「あの、すみません」 呼び止めてきた声は、聞き覚えの無い女性の声だった。それに対して私は、特に何も気に止めずに立ち止まる。 大方、街頭セールスかアンケートの類だろうと思った私は、即座に断るつもりで声のした方へと、ゆっくりと振り返った。 別に急ぎの用は無いのだが、訳も無く時間を浪費させられるのが嫌だったからである。 そこに立っていたのは、まだ少女と呼んでも差支えが無いくらいに若い、二人の女性だった。 一人は、黒地に白いリボンの付いた帽子を被った、黒に微妙に栗色の混じった髪色の、快活そうな印象を受ける少女。 もう一人は、紫を基調とした西洋風の服装に身を包み、金細工の様に繊細で豪奢な金髪の、穏やかな雰囲気を醸し出す少女。 そんな二人の少女が、私の方を興味深げに見つめていた。 年甲斐も無く私は、その二人に見惚れてしまった。それも、一瞬で。 あくまで数秒の間だったが、それでも何もかもを忘れながら、見惚れてしまった。 理由は、よく分からない。 ただ何となく、そして自然に、私は二人に見惚れてしまっていた。 強いて理由を挙げるなら、二人の漂わせる独特の空気に惹き込まれてしまった、と言ったところだろうか。 街角の中、という事もあってここには今現在も、彼女達の他に幾人もの女性が居た。 何人かのグループだったり一人だったりの、目の前の二人と同い年くらいの女性が幾人も居て、普通に歩いて通り過ぎている。 今さっきも立ち止まる私の横を、幾人かの若い女性の一団が、姦しくも颯爽と横切っていったところだ。 しかし、その街角に居る若い女性の――勿論、先程の女性の一団の中にも、目の前の二人の少女と同じ空気を漂わせているのは、誰も居なかった。 これだけ他とは一色も二色も違い、そして溢れんばかりに活き活きとした空気を醸し出しているのは、目の前の二人以外には居なかったのだ。 「……なにか?」 内心でのちょっとした驚きをなるべく隠しながら、私は静かに二人へと問い掛けた。 私の言葉に対して、黒帽子の少女が口を開ける。 「実はちょっと、お話したい事がありまして……もし時間が大丈夫だったら、あそこでお茶でも飲みながらお話ししたいのですけど……どうでしょう?」 そう言って指差したのは、街の大通りから少し離れた場所に位置する、洒落た感じのする喫茶店。 落ち着いて何かを語り合う、という目的で訪れるのには、かなり適している様だった。 ――ふむ、なかなか、悪くないかもしれないな。と、私は訳も無く思った。 そうやって店内に入ったら、先に待っていた数人の男組と交代されて、強引にセールスを迫られる……といった一抹の不安が、無かった訳ではない。 しかし私には、目の前の二人の少女がそんな事を企んでいるとは、どうしても思えなかった――否、思いたくなかったのである。 「……ふむ、いいですよ」 だから私は少女の言葉に対して、笑顔で肯定した。訳も無く時間を浪費させるのは嫌だったが、まあこれくらいなら別に構わないだろう、と思ったからだ。 黒帽子の少女は嬉しそうに微笑みながら振り返り、金色髪の少女は硬かった表情を安堵したかのようにほんの少しだけ崩して、振り返った少女と顔を合わせている。 ――もしセールスだった場合は、頑なに断り通して颯爽と立ち去ろう。 そう考えていた私だったが、やっぱりそれも、面には出さないようにした。 ◆◆◆ 店内に入ると、珈琲独特の仄かな香りと、でしゃばり過ぎていない静かな音楽が、ふわりと私達を出迎えてくれた。 意気揚々と先導する黒帽子の少女は、手慣れた様子で整然と並ぶイスとテーブルの群れの中をすいすいと歩いていくと、店の中でも割と隅の方の、いかにも落ち着く事が出来そうな場所へと私を案内してくれた。 その案内された場所に行く途中、ちらりと店内の客の様子を横目で確認したが、どうやら店の中に私以外の男性の客は居ないらしい。その事に、私はそっと胸を撫で下ろしていた。 四角いテーブルを挟みあうようにして、私と二人の少女は丁度向かい合うように座り合う。 すぐにお冷を運んできたウェイトレスに、慣れた様子で日替わりのケーキセットを頼む二人。何も頼まないのも悪いと思ったので、私は普通の珈琲を頼んでおいた。 愛想良く、注文を確認したウェイトレスがカウンターの中へと消えたのを確認すると、黒帽子の少女が再びゆっくりと口を開く。 「……では、まずは自己紹介からですね。私の名前は、宇佐見蓮子。大学に通っている、たぶん普通の学生です。そして、こっちが級友の――」 「マエリベリー・ハーンです」 突然の流暢な日本語と共に、金色髪の少女はしっとりと微笑みかけると、私へと軽く目礼をする。予想外に丁寧な挨拶に、思わず私も釣られて目礼を返してしまった。 すると、何が可笑しいのか黒帽子の少女――宇佐見蓮子さんは少しだけ笑いながら、私に向かって言う。 「まあ長くて読み難くて面倒ですし、メリーでいいですよ」 「……ちょっと蓮子。なに勝手に人の名前、簡略化して呼ぶように勧めているのよ」 隣の少女からの思わぬ言葉に、金色髪の少女――マエリベリー・ハーンことメリーさんは、浮かべていた柔和な微笑みを不機嫌そうな物へ一変させると、そのまま睨むように細められた瞳で蓮子さんをじっと見つめ始める。 余り見つめられて居心地の良い視線では無いはずなのだが、見つめられている本人の蓮子さんには、特に気にした様子は見られなかった。 むしろ、さらに可笑しそうに笑みを浮かべながら、自分を睨みつけるメリーさんへ颯爽と振り返る。 「だってメリーの名前って、無駄に長いじゃない。いちいちマエリベリマエリベリ言ってたらこの人、絶対いつか舌噛んじゃうって」 「人の名前を早口言葉みたいに言わないで頂戴。そりゃ長いのは認めるけど、だからって私に何の断りも無しに言わなくたって――」 「あら、メリーの名前で舌噛んで怪我する人が悪戯に増える惨事を、黙って見過ごせと言うの?」 「言ってないし言った憶えも無い。というか人の名前を凶器みたいに物騒に言わないで頂戴」 「だってメリーの名前が無駄に長いのは事実――」 「私が言いたいのは――」 「いやだから――」 「そこは――」 「駄目――」 ……仕方ないので私は、愛想の良いウェイトレスが持って来てくれた珈琲をゆっくりと口に運びながら、二人の口論が収まるのを待つ事にした。 ふむ、良い味だ。ほろ苦い珈琲本来の味と芳醇で深い香りの奏でる、絶妙な旋律が何とも言えない……こういった場所にたまに足を運ぶのも、悪くないかもしれない。 ……おっと、どうやら終わったみたいだ。 何だか二人とも、何処か納得してないみたいだけど、終わったのならまあいいかな――そう思った私は、また事態がややこしくなる前に手短に自己紹介をする。 「蓮子さんに、メリーさんですね。私の名前は――」 簡単に自己紹介を済ませた後、私は早速本題を切り出した。 何故、わざわざ私を呼び止めたのか、その理由を聞かせてもらう事、である。 「それは、メリーが貴方に一目惚れしたって言って――」 またもや面白可笑しそうに口を開き始めた蓮子さんだったが、その顔が突然石になったかの様に固まる。 ぴしり、という擬音が聞こえてきそうな程に、見事な固まりっぷりだった。 笑みの形に引き伸ばした口をさらにひくひくと引き攣らせながら、ぎくしゃくとした不自然な動きで横へと振り向く蓮子さん。 それを静かに迎えてくれたのは、隣に座るメリーさんがにっこりと浮かべる、不気味なくらいに中身の無い微笑み。 彼女の手元には、さっき持ってきてもらったケーキセットに備え付けられていた、一本の銀色のフォークがしっかりと握られており、その先端がほんの少しだけ蓮子さんの手に刺さっていた。 