層強く握り締める。
「――鈍い」
 りぃんと、鉄塊が啼いた。
 甲高い不協和音が轟くとほぼ同時に、燐光を発していたその巨大な円輪はばらばらと崩れ去りながら、元のカラフルな球体へと戻っていく。呆気無く撃ち崩されてしまったそれらを尻目に、美鈴は振り下ろした際の握り手を返しながら、今も視線の先で漂い続ける魔法使い目掛けて空を蹴った。
 だがその眼前、突如として再び蒼白い燐光を纏い始めた総勢六つの天球が、行く手を阻むかのようにして虚空を舞う。
 たった今、美鈴によって成す術も無く撃墜されてしまったはずの彼らは、今度はその彼女に向かって銘々が四方八方から、僅かな時間差を置きつつ襲い掛かった。
「ちっ」
 流石に、これでは避け切れまい――魔理沙の目論見通り、美鈴は口惜しそうな舌打ちと共に、半ば無理矢理な動きで身体を傾ける。
 両手から片手へと、禅杖を握り直した。
 やや不安定な体勢から繰り出されたその一撃は、しかしながら黒い旋風となって虚空を鋭く引き千切ると共に、肉薄していた三つの燐光を容赦啼く叩き落している。その勢いを殺さず、流水の如き滑らかな動きで握り手を反転させるや否や、更に背後を一閃――舌打ちから二拍と経たぬ内に、六つの燐光は再び元の色彩豊かな天球へと引き戻されながら、今度こそ眼下に向かって堕ちていった。
 見るも鮮やかな、一連の動き。
 そこに確かに生まれた僅かな停滞を、魔理沙は見逃さない。
【魔空「アステロイドベルト」】
 囮として使役した六色の天球儀に心の中だけで詫びながら、スペルカードを少々気障な素振りで掲げる。
 その途端、金平糖を思わせる無数の可憐な星型が灰色の世界へと散らばり、二つの人影を出鱈目に覆い尽くした。こちらへと視線を転じた翡翠色の瞳に、退路を断たれた事によって微かな狼狽の色が滲む。それに対して魔理沙は、不敵に揺らめく金色の瞳で応えてやった。
「星は、まだ続くぜ」
 余裕綽々とした声色で、言い放ってから。
【魔符「スターダストレヴァリエ」】
 相対する人影に向かって、魔法使いは突貫した。
 古めかしい箒が幻想的なまでの美しさで星屑の尾を引いたその時には、既に曇天の最中を突き抜けた魔理沙の身体は門番の眼前へと躍り出ている。疾風怒濤と呼ぶのが相応しいであろうその速度に、躊躇の色は微塵も混ざってはいない。
 ――このまま、一気に轢き落とす!
「っ」
 直後、衝撃が硬い音と重なって、身体を微かに震わせた。
 ぎちり、と歯軋りのように耳障りな悲鳴を置き去りにして、半ば無理矢理に右手へと逸らされた飛行軌道もそのままに空を駆ける。
 手応えは浅い。
 衝突の際、箒の先端から確かに感じ取ったその事実に、魔理沙は自身が撒き散らした無数の星型機雷を器用に躱しながら、背後へと振り返る。
 風に踊る紅い髪の下、二つの翡翠が挑戦的に細められていた。
 先程、眼前へと得物を掲げて魔理沙の一撃を辛くも受け流した紅美鈴は、今はその左の手に一枚の符を握り締めている。
 形の良い薄い唇が、歯を見せて笑った。
「げっ」
 それを見た魔理沙は、慌てた様子で妨害の為の魔法弾頭を幾つか練り上げ、歯を食い縛ると共に撃ち込む――だが、間に合わない。
【極光「華厳明星」】
