春の盛りも通り過ぎ、湿り気を帯びた風が気紛れに辺りを撫でていく、そんな季節。 途切れ途切れな朝霧に覆われ、木々の葉や梢に朝露が見受けられるその森の中は、心地良い清涼と静寂で満ち溢れていた。 そんな森の中を、朝霧を掻き分け腐葉土を踏み締め歩くのは、頭部から左右対極の長い角を生やした一人の少女。 小さな体躯には不釣り合いな程に大きな瓢箪を抱えながら、大の大人でも登るのが厳しそうな険しい山道を、少女はいとも簡単に軽々と登って行く。 崖を引っ掴んで腕の力だけで全身を持ち上げてよじ登り、足場とは到底呼べない様な地形でも涼しげな顔で軽やかに飛び歩き、時にはかなりの距離を跳躍して崖と崖の間を飛び越える。 現存する人智を遥かに凌駕する、太古の純然たる力。 惜し気も無くその力のほんの一端を使役しながら、鬼の少女――伊吹萃香は唇に付着した朝霧の露を、ぺろっと舌で舐め取った。 「もう少しかな、っと」 呟きと同時に、また一つの崖をよじ登る。 しばらくして、何度目かの崖を登った萃香の先に広がったのは、枯れて腐った葉に埋め尽くされた、道とは呼べない獣道。 見覚えのある光景に少しだけ口元を綻ばせた萃香は、微塵も躊躇せずにその獣道へと足を踏み入れると、ゆっくりと歩み始める。 一歩、また一歩と、枯れて腐った葉の断末魔の叫びとも取れる乾いた音と共に、道無き獣道を進む。踏み締められる葉の悲鳴以外には、時折小鳥の奏でる囀りだけが聞こえる、静かで心地良い空気。 やがて道の終わりと共に視界に入ってきたのは、申し訳程度に木々が退いて開けた場所。 先程の獣道と同じ様に、枯れて腐った葉によって埋め尽くされている為、一見しただけでは何が在るのか全く分からない。 しかし萃香には、其処が自分が目指していた場所だと手に取る様に分かっていた。 「邪魔」 まさに、鶴の一声。 萃香の言葉に対して、辺りを覆い尽くしていた枯れ葉は自ずと退き、何処かへと去って行く。 後に残されたのは、一枚も覆う物が無くなり殺風景な程に開けてしまった空間と。 「久しぶりだね」 それだけを言うと萃香は、自身の小さな身体とは不釣り合いな程に大きな、瓢箪の蓋を取る。きゅぽん、という独特の間の抜けた音が、束の間だけ辺りに響いて消えた。 そんな些細な事実を微塵も気にせずに、彼女は片手で瓢箪を引っ掴んで―― 殺風景な空間に転がる、適当な石を積み上げただけの【それ】へと、盛大に瓢箪の中身をぶち撒けた。 ◆◆◆ 「挨拶の時には、互いが持つ自慢の酒をぶっ掛け合う――確か、あんたが言い出した事だったね」 どっかりと胡坐を掻いて座り込んだ萃香の手には、何時の間にか見事な漆塗りの杯が握られていた。その杯へと瓢箪の中身を注ぐと、美味そうに一息で飲み干す。 「――うん、美味い。あんたの酒も中々美味かったけど、やっぱり私のが一番よね。幾ら飲んでも無くならないし」 崩れた石の一角を適当に積み直しながら、萃香は歯を見せて笑い掛ける。 勿論、積み上げただけの石が答えられる筈も無い。ただの沈黙となって返って来るだけである。 しかしそれでも、萃香は口を動かす事を止めない。聞いてくれる者が誰も居なくても、それでも言葉として吐き出しておきたかったのだ。 自分の過去と現在と、その時々の想いを。 「……あの後は、本当に色んな事があったよ。気に入った人間と勝負したら腕を斬られて、仕方ないから取り返しに行って……って、これは前にも話したね。ごめんごめん」 頭の後ろを掻きながら誤魔化す様に、再び瓢箪の中身を石へとぶち撒ける萃香。湿り気を帯びた石を満足気に見届けると、再び口を開き始める。 「腕を取り返してからの私は、結構ダラダラと生きてきたねぇ……まあ、今でも変わらないだろうけどさ。他の仲間達が住む国へ移り住んで、毎晩毎晩、飲んで歌って踊って暴れて……楽しかったよ、それなりにはね」 杯を口元へと運び、仰ぐ。 真っ直ぐなその瞳が見つめているのは、目の前の湿った石か、それとも別の何かなのか――彼女以外の誰かが知る術は、無い。 「でもね、私には物足りなかった。人間と勝負するって事がぽっかりと抜けていたあの国では、どうしても満足し切れなかった。何しろ、常日頃から人間を相手にしていた、あんたと一緒に暮らしていたからね。