そして、少しだけだが確実にフォークが刺さっているそこから、うっすらとスローモーション画面みたく血が滲み出してくるのが、私にもよぉく見えた。 ……また私は、しばらく珈琲を飲みながら、二人の口論を黙って待つ羽目となる。 口は禍の元。 この言葉が、いかに普遍的で信憑性の高い物であるのかという事を、私はこの時しっかりと学べたと思う。 「……まずは、私達の活動と能力について、話さないといけないですね」 おっと、さっきよりは早く終わったみたいだな――私はすぐに、二人の言葉へと意識を傾ける。 痛そうに刺された手をさすっていた蓮子さんだったが、その言葉と共に不意に真面目な表情へと変化する。 隣に座るメリーさんも、同じ様に真剣な表情へと早変わりした。 ……やはり、この二人は何処か違う。 直感だけでそう感じていた私だったが、今ここではっきりとその直感を、頭の中で【是】と認識できた。 やがて二人の少女は、静かに語り始めた。 自分達の――二人だけのオカルトサークル、【秘封倶楽部】の、活動内容の事を。 結界を探し出し、或いは暴き出して、その向こう側に何があるのかを飛び込んで見て来る――そういった、禁忌を犯している事を。 そして自分達が、他の普遍的なヒトとは違う能力を持っている事についても、事細かに語り始める。 片方は熱心に、もう片方は真剣に――そして両方ともに、私に聞き取れるくらいにはっきりとした口調で。 黒帽子の少女は、空を見れば自分の立つ場所と今の時刻が、恐ろしいほど克明に分かるという事を。 金色髪の少女は、あらゆる結界の境目が、己の意思とは無関係で極々自然に見えてしまうという事を。 ……彼女達の話を聞いていた時、私は、どんな顔をして彼女達の説明を聞いていいのやら、よく分からなかった。 恐らく普通なら――極々常識的な判断が出来るであろう有り触れたヒトなら、たぶん呆れた様な顔で聞いているのだろう。 何故なら、およそ現実としては成り立たない出来事を、この二人は熱心に真剣に語っているのだから。 禁忌を犯したモノ特有の後ろめたさ等が全く宿っていないその澄んだ瞳で、こちらをじっと見つめてくるのだから。 ――だからこそ、極々常識的な判断が出来るであろう有り触れたヒトと違い……そういった物に自然と心惹かれる私では、彼女達の話に対してどういった表情をしていいのか、全く分からなかった。 「……とまあ、これが私達の活動と能力についての、簡単な説明です」 「それで、貴方を呼び止めた理由ですけど……」 理由、という単語の含まれたメリーさんの言葉に、半分ほど思考に沈んでいた私は一気に現実へと引き戻された。 その時の私はたぶん、半ば呆然とした表情で二人を見つめていたのだろう。全く……年甲斐も無く冷静さを失っている自分に、溜め息が出る思いである。 そんな私の顔を見ても、メリーさんは特にその真剣な表情を崩さずに、言葉を続けてくれた。 「先程も言ったように、私は【結界の境目が見える程度の能力】という力を持っています。そしてこの結界の境目なんですが……見る時に、向こう側とこちら側では、微妙に色が異なって見えるんです」 「……色、ですか」 「ええ、色です。結界の向こう側は……例えるなら、色の薄いステンドグラス越しに、その景色を見ている……そんな感じで見えるんです」 「……色付きセロハン越しで、向こう側を見るような感じ……ですかね?」 「たぶん、そんな感じです。そしてこの、微妙に色が違って見える事なんですけど……実は、私の姿も蓮子の姿も、そんな風に――結界の向こう側にある風景と同じように、微妙に色が違って見えてしまうんです」 私は見えない手で引き摺り込まれるかのように、どんどん彼女達の話に惹き込まれて行った。 勿論、端から全てを信じている訳では無いし、思考の片隅で『今の自分は猜疑心の塊だ!』と言い聞かせながら、聞いているくらいだ。 それ程までに二人の少女が語る内容は、あまりにも現実離れをしていたのだから。 それでも……どうしても私は、彼女達の話にどんどんと惹き込まれてしまう。 呑み込まれるような、堕ちているような感覚が襲ってきても、彼女達の話に口を挿む事無く耳を傾けてしまっている。 好奇心からか――或いは、そんな言葉では表す事が出来ない、もっと別の何かか――私には皆目見当もつかなかったが、その何かが今の私をしっかりと捕えて、離そうとしなかったのだ。 私の中で渦巻く、多大な好奇心っぽい物と微弱な猜疑心に気付いた様子など微塵も見せずに、メリーさんはさらに言葉を続ける。 「向こう側へ行った事からか、もしくは何かしらの能力を持つからなのか……そのどちらかとは、私にも蓮子にも分かりません。それより重要なのは、そのどちらかが原因で私達の色が微妙に異なっている、という事なんです」 「メリーが言うには、私達以外にそんな風に微妙に色が違う人は、見た事が無かったらしいんです……ほんの、今さっきまでは」 メリーさんの言葉に続くかのように、ずっと黙っていた蓮子さんがそれだけを言う。 そして彼女は、その「今さっきまでは」という部分で不自然に言葉を止めてしまうと、黙って私をじっと見つめてきた。真剣で真っ直ぐな眼差しで、である。 隣に目をやると、メリーさんも同じ様に口を閉じながら、真剣で真っ直ぐな眼差しで私をじっと見ていた。 私は、不自然に言葉を止められた事と、こちらをじっと見続ける二人の視線を訝しげに思ったので、何か言おうと口を開け―― ――ようとした所で、唐突に理解出来てしまった。 彼女達が、何故そこで不自然に言葉を止めたのか。 そして何故、私を真剣で真っ直ぐな眼差しで、じっと見つめてくるのか。 私は本当に唐突に、理解できてしまった。 蓮子さんが言った「今さっきまでは」という不自然に途切れた言葉。 指し示す、その意味。 それが本当に唐突に、理解できてしまった。 ……そういう事、か。 「……そういう事、ですか」 「そういう事です」 私の言葉にオウム返しで答えたのは、メリーさんの静かな声。 真摯なまでに真っ直ぐな瞳を向けながら、彼女は私へとしっかりと告げた。 「貴方の、――さんの色は私達と同じ様に、だけど少しだけ微妙に違っています……まるで、普通の人と私達の境界であるかのように、本当に微妙に、です」 ◆◆◆ 私はとりあえず、珈琲を一口だけ口へと含んだ。 仄かに香る栗色の液体と共に、目の前の不思議な少女達から告げられた言葉を、自分の中へ取り入れようと試みるかのように。 喉元を通り中へと落ちていく豊かな温かさは、先程には感じられなかった切ない苦みの残滓を、私の舌へと置き去りにしていった。 さて、どうしたものか…… 「……嘘では、ないんですよね?」 目の前の少女達の言葉と表情から漂う張り詰めた空気から、先程の言葉に嘘偽りが無いという事が、二人と初対面である私にも容易に分かっていた。 分かっているのに、わざわざこうして確認の言葉を重ねる事が、どれだけ無意味に終わるのかという事も存分に分かっているつもりだった。 それでも聞いてしまうのは、やはり私が現代の人間だからだろうか。 あらゆる不可思議で曖昧な物全てを、無理矢理に否定して投げ捨ててきた、現実の申し子に過ぎないからだろうか。 「残念と言うべきか、むしろ逆に喜ぶべきなのかは分かりませんが……嘘で無いことは、確かです」 静かに口を開いたメリーさんの声色は、何処か暗く重いものを含んでいた。 何故それだけ沈んだ口調なのかは分からないが、私はそれを【気遣ってくれている】と解釈しておく事にした。 その方がまだ、気が晴れるかもしれなかったからだ。 無論、その程度では晴れるどころか、ますます暗鬱なもやもやが立ち込めてしまったのだが…… 「貴方を呼び止めた、理由の続きですけど――」 私の心中の暗雲を切り払ってくれるかのような、快活な物が含まれた言葉を発したのは、蓮子さんだった。 