 何かが爆ぜ割れるかのような爆音と共に美鈴の手から放たれたのは、虹色の揺らめきを纏った巨大な光球だ。総勢四つの薄緑色の魔法弾頭をその威力で容赦無く蹴散らしたそいつは、辺り一帯をすっぽりと覆う金平糖の包囲網に一直線の抜け道を描きながら、悠々とした速度で魔理沙へと迫ってきた。
 速くも無く遅くも無いその速度に、魔理沙は帽子の鍔をぎゅっと握り締め、箒を急発進させる。
 襲い掛かる極光の明星と、その向こう側に居るであろう紅い髪の門番を睨み付けた金色の瞳に、油断の色は微塵も無い。敢えて前方へと突き進み、同時に身体を横へと傾けて飛行軌道を反らしながら、擦れ違い様に巨大な光球を遣り過ごす。
 虹色が、帽子の鍔先をちりりと舐める。そのまま後方へと名残惜しそうに流れる。
 出来る限りの無駄な動きが無い回避が成功した事により、魔理沙の顔に笑みが浮かび。
「――っはは」
 その瞬間に合わせるかのようにして迫ってきた二発目の明星を目の当たりにして、即座に苦笑いへと転じた。
 箒に一層強くしがみ付き、横手へと我武者羅に飛んだ魔法使いの背中を、湿る大気を食い破るかのような生々しい轟音が掠める。後ろを過った明星の撃ち放たれた方向を横目でちらりと窺い、そこから三発目、四発目と次々に生み出される巨大な光球と――こちらを悠然と見据えてくる紅美鈴の姿を目にして、魔理沙の口元はいよいよ引き攣ったものへと移り変わる。
 視線の先、四発目の明星を得物で打ち放った美鈴の手には、新たな符が握られていた。
【幻符「華想夢葛」】
 宣言の声は早い。
 魔理沙へと迫っていた残り二つの明星は、紅い髪の門番のその言葉よりも半瞬ほど遅れたタイミングで、無数の小さな燐光を撒き散らしながら呆気無く爆ぜ割れた。そうして生み出された夥しい数の燐光は、周囲を漂っていた可憐な星型機雷へ我先にと衝突し、小規模の爆発を次々と引き起こしていく。
 一から十、十から三十、三十から――と。
「おいおい、いきなり飛ばし過ぎだろうが」
 まるで虚空そのものが火花を散らしたかのようなその光景に、さしもの黒白の魔法使いも驚きから僅かに目を瞠り。
「――まっ、こういうのは嫌いじゃないけどな」
 同時に口元をにたりと緩める。
 爆ぜ割れる空の向こう側――弾幕の向こう側に居たはずの美鈴の姿が、そこに無いにもかかわらず。
「Time to dive into the fireworks.――そぉら、花火の中へ突っ込むぜ!」
 次の瞬間、魔理沙は箒を握るその手に力を込めると、前方に向かって躊躇無く突っ込んでいった。頬を掠める火花の群れを一顧だにせず、前だけを見据えながら縦横無尽に箒を走らせる。
 その手が、何かを捉えたかのように懐へと伸びた。
【恋風「スターライトタイフーン」】
 魔理沙を中心として、カラフルな星の群れが渦巻いた。タイフーンの名に相応しい勢いを伴ったその弾幕は一陣の風となって、燐光と火花を撒き散らす別の弾幕を強引に消し飛ばしていく。
 その最中、曇天の空には鮮やか過ぎるほどに映える紅色が垣間見えた瞬間には、霧雨魔理沙の身体は再び何かに弾かれるように、急発進していた。
 獰猛な色を隠し切れていない微笑みを浮かべ、星の嵐も置き去りにしながら突き進む、その視線の先――泰然と宙に佇み続ける紅美鈴もまた、よく似た微笑みを浮かべていた。
 手中の禅杖が、身構える獅子の如き雄々しさを伴いながら、肉薄する魔法使いに向けて翻る。
 対する魔理沙はそれでも尚、前だけを見据えて――