鬼だけしか居ないあの国に、満足できる筈が無かったのさ」 瓢箪の中身を、さらに石に向かってぶち撒ける。幾ら飲んでも無くならないのだから、出し惜しみをする道理は全く無かった。 「だから私は、鬼だけの国を抜け出してあの場所、幻想郷へやって来た。私の力で人間、妖怪、その他諸々を萃めて宴会を開いて、さらにどんどん規模を大きくしていって、鬼の国に閉じ篭る仲間達も萃めての大宴会を開いてやる……そう心に決めて、私は百鬼夜行に為った」 百鬼夜行。 失われて久しい、太古の宴。 鬼がその力を以って鬼を呼び萃め、我が物顔で練り歩く一種の行軍。 そして、鬼が鬼である証を誇示する、一族の誇りの業。 「――でも結局、駄目だった」 横顔に浮かんだ笑みは、何処か清々しい物だった。 あっさりと自分の試みが駄目だった事を口にしながら、萃香は杯の中身を飲み干す。 不釣り合いな程に大きな瓢箪と、不釣り合いな程に大きな杯。その二つの品物が、この小さな鬼が無類の酒好きだと、何よりも雄弁に語っていた。 「駄目だった理由は色々と有るけど……簡単に言うなら、私は他の仲間達みたいに為れなかった、って所かな。人間と鬼の関係を守り続けられる程、私は素直にも誠実にも為れなかった……あんたみたいに、最後まで人間と砕けた関係で付き合ってやろうって、考えちゃってね」 横たわる石は、何も答えない。答える筈が無い。 だがそれでも萃香は、石に瓢箪の中身を撒く事を止めない。先程も言った様に、どうせ中身は無くならない。故に、出し惜しみする道理は無いのだ。 ならば、それなりの年月を共にした同族への手向けを惜しむ理由も、当然存在しない。 例え、他の仲間達が人間に愛想を尽かして去って行った時も、全く気にも留めずに人間を相手にし続けた、自分と同じくらいに不誠実で酒が好きな奴でも、手向けを惜しむ理由は何一つ無いのだ。 「妙な酒を飲まされて動けなくなり、挙句の果てには寝首を掻かれて首を斬り落とされて……それで首だけになりながらも、『人間は面白い』って笑いながら事切れた、あんたみたいにね……そこまで物騒じゃないけど、それくらいにいい加減な関係も、悪くないって思えたのよ」 そこで始めて、萃香の顔に笑顔以外の表情が浮かぶ。 透明で掴み所の無い、霧の様に曖昧であやふやとした、不思議な表情が。 だが、それも束の間。 即座に元の快活な歯を見せる笑みに戻ると、再び杯へと酒を注ぎ一息に飲み干してしまう。 先程から何杯も飲み干しているのに、酔った様子は微塵も見受けられないのは、鬼としての種族な故か、根っからの飲兵衛な故か。勿論誰にも、分かる筈が無い。 「ま、こんな所かな。兎に角、私は幻想郷で楽しくやってるって事。ちゃ〜んと、伝えたからね」 言いながら立ち上がる萃香の手からは、何時の間にか漆塗りの杯が消えている。 別段驚く事でもない。鬼としての力を使役してしまえば、これぐらいの事は文字通り、赤子の手を捻るより簡単なのだから。 大きな瓢箪の蓋を閉め片手で軽々と担ぐと、萃香は歩き始め、そしてすぐに立ち止まる。 振り返って横目で垣間見たのは、あの適当な石を積み上げただけの、【それ】だった。 「――じゃね、気が向いたらまた来るよ」 たったそれだけの、味気も無く何気も無い言葉を置き土産に、萃香は軽い足取りで歩き去ってしまう。 後ろ髪を引かれる思いの欠片も、未練がましい態度の片鱗も微塵も見せずに、普段と変わらない飄々とした態度で朝霧の中へと消えた後姿は、誠実さに欠ける程に清々しい物だった。 残されたのは、殺風景な空間に転がる、適当な石を積み上げただけの、弔いの証。 酒によって湿った【それ】を、朝霧と小鳥の囀りとそれ以外の心地良い静寂が、在るがままに自然と包み込んでいた。 ◆◆◆ 雲海の名所として知られる、大江山。 この日の早朝にも見事な雲海が見受けられたらしく、その時に登った登山者が半ば興奮口調で語っていたらしい。 噂ではこの日の雲海からは、何やら酒の良い香りが漂ってきたと言われている。 酒呑童子伝説に則った冗談か幻か、はたまた昨今の花見などで見られる、無礼な誰かによる酒盛りの名残りか。 真偽の程は、不明である。 |
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