彼女はその活き活きとした口調を微塵も衰えさせる事なく、再び口を開く。 「メリーの言葉が嘘では無いのなら、貴方は恐らく、他の人とは違い何かしらの能力を身に付けている――もしくは、結界の向こう側を垣間見ているのかもしれない……そう考えたので私達は、貴方を呼び止めて話を聞こうと思ったんです」 快活な声色で語ってくれるのは、恐らく蓮子さんなりの励まし方なのだろう。 私はその気遣いに甘えながら、妙にもやもやする胸中を吐き出すつもりで、少しだけ意地悪な質問を蓮子さんへと投げかけてみた。 「なるほど。しかし仮に、私が貴方達の話を聞こうとしなかった場合には……どうするつもりだったのですか?」 我ながら大人気ない事だとは思うが、たまには良いだろうと自分に言い聞かせておく。 「なぁに、簡単な事です」 私の言葉に対して蓮子さんは、店内なので脱いでいた黒帽子を手でクルクルと弄びながら、歯を見せてニカッと笑ってみせた。 童心と野心の二つが絶妙に混じりあい、思わず惹き込まれてしまいそうになるほどに、魅力的で躍動的なその笑みを。 「それこそ路地裏に連れ込んで縛り付けてでも、聞いてもらうつもりでしたから」 ……先程の言葉だが、いきなり訂正させてもらおう。 彼女の笑みは魅力的で躍動的だが、それ以上にデンジャラスな香りも匂わせている、と。 恐らく冗談のつもりだったのだろうが、目が何処か真剣な輝きを含んでいた様に見えたのは、たぶん気の所為では無い様に思える。 人知れず私は、背筋に冷たい物が通り過ぎる感覚を、しっとりと味わっていた。 「――蓮子。冗談にしてもそれは、かなり物騒が過ぎるわよ」 すかさず、呆れ顔でフォローするメリーさんだったが、その声には何処か諦めの様な物が混じっていた。 これはあくまで私の推測でしかないのだが、恐らく彼女は日々こうやって、蓮子さんに振り回される毎日を送っているのだろう。 心の中だけで申し訳なかったが、困り顔を浮かべている金色髪の少女に対して、私はそっと労いの言葉を掛けておいた。 「あはは、まあいいじゃない」 何が良いのだ何が――そんな私とメリーさんの心中を全く察する事もなく、蓮子さんは快活にからからと笑い声を上げる。 その時に、メリーさんが疲れた表情を垣間見せたのを、今度ははっきりと窺い知ることが出来た。 やがて一頻り笑い終わった蓮子さんは、すぐに私の方に向き直る。 浮かんでいたのは先程とよく似た快活な笑みだったが、そこに存在する二つの瞳には、何処までも突き抜けるような活力と探究心とが、堂々と満ち溢れていた。 「――で、ここからが本題なんです」 「本題、ですか?」 「はい、本題です。貴方を呼び止めた理由の、さらに理由です」 オウム返しに聞いた私の言葉を、蓮子さんはさらにオウム返しで答えてみせる。 相変わらずの魅力的で躍動的でデンジャラスな笑みを、惜し気も無くありありとその顔に浮かべながら。 「先程も言ったように、メリーの言葉が嘘では無いのなら……まぁ、嘘だなんて可能性は、これっぽっちも感じていないんですけどね」 連子さんはそこまで言うと、浮かべている笑みをさらに強めながら、隣の少女をちらりと横目で垣間見た。 この言葉に一瞬だけ、ずっと黙ったまま紅茶のカップを傾けていたメリーさんの顔に、少しだけ照れ臭げな笑みが浮かぶ。 そして彼女は何も口を挿まずに、尚も喋り続ける蓮子さんの姿を見守るだけだ。 「……っと、話を戻しますね――メリーの言葉が真実なら貴方は、何かしらの能力を持っているか、結界の向こう側を見ている事になる。自覚など無いくらいの、本当に小さな物かもしれませんが……」 「なるほど……続けてください」 「ありがとうございます。ですから、もし何か……そういった事に、ほんの些細な何かでも心当たりがあるなら、教えてほしいと思っています。何故なら、私達は結界を暴いて向こう側を覗き見ている、【秘封倶楽部】だからです。知りたい物の情報を集めるのは、当然の事ですから」 「……確かに、その通りですね」 「はい、だから……」 「……だから?」 言うべき言葉を思案するかのように言葉を止める蓮子さんだったが、すぐに何かを決心した顔で口を開く。 「――何か心当たりがあるなら、何でもいいので教えてください! お願いします!」 直球過ぎて、何もかもを貫いてしまいそうな言葉を言い放つと同時に、蓮子さんは机の上に上半身を勢いよく乗り出した。 店内に響いた少女の声によって、少しの間だけ幾人かの視線が私達の座るテーブルへと集中するが、彼女はそれを全く気にもかけない。 やがて他の客の視線がこちらから逸れても蓮子さんは、その真剣な眼差しで私をじっと見つめていた。 愚直な程に真っ直ぐな眼差しに、言い知れないくすぐりを感じた私は、思わず少し隣へと視線を移す。 そこには、静かに座っているメリーさんの姿。彼女も静かながらも真摯なその金色の瞳で、私をじっと見つめていた。 蓮子さん程には真っ直ぐではないものの、何処か芯の強さを想像させる、静かな眼差しで見つめていた。 しばらくの間、私と二人の少女は一言も言葉を交えずに、じっと見つめ合う。 店内に響くでしゃばり過ぎない洋楽が、この時ばかりは随分と五月蝿く聞こえていたのを、私は嫌というほど感じていた。 このまま悪戯に時間を浪費していても仕方が無いので、私は珈琲の入ったカップを手に取ると顔の前まで持ち上げて、端を軽く口につける。 そして、わざと自分の視界から、二人の少女の視線が隠れる様に傾けて、ゆっくりと珈琲を口内に含んでいく。 別に、不快感を感じたとか、そういった理由からではない。 年齢的に言えばもう青年とも言い難い年である私にとっては、まだ本当に若い少女達から向けられる澄んだ視線が、ただ単に照れ臭かっただけなのだ。 私は考えていた。 彼女達の、オカルトサークル【秘封倶楽部】の問い掛けに対して、どのように答えようかと。 はっきり言ってしまうと私には、彼女達が語った、能力だとか向こう側だとかに関しての心当たりなど、本当に無かった。 ――否、実際にはあるのかもしれないのだが、私自身にはそういった自覚は、一切無かったのだ。 それに今になって冷静に考えてみると、目の前の二人の少女が言う事は、どうにも胡散臭くて信じきれなかった。 彼女達が嘘を言っている様には見えないのに、変わりは無い。興味を惹かれ、今も惹かれ続けている事にも変わりは無い。 だが、語った内容のあまりの現実離れっぷりに、やはり疑問を抱いてしまうのだ。 こうなると、この後に答えるべき言葉が、中々思い付かない。 正直に「身に覚えが無い」と言ってしまえば、話がそこで終わってしまうからだ。 一言か二言ほど確認の為に会話した後に、恐らく即座に別の行動を開始し出す彼女達は、私に断りを入れてここを後にするだろう。 脇目も降らずに颯爽と、私と会った事など忘れてしまったかのように。 そうなってしまうと、彼女達の言葉の内容が【是】なのか【非】なのかを窺い知る機会が、恐らく半永久的に失われてしまうはずだ。 これだけ興味深くて疑り深い対話が、そんなお粗末な終わり方で締め括られるのは、私にとっては真に御免である。 だから、私は考えていた。 カップの中身が無くなっても、中身が飲みきれてないと装う為にカップを傾け続けながら、考えていた。 美味しい珈琲を煎る時のように、じっくりと素早く、考えていた。 どれくらい思考の海に沈んでいたかは分からないが、やがて私の脳裏に、ひとつの答えが浮かんでくる。 今までの経験やら見た物やら、先程飲み干した苦味と薫りを漂わせる液体やら……色も形も様々なそれらを経由して、答えがふわっと浮かんできた。 