 がぃん、と。
 雄馬の嘶きのように甲高い音が、辺りに響く。
 魔理沙がいつの間にやら展開していた二重の魔法障壁を、勢いに任せて食い破った美鈴の禅杖。
 それを最期の最後で受け止めたのは、仄かな緋色を帯びた拳大の逸品だった。

「――やっぱり、最後のシメはこいつで決まりだな」
 魔力によってギリギリまで身体能力を強化しているとは言え、やはりその細腕には、先程の一撃は手痛いものだったらしい――ミニ八卦炉を握り締める右腕を小刻みに震わせながら、霧雨魔理沙はその顔に脂汗を滲ませた。
 だがそれでも、黄金色の瞳に浮かぶ自信の色は、微塵も揺るがない。
「いくぜ」
 美鈴が何か行動を起こす、その前に。
 魔理沙は、そのスペルを宣言する。
【魔砲「ファイナルスパーク」】
 何者をも薙ぎ払う極太の白光が、再び虚空を突き抜けた。轟音と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいほどの爆発音が辺りを蹂躙し、白い暴君はその暴虐さを先程より三割ほど増しながら、荒々しくのた打ち回る。
 魔理沙の眼前に居た美鈴にそれを避ける術もなく、呆気ないほどにあっさりと吹き飛ばされ。
「――っ」
 そのまま、魔力の奔流に呑み込まれてしまった。
「……ふぅ」
 気の抜けた吐息が、柔らかそうな薄い唇から漏れ出す。
 一連の、この幻想郷においては日常茶飯事とも言える揉め事≠ェ自分の勝利に終わった事を確信し、魔理沙は口元をほんの僅かに緩めた。後は、この溢れ出続ける魔力が収まるのを、勝ち鬨でもあげながら待てば良いだけだ。それまでは、この勝利の余韻にでも浸らせてもらおう。
 そうして魔理沙は全身に込めていた力をゆるりと抜き、ミニ八卦炉を握るのとは逆の手で帽子を直して――

【三華「崩山彩極砲」】

 その瞬間、白い巨体の胴体を両腕を押し広げるようにしてぶち破り、虹色を纏わせた門番の体躯がこちらへと肉薄してきた。
 肩と肘を前面に押し出して滑るように魔理沙へと迫るその姿は、服のあちこちが焼け焦げて健康的な色合いの肌が覗き、まさに満身創痍そのものである。加えて、普段は着用しているはずの帽子は先程の魔砲で吹っ飛んだのか何処にも無く、鮮やかなその紅い髪も痛々しいほどに乱れていた。
 しかし、当の紅美鈴本人にはそれを気にした様子は全く無い。少しだけ鼻の頭が焦げた顔で、力強く微笑む。
 一方の魔理沙は、虚を衝かれた事によって目をほんの少し見開かせ、可愛らしく口を半開きにしていただけだった。ミニ八卦炉が弾き飛ばされ、禅杖の翻る重々しい風切り音が耳朶を打ってから、ようやく集められるだけの魔力を掻き集めて魔法障壁を展開する。
 それが、彼女の限界だった。
 虹色の波が滲み出るほどに気を込めた美鈴の一撃は、まるで豆腐でも貪り食うかのように易々と、魔理沙のなけなしの魔法障壁を噛み砕き――

 エプロンドレスを纏った小柄なその体躯を、轟音と共にくるくると、天高くまで打ち上げた。


 ◆◆◆


 既に、魔理沙の身体は目の届かないところまで打ち上がっていた。
 だからこそ紅美鈴は、ようやく肩の力を抜いて溜め息をつき、額に浮かんだ汗をやや大仰な素振りで拭った。
 やや肌寒い空の風が、今はとても心地良い。
「…………」
 物思いにでも耽るかのような面持ちで、美鈴はそっと目を閉じる。
 黒白の相手をするのには慣れているつもりだったが、ここまで力を入れて迎え撃ったのは、あの紅い霧の日以来だった気がする。
 小奇麗な弾幕勝負――とは、とても言えないような泥臭い私闘だったが、それでもやはり気合を入れて闘ったとあれば、その後には何故だか清々しい気持ちになるのが世の道理だ。おまけに白星を飾ったとあれば、それはもう大層なものである。
 今現在の曇天とは正反対の晴れ渡る蒼穹に、身を委ねているかのような胸中――全力で身体を動かし、いまいち回らない頭で美鈴が思い浮かべたのは、そんな情景だった。
 ひくひくと小鼻をうごめかせるという、やや大人びた顔立ちには似つかわしくない愛嬌のある様子で、勝利の余韻に浸り続けている。
 やがて、幾許かの時間が経ってから、美鈴は紅魔館のある方角へと振り返った。悠々と凱旋してやろうと考えながら、いそいそと服の乱れを整える。

