逃亡兵レイセン・イナバ




 相手を狂気で犯す時は、なるべく相手の目を見なければならない。

 何故なら、私の目を見る事によって、相手は狂気へと堕ちていくのだから。

 だから人間を狂気で染め上げる時には、嫌でも相手と目が合ってしまう。

 そして目が合うから、相手の顔が狂気で歪んでいくのが、よく分かるんだ。

 ――本当に、よく分かるんだ。





 視点が虚ろになって、口が不自然に笑みの形に開いて、涙やら涎やら鼻水やらを汚く垂らして……

 そうやって堕ちていく人間を見るのは、始めは別に苦痛でも何でもなかった。

 むしろ、相手が無様になっていく様子を楽しんでいた。

 だって相手は、私達の故郷である月を侵略していく、敵だったのだから。

 月の兎や月人の安住の地である場所に、土足で図々しく入ってくる、遠慮知らずで馬鹿な輩。

 私を、私の同胞を、私の家族を、滅茶苦茶に食い散らかそうとする、汚らわしい獣。

 それに対して、何の同情も憐れみも沸かなかったのも、当然といえば当然なのかもしれない。

 少なくとも、月の同胞から与えられていた情報が、それだけだったのだから。

 だから私は何の疑問も抱かずに、ただ人間を狂気に染め上げて、場合によっては事故に見せかけて殺していった。

 堕ちて、染めて、犯して、歪ませて。

 自分でもよく飽きないな、などと場違いに思いながら私はそれをずっと続けていた。

 そんな事を延々と繰り返している内に、いつからか私は月の兎の中でも、狂気に染め上げる力が飛び抜けて巧くなっていた。

 皆、私を褒めた。

 同じ月の兎である同胞も褒めたし、上層部の月人達も褒めてくれた。

 比較的普通に感情のある私だったから、褒められた事は普通に嬉しかった。

 戦いで褒められても嬉しくない、なんて詭弁は少しも浮かばなかった。

 だから私は、もう少しだけ張り切りながら、さらに人間を狂気で染め上げていった。

 ――いや。『少しだけ』というのは間違っているだろう。

 何故なら私は、嬉々として人間を狂気で染め上げていたのだから。

 褒められる事が嬉しかったのと、人の領地を土足で踏み荒らす人間に腹が立ったから、私は嬉々として彼らを狂気に染め上げていった。

 何故、人間達が反撃してこないのか、全く考えもせずに。





 どれくらい、そんな事を繰り返していただろうか。

 確かあれは、久々に人間を事故に見せかけて殺した時だったか。

 結構な人間が乗る奇妙な箱を、私が狂気に染め上げた人間自身の手で爆発させたんだ。

 花火みたいに綺麗に、呆気なく散っていったそれを見ながら、私は笑っていた。

 たぶんそれは、満面の笑みだったのだろう。何かをやり遂げたという、本当に充実した笑顔だったのだろう。

 少しの間、その場で満足心の余韻に浸っていた私だったが、やがて帰ろうと思ってその場を後にしようとした。

 その時、だっただろうか。

 目の前にすぅっと、一枚の紙切れが飛んできた。

 私はそれを、何気なしに手に取った。

 そして何も考えずに、それを見た。

 それは写真だった。月の物とは少し違うけど、でもそれとほとんど変わらない物だった。

 私は、それを見た途端に動けなくなってしまった。

 写真に写っている人間達を目にして、全ての思考が吹き飛んでしまった。





 だって皆、笑っていたのだから。

 少し前に私が吹き飛ばした人間全員が、そんな事など夢にも思わない様な笑顔で、こっちを見ていたのだから。

 馬鹿に思えるくらいの眩しい笑顔の下に、こんな一文と一緒に写真に写っていたのだから。

『願わくば、愛する家族や心許せる友と一緒に、再びこの場所に――』





 何故? 何で? どうして? 可笑しい? 不自然だ? 

 馬鹿馬鹿しい? そんな馬鹿な? 理解不能? おかしい? どうして? 

 なんで? なぜ? なぜ? なゼ? ナゼ? ナゼ? ナ、ゼ? ナ……ゼ……?