正直、余り褒められた答えでは無いなと自分では感じたのだが、そこは仕方が無いだろうと思う事にしておく。 仕方が無い――実に便利な言葉ではあるが、多用するのは厳禁だな…… 罪悪感への逃げ道を即席で作り上げた私は、中身の無くなったカップを口から離して、ゆっくりと机に置く。 視線を上げた先に座る二人の少女は、先程とほとんど変わらずに、こちらをじっと見つめていた。 私から見れば眩しいくらいに澄んだ瞳で、易々と私を貫いていた。 その視線を私は負けじと――実際には数的にも質的にも、勝負にならなかっただろうが――真っ向から受け止めながら、心中でそっと呟く。 ……ここはひとつ、試してみるか。 「――蓮子さん。貴方なら、今この瞬間が何時何分何秒なのか、即座に分かりますか? 良ろしければ、それを教えてもらいたいのですが」 先程までの会話とは関係も脈絡も全く無い私の言葉に、彼女達は一瞬だけ呆けたような顔になる。 しかしそれも束の間で、二人共すぐに表情を改めると、横目でちらっと店の窓から空を覗いた蓮子さんが、探るように口を開いた。 「えっと――四時十二分の三十二秒、三十三秒、三十四秒……ですね。尤も、これは私の能力で見た時刻なので、貴方の時計とは若干ずれていると思いますけど……」 「ああ、大丈夫ですよ。ただ単に私が、今この瞬間の【本物】の時刻が何時何分何秒なのか気になっただけですので……いやはや、ありがとうございます」 訝しげな物へと変えながらも尚もこちらを見つめる二人分の視線に対して、私は自分の手元を垣間見てしまわないように注意しながら、微笑んだ。 そして彼女達の注意が他へと移る暇を与えない為と、少しだけ時間を引き伸ばす為に、懐から一冊の小さなメモを取り出す。 「これ、何に見えます?」 「……メモ、ですよね。どう見ても……」 おずおずと答えてくれたメリーさんに対して、私は微笑みながら「正解です」とだけ言って、さらに続ける。 「仰るとおり、これはただのメモです。その気になれば何処ででも手に入れる事の出来る、何の変哲も無い紙の集合物です……あくまでそれは、中に何も書いていない状態の場合、ですけど」 「……何が、書いてあるんですか?」 「興味がありますか? マエリベリー・ハーンさん」 わざと注意を惹きつける為に、あえて呼びにくいフルネームでメリーさんに問い掛けてみる。 若干、僅かな驚きを口元に表した彼女だったが、すぐに元の静かな表情へと戻す。 「無い、と言えば嘘になりますね」 「私も興味はあります。貴方が――色の違う人が持っている物ですから、それなりには惹かれて当然です」 メリーさんの言葉に続きながら、蓮子さんもはっきりと言った。 「なるほど。まあ、そんなに大した事は書いていないんですけどね」 思いの外、食いつきの良かった二人の態度に対して、私は心の中からの苦笑を浮かべてしまう。 ただ単純に時間を引き延ばし、注意を惹きつける為だけに取り出した物だったのだから、ここまで反応が良かったのは予想外だったのだ。 とは言え、元々これを話題にして時間を引き延ばすのが目的だったので、私は特に躊躇もする事も無くメモ帳をペラペラと捲る。 彼女達に見えるように、開かれた部分を自分自身とは反対方向に開きながら、で。 「本当に、大した事は書いていないですよ。それでも、良いのなら――」 「見せて下さい」 私の言葉を遮りながらメモ帳に手を伸ばしたのは、蓮子さんだった。若干、興奮した物が見え隠れする彼女に、私は苦笑しながらもメモ帳を手渡す。 それを、瞳に好奇心を輝かせながら蓮子さんは、食い入る様に見つめ始めた。隣に座っているメリーさんも、横から興味深げに内容を覗き見る。 「趣味の為のネタを、節操無く書き込んでいますからね……見辛いでしょう?」 「いえ、大丈夫です」 「メリーに同じ、です」 試しに声を掛けてみるが、二人とも意識がメモへと集中してしまっているからなのか、簡単な反応しか返してくれなかった。 自分の書いた物に、これほど熱中してくれるのは純粋に嬉しかったのだが……今この場では、何だか複雑な思いを感じた。 しばらくの間、メモ帳が捲られる時の紙の刷れる音と、二人の少女の感心した様な溜め息が、淡々と聞こえる。 静かで淡白な空間の中で、私は別に何をする訳でもなく、メモ帳を見つめる蓮子さんとメリーさんの様子を、ただじっと見ていた。 私が見てきて聞いてきて感じてきて調べてきた物の集合体を見て、他の人がどんな風に反応をしてくれるのか。 心の底から興味があったから、こうして反応をしてくれる彼女達を見ているだけで、私は満足だったのだ。 そんな中で不意に声をあげたのは、ずっとメモ帳を興味深げに見つめていた、蓮子さんだった。 「あ――」 「ん? どうかしたの、蓮子?」 「いや……何だかこの文。妙に気になっちゃって……」 「どれどれ……ふぅむ。確かに、なんだか心に残る文章ね」 釣られる様に視線を動かしたメリーさんも、口元に手を当てながら何かを考える様に目を細める。 「……何か、ありましたか?」 彼女達の反応からして恐らく悪い物では無いのだろうが、それでも気になってしまったので私は声を掛けてみる。 こういった所は、極力反応しない様に気をつけているのだが……まあ今はオフなので、たぶん大丈夫だろう。 「この文章が、どうしても気になってしまって……」 「短いんですけど、何だか考えさせられる文章なんですよ」 そう言って私へと、メモ帳のとあるページを開いて見せてくれる蓮子さん。 続く様にメリーさんも言葉を重ねて、隣から見開かれたページの中の、とある文章を指差す。 そこには、こう書かれてあった。 ◆◆◆ 【ヴォヤージュ1969】 二十世紀の旅人。 二十世紀のノアの箱舟は、期待と不安を乗せて宙を飛んだ。 だが、期待だけを月に置き忘れてきてしまったのだろうか。 未来と言われていた二十一世紀には、不安とほんの少しの幻想だけしか残されていなかった。 ◆◆◆ 「――それ、私が書いた物なんです」 蓮子さんがページを開いてメリーさんが指差した文。 それを見て私が言った言葉に、二人の少女はかなり驚いた様子でこちらへと振り向いた。 視線が急に集中した事によって私の顔から、思わず照れ臭い笑みが零れてしまう。 「調べ物をしていてふと感じた事を、つらつらと書いてみただけ、なんですけどね」 浮かんでしまった笑みを誤魔化す為に、私はそれだけを言った。 実際、それを書いた時の状況は言葉の内容と、ほとんど大差無かった訳なのだが。 「へぇ〜……これを、貴方が……」 その、私のつらつら書いた物を見つめながら、蓮子さんは感心した様に呟く。 一方のメリーさんも、何かを言う事こそ無かったが、興味深げに食い入る様にメモ帳の文章を見ていた。 ……そろそろ、頃合いかな。 「――実はそれ、続きを書こうかと考えているんですよ」 私の言葉に対して、こちらへと視線を移して興味深げに聞いてきたのは、メリーさんだった。 「続きを……ですか?」 「ええ、続きです。今さっき思い付いたばかりで、何を書こうかは全く考えていません。しかし、それでも書こうとは思っている、続きです――」 訝しげな表情へと変わるメリーさんから視線を外して、今もメモを食い入る様に見つめている蓮子さんへと移す。 そして、私が振り向いた事にも気付かない程に熱中して読んでくれている彼女へと、一言だけ問い掛けた。 「――蓮子さん。今は、何時何分何秒でしょうか?」 「――はい?」 「今が何時何分何秒なのか……貴方の能力で見て、それを教えて頂けませんか?」 突然呼びかけられた事に即座に反応出来ず、素っ頓狂な声を上げる蓮子さんに、私は再度問い掛ける。 