 ちりりと、小さな虻が飛び交うかのような音がしたのは、そんな時だった。

 聞き覚えのある不吉なその雑音に、美鈴は表情を即座に厳しいものへと転じながら、上空を睨むかのようにして振り返る。
 瞬間、その視線の先――否、その身体を、強烈な白光が包み込んだ。
【星符「ドラゴンメテオ」】
 スペルカード宣言と、歯を見せて苦しそうに楽しそうに微笑む、見覚えのある黒白を垣間見せながら。


 ◆◆◆


 目を覚ました美鈴は、まず最初に自分が何か大きなものに背中を預けている事に気が付いた。そしてその後すぐに、背中を預けているものが地面であり、自分が大の字になって仰向けに寝転がっている事にも。
「お、起きたか」
 上半身を起き上がらせると、横手から疲れたような声が届く。見ると、足を前方に投げ出すような格好で地面に座り込む、黒白の姿があった。
 膝の上に帽子を置いて、誰もが羨むような見事な金髪をやや乱雑な仕草でくしゃりと掻きながら、得意気に笑っている。
「ほら、忘れ物だ」
 そう言って投げて来たのは、魔砲を撃たれた時に何処かへと吹っ飛んだ、美鈴の帽子だった。
 どうやら、ご丁寧にも探してくれたらしい。
「あら、ありがと」
「どういたしまして……それじゃあ、渡すものも渡したし、私は帰るぜ」
 言うや否や、魔理沙はすっくと立ち上がり、帽子を被り直す。
 疲労の色が濃いその横顔に、当初の目的を果たせなかった事への後悔は、微塵も覗いてはいない。
 曇天の向こう側で、うっすらと光を放つ太陽。いつの間にか随分と尾根に近付いているそれを見つめながら、魔理沙は魔法の森の方角へと歩き始める。
「借りるんじゃなかったの? あんたが死ぬまで」
「好い加減、夕食の支度をしないといけないんでな。私のような育ち盛り≠ヘ、食べる時はきっちり食べないといけないんだよ」
 肩をすくめて、魔理沙は振り返る。
 その顔を美鈴は黙って見つめていたが――視線が下へと移動するのに、それほどの時間は要さなかった。
「ああそっか。食べないと大きくならないもんね、色々と」
「うっさい、既に完成された奴が言うな」
 健気にも両腕で胸の辺りを隠しながら、魔理沙は口を尖らせた。射抜くように睨み付けたのは、恵まれた豊かさを自己主張している、門番の双丘である。
「あら、それはそれはゴメンナサイ。未完成の黒白さんは、頑張って努力して頂戴ね」
 恐らくは、自分と黒白の決定的な差を、心得ているのだろう。
 翡翠色の瞳に意地悪なものを孕ませながら、美鈴はわざとらしく背筋を正して、優しい声色で言う。
「…………」
 しばらくの間、魔理沙は美鈴のそんな姿を――主に、上半身に集中していたのだが――恨めしそうに睨んでいたのだが。
「……言われなくても、毎日色々やってる」
 やがて、消え入りそうなほどに弱々しい口調でそれだけを呟くと、箒に跨って飛んで行ってしまった。その去り際、牛乳≠竍マッサージ≠ネど、何処か切実な感情の滲む声が、ぽそりぽそりと聞こえた気がするのだが――美鈴は、聞こえなかった事にした。
 段々と小さくなっていく黒白の後ろ姿を見つめながら溜め息をつき、ゆっくりと立ち上がる。
「えっと……あったあった」
 近くに転がってあった禅杖を慣れた手付きで肩に担ぎ、美鈴は歩き始めた。
 目指すのは勿論、紅魔館である。夕食の献立を脳裏に描きながら、彼女はのらりくらりと歩を進める。
「っと」
 不意に、その足が止まった。
 何かを思い出したかのようにやんわりと微笑みながら、禅杖を掲げるようにして身体の手前へと持って来る。

「――ありがと、お疲れ様」

 呟いたのは、簡素な労いの言葉。
 それだけを言って、美鈴は再び歩き始めた。両手から片手へと得物を持ち直して、肩に担ぐ。

 りぃん、と。
 二つの古めかしい鈴が、涼やかに鳴る。
 夏にしてはやや肌寒いこの日の風は、やはり心地の良いものだった。




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