 何、でコいツラ、みンナ笑ッテ、いルンダ……?

 敵チでワ、ラうなんテ、オカしいじゃ、ナ、いか……?

 コ、こは戦ジョウ、ダろ、ウ……?

 ナの、ニ……なん、で……な、ンデ………………

 なンデそンなに、ワラって………………







































 気が付いた時、私は医務室のベッドの上だった。

 どうやら倒れた私を、仲間である月の兎が運んできてくれたらしい。

 心配そうに声を掛ける同胞への対応もそこそこに、私はその足で上層部である月人を尋ねた。

 理由は簡単。あの写真と、あの一文の真相を聞きだす為だ。

 始めこそ適当に聞き流していた月人だったが、写真を取り出して問い詰めると、さすがに観念したかのように押し黙った。

 頑なに拒絶するかのように黙する相手に、私は声を荒げながら尚も問い詰める。



 人間が月を攻めようとしているのは、本当なのか。

 私達が行っている事は、本当に戦争なのか。



 やがてゆっくりと口を開いた月人の言葉は、私を驚愕させて硬直させるのに、充分な内容だった。



 人間は戦争や侵略が目的ではなく、ただ月の観測が目的だという事。

 そもそも、月に兎や人が住んでいるなど、まったく知らないという事。

 そして私達が行っている行為こそが、一方的で狡猾な侵略なのだという事。



 何故、としか私は言えなかった。

 自分が教えられてきた内容が、まったくの虚言だったのだから。

 自分が狂気に陥れていた相手が、何の武装もしていない無抵抗な者だと、やっとここで分かったのだから。

 懸命に震えを堪える私の問い掛けに対して、目の前の月人はこう言ってのけた。

 ぞっとする程に冷たくて、手を引っ込めたくなるくらいに下品な笑みを浮かべながら、こんな風に言いやがった。



『だってこれを機会に、私達があの蒼く下賤な土地を、美しく改変できるかもしれないのだよ?』



 瞬間、私は目の前の月人に掴み掛かった。

 頭がいっぱいでよく分からなかった。

 写真に写った人間達の笑顔と、心配そうに尋ねてきた同胞達の顔がごちゃ混ぜになって、よく分からなかった。

 だけどそんな中でも、はっきりとしたモノが感じられた。

 それは、怒り。

 目の前の月人に対して、私は殺意とほとんど変わらない怒りを感じたから、無我夢中で掴み掛かったんだ。

 だけどいつの間にか、私は後ろから逆に掴み掛かられて、呆気なく取り押さえられてしまった。

 それでも必死でもがく私を、月人は汚物でも見るかのような目で見下してきやがった。

 私はそれを、睨み返した。睨み返すことしか、出来なかった。

 月の狂気を具現化する私の瞳では、その狂気を生まれた時から浴び続ける月人には、まったくの無力だったのだから。





 やがて私は、反逆罪という罪を擦り付けられて、独房に入れられた。

 その中で一日に三回だけ差し出される臭い飯を、私は少しも口にしなかった。

 お腹は空いていた。だけど、食欲は出なかったのだ。

 何故なら最近、同じ夢を見るからだ。同じ悪夢を、毎日見続けているからだ。

 狂気に染め上げた人間達。写真に写っていた人間達と、今までに目を合わせてきた人間達。

 老若男女、身長も体格も様々な彼らが、そこだけは同じの狂気に犯された顔で、こちらに迫ってくるのだ。

 虚ろな目と半開きの口で薄ら笑いを浮かべて、涙と涎と鼻水をだらだら垂らしながら、こちらに迫ってくるのだ。

 何も言わず、何も求めず、ゆっくりとこちらに迫ってくるのだ。

 ふらついて倒れ伏しても、そこから這いずりながらこちらに向かってくるのだ。

 ずるっ、ずるっ、と。

 私は動けない。手も足も鉛の様にじっとしたままで、言う事を聞いてくれない。

 本当は動きたくて仕方ないのに。本当は逃げ出したくて仕方がないのに。

 だから私は見ているだけ。ただ狂気に染まった彼らが近づいてくるのを、動かずただ慄きながら見ているだけ。