私の声色から何かを感じ取ったのか、蓮子さんは特に何かしらの疑問を浮かべずに窓から空を覗き見、そしてすぐに答えてくれた。 「今は――四時二十六分の三十秒、三十一秒、三十二秒……です」 「ふむふむ、なるほど……ありがとうございます」 蓮子さんの答える秒に合わせながら、私は手元の腕時計をこっそりと操作。 と同時に横目でそれを垣間見て、デジタル式腕時計の画面に表示された事実をこっそりと確認し、誰にも聞こえない場所で声にならない声を呟きながら、私は納得をする。 ――そういう事、か。 「もしかして、何か予定とかあるんですか? それでしたら、別の日にでも――」 「いえいえ、その必要はありませんよ。私も別に、これから予定など無いですし」 気遣う様に声を掛けてくれたメリーさんの言葉を、私はなるべく優しく遮りながら、机の上にある物を置いた。 硬い物と硬い物が当たる時の独特な乾いた音が、店内に響いて即座に空気へと溶ける。 私が置いたのは、先程まで色々と弄っていた、極々普通のデジタル式の腕時計だ。 尤も、今は私が操作した事によって【時刻を刻み伝える程度の能力】とは、全く別の事を行っているのだが……それでもやはり、至って平凡な事実に変わりは無い。 その気になれば、誰もが何処ででも買えるであろう、代物である。 「――実はつい先程、私なりに貴方達の事を、試させて頂きました」 静かにはっきりと口にした私の言葉に、机の上の腕時計に視線が集中していた二人の少女は、即座にこちらへと顔を向けた。 『試す』という、余り良い意味では使われないその言葉に対してなのか、二人の顔が不安げな不審で曇る。 しかし私は、彼女達の表情に一切気付いていない振りをしながら、遠慮なく言葉を続けた。 「貴方達の話は私にとって、とても興味深い物でした。と同時に、とても疑り深い物でした。何故なら話の内容が、余りにも現実離れしているからです。私みたいに、他とはちょっと違う考え方を持っていない人なら、話の途中で笑い出して馬鹿にして、その後にこう言うでしょう。【お前は何を言っているんだ?】と……」 「……信じてもらえないのには、慣れていますから」 「そんな人にも何とか信じてもらおう、って思う程に、切羽詰まってもないですしね」 愁いを帯びた瞳で静かに呟くメリーさんと、眉間に皺を刻みながら鼻息荒く言い放つ蓮子さん。 彼女達のそれぞれの反応に、私は軽く頷きながらさらに口を開く。 「まあ、他の人の話は置いておきましょう……貴方達の話は、本当に突拍子も無い話です。そして、奇妙に惹かれる話でもあります。惹かれたが故に信じたい話なんだけれども、突拍子も無くて疑るしか出来ない話。嘘か真か、全く分からない話です。ならば、自分で確かめてみようじゃないか……そう思ったからこそ私は、貴方達の話が【是】か【非】なのかを確認する為に、貴方達を試してみたんです」 「……やっぱり、話を聞いてすぐに信用――とは、いきませんか」 苦虫を噛み潰した様な表情へと変化する蓮子さんの視線は、手に持った黒帽子をじっと見つめていた。 もしかしたら、私が口にした言葉とよく似た経験をしていて、それを思い出してしまったのかもしれない。 「流石に、内容が内容ですからね。今の時代では極々小さな子供でも、まずいきなりは信じてはくれないでしょう……ただし、何かしらの根拠があれば、話は別ですが」 私は机の上に置いた腕時計を手に取ると、液晶画面に浮き上がっている数字を彼女達に見せる為に、そちらへと向けた。 先程も言ったとおり、今この腕時計は【時刻を刻み伝える程度の能力】を全く発揮していない。私がこっそりとボタンを操作して、別の事を行わせていたからだ。 そして今、液晶画面に浮かび上がっているのは『13:58』という、アラビア数字と記号の集合体。 「――メリーさん。この数字の意味、何だか分かりますか?」 「え? えっと……全く、分かりません」 「――蓮子さんは、どうですか?」 「時計の故障、ですか?」 「いえ、残念ながら現役です。今さっきも私に、その時の偽りの時刻が何時何分何秒なのかを、的確に無言で教えてくれましたから」 難しい顔で時計を睨む彼女達に見える様に配慮しながら、私は再び机に腕時計を置いた。また乾いた音が店内に響き、そしてまた溶けて消える。 溶けて消えた音の残滓がさらに消え去るのをじっくりと待ってから、私は再び口を開いた。 「実はこの時計、今はストップウォッチとして機能させているんです。だから、この画面に表示されている数字は、【十三分五十八秒】という意味なんですよ……あまり機能が充実していないので、小数点以下を測れないのが、残念なんですけどね」 「……もしかして、今こうして表示されている【十三分五十八秒】というのは、貴方が何かの時間を測った結果、とでも言いたいのですか?」 「然り。その通りですよ、蓮子さん」 納得しきれない顔で問い掛ける蓮子さんの言葉に、思わず微笑みながら私は答える。 根拠に乏しい私が伝えたい事を、事前に理解してくれるという事は、やはり嬉しかったからだ。 「そしてこの、何かの時間を測った結果こそ……貴方達の、突拍子も無く【非】と判断されても何ら違和感の無い話を、私が【是】と判断するのに必要な根拠なんです」 一息に言い放った所で私は、一旦そこで言葉を止める。そして、年甲斐も無く昂ってしまった心中を落ち着かせて鎮める為に、静かに両の瞳を閉じた。 「根拠……一体、貴方は何を測ったんですか?」 「なに、大した事ではありません」 メリーさんの言葉に答えながら、私は昂った心中もそのままに瞳を開けて、蓮子さんへと振り向いた。 懐疑的な物の含まれた彼女達の視線を真っ向から受け止めながら、私はゆっくり言葉を紡ぐ。 「――蓮子さんに最初に聞いた時刻と、後から聞いた時刻。その間の十数分の時間を、ただ測っただけです」 「……え?」 「私に聞いた時間を、ですか?」 「はい。四時十二分の三十四秒から、四時二十六分の三十二秒まで……この、測り始めと測り終わりの時刻は、私自身がしっかりと記憶していますので、まず間違いはありません。そして、こうやってストップウォッチで測った結果は……ご存知の通り【十三分五十八秒】でした。私が記憶していた時刻の差と、見事に一致しています。これらが意味する事は何か……もう、お分かりですよね?」 真剣な表情で聞いてくれていた二人は、私の言葉に慌てた様に無言で頷いてくれる。 それを見て込み上げてきた衝動を抑えきれずに、私は歯を見せる程に大きな笑みを、自然と浮かべてしまっていた。 この根拠のおかげで、貴方達の話が【是】だと、やっと信じきれます――それだけを自分の内で、誰にも聞こえない声に出しながら。 「……つまり、貴方が二度も私に時刻を問い掛けてきたのは……」 「貴方達の話してくれた内容が、【是】か【非】かを確かめる為の布石だった……そういう訳です」 「もしかして、私と蓮子にメモ帳を見せたのも……」 「注意を惹いて、少しでも時間を引き延ばそうと思ったからです。測定の始まりと終わりの時刻が短すぎては、あまり信用できる結果とは言えませんからね……まあ、あれだけ私の趣味帳に興味を示してくれたのは、流石に予想外でしたけど」 熱中して読んでくれていた彼女達の姿を思い出した私は、思わず胸の奥がムズ痒くなる感覚を感じてしまう。 そんな私を尻目に蓮子さんとメリーさんは、納得した様な表情と呆れた様な表情が混ぜ合わさった言葉に表し辛い表情を、惜しむ事無く顔に表していた。 「……私達の言葉が嘘か本当かを確かめるだけに、これだけ凝った事をやったのは貴方が初めてです……蓮子も変わっているとは思ったけど、貴方も相当の変わり者なのかも……」 「まあ自分でも、ちょっと変わった所があるなぁー、とは思うんですけどね」 「は、はぁ……」 疲れた様に半笑いを浮かべながら、メリーさんはそれだけを言った。