 そして彼らは、私のもとへとたどり着くと、ただ無言のままに私の体に覆いかぶさる。

 一人、また一人、ゆっくりと覆いかぶさっていく。

 圧し掛かられながら覆われていく私の体は、あちこちが悲鳴をあげる。当然、私も痛みに耐え切れずに悲鳴をあげる。

 やめて、もうやめて、と。

 だけど彼らはやめない。狂気に犯された彼らに、何を言っても無駄だからである。

 やがて重みに耐え切れずに、嫌な音と共に私の体の何かが潰れる。

 ごりゅ、とも、ぐちょ、とも聞こえる、生々しくて耳障りな音。

 あまりの痛みに、涙と涎と鼻水を無様に垂らしながら私は泣き喚く。

 もうやめて、お願い、と。

 だけど彼らはやめない。その虚ろな視線すらも私に向けずに、ただ無感情に私を押し潰していく。

 圧し掛かられて、押し潰されて。

 また圧し掛かられて、押し潰されて。

 泣き喚く気力も無くなって、涙と涎と鼻水が乾いて肌にこびり付いて、でも痛みだけは増していって。

 そして最後に私の頭が潰し砕かれる音がして、意識が闇に塗り潰される。

 そこでようやく私は、悪夢から一時の解放を許されるのだ。

 現実という、ほの暗い独房の中での解放を。





 独房に入って数日後。

 私の裁判が行われる、という理由から私は外へと連れ出された。

 久々に感じる明るさと澄んだ空気を、私は何の感慨も沸かずに感じていた。

 やがて法廷の場へと連れ出された私を、あの月人が見下ろしていた。

 異例の早さで行われる裁判を少しだけ疑問に感じていたが、恐らくあいつが根回しをしたのだろう。

 下品なその笑みを睨み返しながら、私は言い渡される罪状を黙って聞いていた。

 判決は、死刑。

 言い分も何も無い、あまりにも不平等なそれは最早裁判とは言えないものであったが、私は別に何とも思わなかった。

 これであの悪夢から解放される。そう考えると、ここで殺されるのも悪くないと思ったからだ。

 だから私は、用意されていた絞首台に、何の抵抗も見せずに歩いていった。

 一歩、また一歩。

 神など信じていない私なのに、これではまるで殉教者ではないか。場違いな事を思いついて、思わず苦笑してしまう。

 そんな私に声を掛けたのは、あの月人。

 視線だけを動かして睨みつけてやると、相変わらずの下品な笑みがそこにあった。



『向こうに着いたら、貴様の家族と同胞によろしく言っておいてくれ』



 思わぬ単語に、私は呆気にとられた。月人の言った言葉の意味が分からずに、馬鹿みたいに呆けていた。

 それを見て、一層下品な笑みを強めながらそいつは、こう言葉を続けた。



『貴様が余りに不甲斐ないのでな、貴様の部隊の同胞と親族全て――』



 そこでわざと言葉を止めて。

 これ以上は無いというほど、嬉しそうに笑みを強めて。

 一息に、はっきりとこちらに聞き取れるように、言葉にした。



『殺したよ。特殊な薬で狂気に染め上げ、無様に這いずり回させながら、なぁ』





































 気が付いた時には、法廷は血と肉とよく分からないモノが充満する、凄惨で憐憫な有り様となっていた。

 私が今踏み付けているのは、さっきまで命乞いをしていた、家族と同胞の仇。

 折角だから狂気に犯して殺したかったのだが、月人であるそいつには私の瞳は効果が無いので、断念した。

 だから代わりに、少しずつ少しずつ、瓦礫で押し潰してやった。私が夢でされた様に、ただ無感情に押し潰してやった。

 私の有り様も、相当酷いものだったと思う。あちこちに傷は負ってるし、何本か骨も折っていただろう。

 だけどその痛みは、耐えられないほどではなかった。悪夢で感じていた時の方が、もっと痛かったのだから。

 狂わせた人間達に感じさせられた、狂える程の苦痛に比べれば、何でもなかったのだから。

 センスの無い芸術家が描いた絵画の様な法廷の中で、遠くに感じる喧騒を二本の耳で感じ取った私は、咄嗟に駆け出していた。

 何処へ、という疑問も浮かんだし、何故、という疑問も浮かんだ。

 それもそうである。

 最早、反逆兵となった自分に行く当てなど無いし、こうやって生きようと足掻くこと事態、先程までの私の態度からしても充分、矛盾していた。

 だけど今の私は、前に向かって駆け出している。一目散に、他のものに脇目も振らずに駆け出している。

 ならば、このまま何も考えずに突っ走ってやろう。そう、私は考えていた。

 何も考えていなかったのに、足は――体は――私は――何処かへと向かって、無我夢中で駆け出していた。

 最早、無様な逃亡兵となった自分を、何処かへと逃げ出させてくれた。





































 久々に、昔の夢を見た。

 月から逃げ出す切欠となった、あの出来事を。

 あの後も、本当に色んな事があった。

 いつの間にか辿り着いた地上での、師匠と姫と地上の兎との出会い。

 姫を恨み憎み、不毛な争いを繰り返す蓬莱の人の形と、彼女を見守る半人半獣との出会い。

 私を連れ戻そうとする月をやり過ごす、永遠の夜の牢獄。

 それを打ち破ろうと攻め込んできた、四人の人間と四人の妖怪との出会い。

 彼女達から広がっていった、多種多様な人妖との交流。

 そして、つい最近起こった、四季おりおりの花が咲き乱れる異変で出会った、一人の閻魔の説教。

 あれから悪夢は、もう見ない。師匠が作ってくれた薬があるからだ。おかげで地上に来てから、それなりに安眠は取れている。

 だけど夢は消せても、過去は消せない。

 狂気に染まった人間の顔も、写真に写った人間の笑顔も、消すことは出来ない。

 茫然自失の私へと言い放ったあの月人の言葉も、消すことは出来ない。

 むしろ消そうとすればするほど、それは私の脳裏の奥底にしっかりと根付いてくる。

 連れ戻そうとする月人は、私の罪を全て許すと言っていた。昔の私の功績を買ったから、だと。

 だけど私は、帰りたくなかった。永遠の夜で牢獄を作り出すと決めたのは師匠と姫だったけど、本当に帰りたくないと思ったのは私なのだ。

 もう、人間を狂気に染めたくなかった。

 もう、狂気に染まった目を見たくなかった。

 だから私は、逃げ出した戦場に目を向ける事無く、再び逃げ出した。

 故郷を、裏切ったとはいえ許すと言ってくれた月を、自分と戦うと言ってくれた同胞を、私は見捨てたのだ。



『時がいずれ、洗い流してくれるわ』



 師匠はそう言ってくれたが、後にこうも付け足した。



『ただしその前に、貴方自身が過去の行いと向き合わなければいけない。逃げてばかりじゃダメなの。憶えておきなさい、ウドンゲ』



 地上で名付けられた名前で、師匠は呼んでくれた。

 それは私に、過去を乗り越え今を生きろと言っているのだろう。

 そんな師匠の声無き声に、私は答えたい。声無き声なんかではなく、しっかりと答えたい。

 ――だけど、やはり怖い。

 過去と向き合い、あの狂気に歪んだ顔を、写真に写る笑顔を思い起こすのが、怖い。

 夢で見た、押し潰されていく感覚を思い出すのが、たまらなく怖い。

 過去を乗り越えるというのは、やはりまだ自分には難しいようだ。

 私は私自身の不甲斐なさに唇を噛み締めながら、誰も居ない虚空を見上げた。

 ――いつかは過去を乗り越えてやると、心に刻み込みながら。




「かくして、月の兎が過去を乗り越えるのは、もう少し先になりそうです、と」

「……何をブツブツと言っているのですか、紫さま?」 

「うふふ、何でもないわよ、藍」

「はぁ……そうですか」

「それより早くご飯にしましょ、私もうお腹ぺこぺこなのよ〜」

「珍しく起きたと思ったら、すぐそれですか。少しは私の苦労も……」

「何か言ったかしら?」

「いいえ、何も……では、すぐ作りますので少々お待ちを……」

「早くしてよ〜」





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