傍らを見ると、蓮子さんも似たような笑みを浮かべながら、何処か面白い物を見る瞳で私を見つめていた。 そんな彼女達に対して私は軽く笑い返した後、机の上に置かれてあったメモ帳を開けて挿んであったボールペンを取り出して、そこにさらさらっと文字の羅列を書き込む。 何故なら、続きを書く為だ。 【ヴォヤージュ1969】の最後に少しだけ付け足す、今さっき思い付いた出来立てホヤホヤの短目な文章を、書き足す為だ。 二人の少女が興味深げに見つめる中で、私は脳裏に浮かぶままに書き足した文字達を見下ろして、少しだけ修正を加えた。 そして最後に、文章の誤りが無いか二、三度軽く流し見をしてみる――うん、たぶん大丈夫だろう。 「書けましたよ。先程の文章の――【ヴォヤージュ1969】の、続きが」 言葉と同時に、私は手に持っていたメモ帳を差し出す。 二人の少女はおずおずとそれを受け取り、開かれたページに視線を落とした。 私が書いた内容は、以下の通りである。 ◆◆◆ 【ヴォヤージュ1969】 二十世紀の旅人。 二十世紀のノアの箱舟は、期待と不安を乗せて宙を飛んだ。 だが、期待だけを月に置き忘れてきてしまったのだろうか。 未来と言われていた二十一世紀には、不安とほんの少しの幻想だけしか残されていなかった。 しかしほんの少しとは言え、幻想は確かにあった。 未来と言われていた二十一世紀には、不安の他にも幻想が残されていた。 私達はそんなほんの少しの幻想を灯りにして、暗い不安の中を歩いているのかもしれない。 月に置き忘れてきた期待。それを見つけ出して、再びノアの箱舟で宙へと飛ぶ為に。 ◆◆◆ 「――ここまで引っ張っておいて、大変申し上げ難いのですが……実を言うと私には、貴方達が言う様な能力や経験に思い当たる節が、全くありません」 ようやく私は、正直にこの事実を告白する事にした。自分の好奇心を満たす為だけに彼女達を試しておいて、私自身はその見返りを何も用意出来ていない。 ならば、これ以上付き合わせるのは、彼女達にとっては苦痛以外の何物でも無いだろう、と考えたのだ。 「それなのに私の興味を満足させる為だけに、これだけ付き合わせてしまって……本当に、申し訳ない――」 「おっと、わざわざ謝る必要はありませんよ」 私の言葉を遮ったのは、蓮子さんの快活な声だった。 見ると彼女は、先程から浮かべていた、何処か面白い物を見る様な好奇心に疼く瞳で、私へと可笑しそうに微笑んでいた。 「まあ確かに、貴方自身の好奇心を満足させる為だけに試されたっていうのは、いまいち面白い感じはしません。でも、代わりにこれだけ面白いネタ帳を見せて貰いましたし、御相子ですよ」 「蓮子に同意です。それに、私達の話の内容に好奇心を抱いてくれただけでも、私達にとっては充分に有り難い事ですから」 「他の人に色々と話せる機会って、あんまり無いですからねー。いつもメリーに相談したり、相談されたりばっかりなので」 「普段から、蓮子に相談したり、振り回されたりの毎日ですので……だから別に、これっぽっちも気にしてないですよ。なので、わざわざ謝らないで下さい」 彼女達はそれぞれに顔を見合わせながら、可笑しそうに楽しそうに、すらすらと言ってのけてくれた。 本当にそっくりな、快活で美しい笑顔を浮かべながら、である。 「……ありがとう、ございます」 二人の言葉に私は、そんな簡単な感謝の言葉を言う事しか、出来なかった。 理由は、よく分からない。 強いて言うなら、彼女達が上辺だけでなく本音からその言葉を言っている事に何故か気付いて、それに感動してしまった――とでも、言えばいいのだろうか。 兎に角、この時の私は、胸の奥にこみ上げる温かなムズ痒さの所為で、それだけしか言う事が出来なかったのだ。 「……ねぇ、メリー。この人なら、大丈夫なんじゃない? メモ帳を見て思ったんだけど、中々面白そうよ、この人」 不意に蓮子さんが、隣のメリーさんに向けて口を開いたのは、そんな時だった。 見ると彼女の顔には、先程とはかなり異なった笑みが浮かんでいる。 童心と野心の二つが絶妙に混じり合った、魅力的で躍動的でデンジャラスな、微笑みが。 「あら。奇遇ね〜、蓮子。実は私も、貴方に同じ事を聞いてみようかなと、丁度考えていた所なのよ」 応対するメリーさんの顔にも、蓮子さんの笑みに負けないくらいの迫力が滲み出る笑みが、静かにはっきりと浮かんでいた。 母性と毒性の二つが絶妙に混じり合った、誘惑的で扇情的でミステリアスな、微笑みが。 やがて二人は顔を近付け合うと、何やら密談を開始し始めた。 相変わらずその顔に、片方はデンジャラスでもう片方はミステリアスな笑みを、堂々と浮かべながら、である。 どう見ても物騒で危険な気配が漂っていたのだが……私はどうして良いのか分からず、黙って事の成り行きを見守る事にする。 長く続くと思っていた密談は、たったの数十秒に終わりを迎えた。二人とも、何処か満足そうに瞳が輝いている。 そして彼女達は、未だに迫力のある笑みを御互いに浮かび合いながら、ゆっくりと近付けていた顔を離していき―― 唐突に、本当に唐突に、私へと振り向いてきた。 勿論、その顔に物騒で迫力満点の笑みを惜し気も無く浮かべながら、で。 「……あの……何か?」 思わず情け無い声で、それだけを聞いてしまう私。 どうにも雰囲気に呑まれてしまっていたのだが、まあこの場合は止むを得ないだろう。 何故なら、目の前の二人から漂う空気には、どうしても太刀打ち出来る気がしなかったのだから。 今の私はまさに、蛇に睨まれた蛙、その物だった。 「実は、貴方にお願いがあるんですよ」 ゆっくりと口を開いたのは、黒帽子をクルクルと弄っている蓮子さんだった。 心なしか彼女の瞳の輝きには、何やら剣呑な輝きが混じっている様にも見える。 口の中が緊張でカラカラに乾くのを感じながら、私はやっとの思いで彼女へと問い掛けた。 「お願い……ですか?」 「はい、お願いです。それはですね――」 不意に蓮子さんは瞳を閉じながら、ここで言葉を止める。 そして笑みを強めながら瞼を開いて、改めて私をしっかりと見つめると、机の上に身を乗り出しながら、こう言ってのけた。 「――貴方も、オカルトサークル【秘封倶楽部】に、入ってみませんか? というか、是非入ってください!」 ……………… ………………? ………………! 何ですと? ◆◆◆ 「えっと……それは、どういう意味でしょうか……?」 「文字通りならぬ、言葉通りの意味です」 「……でも、オカルトサークル【秘封倶楽部】は、大学のサークル活動だったと聞きましたが……」 「ああ、大丈夫ですよ。私達は別に、その程度の事なら気にならない性分ですから。むしろ部員が二人だけって現状の方が、辛いですしねー」 止まってしまった思考から精一杯の思いで紡ぎ出した言葉はメリーさんに即座に跳ね除けられてしまい、続けて口にした恐らく一番妥当な意見を蓮子さんはいとも簡単に一刀両断してしまう。 恐るべし、オカルトサークル【秘封倶楽部】の少女二人組、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン。 「ですが、私は社会人です。おまけに、貴方達と違って能力も何もありません。サークル活動に参加する事自体が難しいですし、よしんば参加できても足手纏いになるだけです。そんな私を入れても、何も――」 「……貴方は、結界の向こう側に興味は無いんですか?」 蓮子さんの一言に、私は思わず口を止めてしまう。 遮られた言葉の内容が、サークルへと勧誘された時に揺れ動いた思考へと、直接響いてきたからだ。 「興味、あるんですよね?」 「迷惑だなんて、あんまり考えない方が良いですよ。人を呼び出しておいて、自分はいつも遅刻するメンバーだって居るんですから……ねー、蓮子?」 「……五月蝿い」 わざとらしく名前を呼びながら声を上げるメリーさんと、不貞腐れた様に呟く蓮子さん。 しかし、即座に二人とも表情を改めると、私に向かって静かに口を開く。 「私達がメンバーとして迎えたいのは、貴方の様に私達の話や結界の向こう側に対して興味を持ってくれる人です。後、面白い人。能力の有無とかは、あんまり考えていないんですよ」 「貴方は、余裕で私達の条件を満たしていますからね。メリーとも簡単に話し合いましたけど、満場一致で誘っちゃおうって意見でしたから……まあ、二人だけですけど」 「大丈夫よ、蓮子。運が良ければ後少しで、二人から三人になるわ」 冗談さえ言いながら、何でもない風に言ってのける二人。その視線は間違いなく、私に対して期待する様な色を含んでいた。 「……私は――」 気が付いた時、私は感じていた事を言葉として吐き出していた。一旦、口を閉じて止めてみるが、とても抑えきれそうに無い。 彼女達はそんな私の言葉を、黙って待っていてくれた。だからそれに甘えて、心の趣くままに思っている事と感じている事を、二人の少女に向かってポツリポツリと話し始める。 「――正直に言うと、私は入りたい。オカルトサークル【秘封倶楽部】に入りたい。例え仕事や趣味で時間が取れなくても、能力が無くて足手纏いになっても、それでも私は入りたい。貴方達と行動を共にして、結界の向こう側がどんな物なのかを、この瞳で直に見てみたい。聞いてみたい。触れてみたい。だから――」 「入って、くれますか?」 静かに呟かれた声に、私は視線を上げる。そこに居たのは、他の人とは少し違った能力を持っている、二人の少女。 彼女達が静かに見守ってくれている中で、私ははっきりと声に出して言った。 「ええ。お誘い、喜んでお受けします」 すると私の眼前に、一本の白い手が差し出される。それは、蓮子さんの手だった。 「――ようこそ、オカルトサークル【秘封倶楽部】へ。私達は、貴方を歓迎します!」 彼女はそれだけを言うと、歯を見せながらニカッと微笑んだ。 魅力的で躍動的な太陽を思わせ、見惚れると同時に何か温かい物を分け与えてくれる、そんな微笑みだった。 「……ありがとう」 私は彼女に対して、感謝の言葉と共に差し出された手をしっかりと握り締める。 握った蓮子さんの手は儚い程に柔らかい少女の物だったが、そこから感じる胎動の様な温もりは、本当に活き活きとしていた。 ◆◆◆ 「では、また連絡をしますね」 ひとしきり話し合った後に、私は携帯電話に登録した番号とアドレスを確認しながら、静かに席を立った。 正確な時刻に合わせた腕時計が刻んでいるのは、既に夕方へと変化している。そろそろ帰宅しなければ、色々と今後の予定に支障が出来そうだと考えたからだ。 「恐らくサークル活動には、ほとんど参加出来ないと思います。やはり社会人である私には、中々時間が取れないですからね……その代わり、と言っては何ですが、色々と結界の向こう側に関係していると思われる情報を、調べて送っておきます」 「助かります……だけど、貴方はそれで良いんですか? さっきは、自分の目で結界の向こう側を見てみたと、言っていたのに……」 「……何でもない、と言えば嘘になりますね」 納得のいかない表情で呟いたメリーさんに、私は苦笑しながら答える。 「ですが私としては、貴方達の話を聞いただけで満足出来たんです。興味惹かれて、好奇心が駆り立てられて、何よりとても楽しめたんです。だから、向こう側を見てきた時の話をまたしてくれるのなら、私はそれで充分なんですよ……欲を言えば、一回か二回くらいは、実際にこの目で見てみたいんですけどね」 「……なら、良いんですけど……もし時間が出来た時には、遠慮なく連絡して下さいね」 「何だか嬉しそうねー、メリー」 「当たり前じゃない。やっと、三人目のメンバーが増えたんだから……そう言う蓮子は、嬉しくないのかしら?」 「勿論、嬉しいに決まっているじゃない」 そこまで言って、互いに嬉しそうに笑い合う二人の少女。 三人目のメンバーが加わった事が、余程嬉しいのだろう……その三人目となった私としては、嬉しいやら照れ臭いやらで何と反応して良いのか、分からなかったのだが。 そのままじっと突っ立っていても仕方が無いので、私は財布から幾らかお金を取り出して伝票の傍にそっと置いた。 「珈琲代、ここに置いておきますね」 「あら、別に良いんですよ。今日は蓮子の奢りですし」 「こらこらメリーそんな事言っちゃ駄目よメリー私が今月ピンチって事は知っているんでしょうメリーだから止めてお願いメリー」 「ふふっ、冗談だってば……でもそれくらいなら、後で私達が払っておきますよ?」 「いえいえ、貴方達学生にとって、お金は私以上に大事な物です。遊び然り、食事然り、嗜好品然り……社会人になると、お金を貯める事しか出来なくなりますしね。だから、これくらいは払わせて下さい」 これくらい、と言いながら私は、彼女達のケーキセットの分もしっかりと置いておいた。 興味深く面白い話を熱心に話してくれて、さらに私をサークル活動に入部させてくれた事――それに対しての、せめてもの御礼のつもりだ。 「では、また今度お会いしましょう。その時には是非、また面白い話を聞かせて下さい」 私の言葉に対して、二人の少女は笑みで答えてくれる。 何処までも突き抜ける程に眩しくて、下手な言葉よりも『任せておけ!』と如実に語っている、美しい笑顔で。 釣られる様に浮かべた笑みを返しながら、私は踵を返して颯爽と店の出口へ―― 「――っと、そうだ」 向かおうとしていた足を即座に立ち止まらせながら、二人の少女へと振り返る。 何故なら、不意に唐突に思い付いたからだ。 メリーさんが言った、私の色が違うという事実に関しての、理由となるかもしれない事柄を。 「下らない事なんですけど……どうやら私にも、能力に関しての心当たりがあるみたいです」 「ほ、本当ですかっ!?」 勢いよく立ち上がりながら、私へと身を乗り出してきたのは蓮子さんだった。若干どころか、かなり興奮した様子でこちらへと問い詰めて来る。 傍らのメリーさんも、慌てて立ち上がるという事こそ無かったものの、やはり蓮子さんと同じ様に興奮した様子の瞳で、私をじっと見つめていた。 かなりの反応の強さに思わず気圧されながらも、私は彼女達をなるべく落ち着かせるつもりで、ゆっくりと呟く。 ……尤も、効果は全く期待していなかったのだが。 「本当に、本当に下らない事なんですけど……それでも、聞いてもらえますか?」 「勿論です! 遠慮なく言っちゃって下さい!」 周りの客の事など何処吹く風、と言った感じではっきりと言い切ってしまう蓮子さん。 何も言わなかったが、勢いよく頷いてその言葉を肯定しているのは、メリーさん。 「幻想的とも不可思議とも言えない、本当に取るに足らない事なんですけど……そうですね、強いて言うなら――」 そんな二人に対して、私は少し思い悩みながらも、何とか言い切った。 「――強いて言うなら、【ゲームを作る程度の能力】……とでも言えば、いいんですかね」 「……ねぇ、蓮子」 「ん? 何かしら、メリー?」 扉の向こうへと男が消えたのを見届けてから、メリーはうっすらと口を開いた。 「さっき、あの人に見せてもらったメモ帳だけど……あの中に書いてあった事って――」 「これに書いてある事と同じ……そう、言いたいんでしょ」 何処からか取り出したのか、蓮子の手には何枚かのCDケースが握られている。 漢字のタイトルで名付けられたそれは、どうやらゲームの類らしい。 「それって確か、少し前に飛び込んだ結界の向こう側で、蓮子が拾ってきたのよね?」 「ええ。面白そうだったから、ついつい取ってきちゃったのよ。まあ、面白かったのに違いは無いんだけど」 「蓮子、嵌り過ぎてて大変だったもんねー」 「後少し、後少しでクリア出来そう……って言っている内に、いつの間にか時間が進んでいるのよ」 「別に嵌るのは良いんだけど、その腹癒せに自棄酒しちゃって勝手に酔われたら、私としては良い迷惑よねー」 「……悪かったわよ、メリー」 数日前に、とあるゲームがクリア出来ずに自棄になった酔いどれ蓮子の所為でメリーが振り回された事があったのは、まだ記憶に新しい出来事である。 疲れた様に溜め息混じりの声を上げるメリーの態度に、蓮子は少し不貞腐れながらも渋々と素直に謝った。 「っと、それはそれとして……このゲームを拾ってきた時の世界って、どんな所だったかしら?」 「そうねぇ……記憶が確かなら、私達が今居るこの世界とかなり似ていたと思う。まあ、天然物の筍なんかも売っていたから、こことは少しずれた位置に存在するって事には、間違い無いと思うんだけど……」 「……案外、この世界の過去の世界、とかだったりして」 「良い意見ねメリー。その可能性は充分に考えられる、むしろ限りなく正解に違いないかも。結界の事を思えば過去に行く事だって、有り得ない事では無いわ」 「……ねぇ、蓮子。それじゃあ、さっきの人ってもしかして……」 「そう考えると、あの人の色が違って見えた事に関しても、容易に説明がつくわね」 若干、驚いた様に少しだけ口を開いているメリーへと、蓮子は口元を緩めて微笑んで見せる。 「じゃあ蓮子は、あの人が知らず知らずの内に結界を乗り越えた……そう、言いたいのかしら?」 「うーん、ちょっと違うかなぁ……私はね、メリー。結界自体が、凄くあやふやになってきてると思うのよ。其処にたまたま、通り掛ってこっちに来ちゃった……こう、考えているの」 「結界自体が?」 「うん。勿論、全ての結界全部が、あやふやになっているとは思わないわ。だってそれだと、私達がサークル活動を行う時に、あれだけ苦労する筈が無いでしょ?」 「まあ……そりゃあ、そうよね」 「でしょう? だから私は、私達が住む世界とよく似通った世界――もしかしたら、過去の世界かもしれない世界との結界だけが、あやふやになっている思うの」 順を追う様に、一言一言じっくりと紡ぎながら喋っていく蓮子。 一方のメリーは、顎に手をあてて考え込みながら、蓮子の言葉に静かに耳を傾けている。 「……それじゃあ蓮子。何故、その過去の世界だけとの結界が、あやふやになったのか……貴方はどうやって、説明してくれるのかしら?」 「似ているから」 「へ?」 「簡単な事よ。過去の世界も未来の世界も、本質的に言えば今現在の世界とほとんど変わりは無いわ。つまり、似ているって事よ。そして過去と未来は、今現在と常に隣り合わせになっている……今この時この瞬間も、擦れ違って重なって通り過ぎているのよ」 「……つまり貴方は、結界があやふやになったのは別に今に始まった事ではない、昔も今もこれからも常にあやふやのまま……そう言いたいのかしら?」 「ご名答よ、メリー。今こうやって話している中でも、私達は過去にもなるし、今現在にもなるし、未来にもなる。そんなあやふやで不確かな結界なら誰がいつ超えてきても、全く不思議では無いわ……それと同時に、とても不思議でもあるけど」 何が面白いのか、蓮子はとても上機嫌な笑顔を浮かべる。 その手に持った幾枚かのゲームCDケースを、興味深げに見つめながら。 「……にしても、このゲームを作った人と会って話をして、おまけに最後にはメンバーになって貰うなんて……何というか、ここまで来ると運命も信じたくなるわね」 「三人目のメンバーは、過去の世界の幻想の造り手……こう言うと、私や蓮子よりも、遥かに格好良く聞こえるわ」 「あはは、それ言えてる」 「……でも」 「ん?」 「でも、あの人は結界の向こう側の人。いくら、あやふやな物だとは言っても、結界が存在する事に変わりは無い。そう考えると、連絡を取るのは難しいし……それどころか、もう会えない事だって……」 「何言ってるのよ、大丈夫に決まっているじゃない」 メリーの言葉がまるで杞憂であるかの様に、蓮子は快活に切り捨ててしまった。 並々ならぬ自信を瞳の奥で瞬かせながら、一瞬の淀みも無く言葉を続ける。 「あの人は、オカルトサークル【秘封倶楽部】の新しいメンバーよ。会えなくなったなら、私達が探し出して会えば良い、それだけじゃない」 「……物凄いプラス思考ね、蓮子」 「あら、メリーはプラス思考は嫌いなのかしら? 私はマイナス思考よりも、断然好きなんだけどなー」 尚も快活に言ってのける蓮子を見て、メリーは本日何度目かの疲れた溜め息を漏らした。 そしてそのまま、しょうがないなと言った感じの笑みを浮かべると、やんわりと口を開く。 「私もマイナス思考は嫌いで、プラス思考は割りと好き……そうよね、会えなくなったら探して会いに行けば良い……ただ、それだけよね」 「ええ、それだけよ。それにまだ携帯で連絡が出来ないって、決まった訳じゃないし」 「……普通に考えると、幾らなんでもそれは難しい様な気がするけど……でも、さっきは普通に繋がったから、何となく繋がりそうな予感もするわね」 「まあ、繋がったら万々歳。繋がらなかったら、結界暴いて飛び込んで会いに行く……それで良いわよね、メリー?」 「私が反対したら、貴方はそれを止めてくれるのかしら、蓮子?」 「いいえ、絶対に止めない」 「それでこそ、オカルトサークル【秘封倶楽部】の一人、宇佐見蓮子ね」 示し合わせた様に、二人の少女は同時に笑う。 本当に可笑しそうで、本当に楽しそうな笑顔を、活き活きと表しながら。 やがて、一頻り笑い終わった二人は、お互いに顔を見合わせる。 雨にも負けない、風にも負けない、台風にだって結界にだって負けそうに無い、自信に満ち溢れる笑み。 それを口元に醸し出しながら、静かに口を開いた。 「じゃあ行きますか、メリー」 「了解よ、蓮子」 「……まだ見た事の無い世界を見る為に」 「……まだ会った事の無い誰かと出会う為に」 「暴くわよ、結界!」 「探すわよ、結界!」 伝票をレジへと持っていって勘定を済ませると、二人は颯爽と喫茶店を後にした。 広がり続ける無限の世界を、一つでも垣間見る為に。 広がり続ける無限の人の繋がりを、一つでも繋ぎ止める為に。 新たに結界の向こう側の住人をメンバーにして、心意気三人の、今は二人だけの少女達。 オカルトサークル【秘封倶楽部】の二人は、まだ見ぬ世界を黄昏色の空と重ねながら、しっかりと大地を踏み締めて歩き去って行った。 隣り合う世界なんて、本当に何処にでも転がっている筈なんだ。 ふとした弾みでそこに足を踏み入れる事なんて、日常茶飯事で珍しい事では無いと思う。 大事なのはそんな時に、それを楽しむ心を持つ事なんだ。 そうすれば、隣り合う世界はきっと素晴らしく映るだろう。 擦れ違う人々に、無限の可能性を見出せるだろう。 だからこそ、楽しむ心。 何かを楽しみ、それの為なら馬鹿みたいになれる心を、どうか持って生きたいと思う。 ――おお、やっと着いた。 やけに家までの距離が、遠い気がしたけど……何でだろう? まあ、今はこうやって帰って来れたし、まあいいか。 さて、まずは……やっぱり、お酒を飲もうかな。 |
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