気が付いた時、男はそこに立っていた。 見たこともない場所、というのは語弊があるだろう。見た覚えがあり過ぎて、逆に記憶に残らない場所、そう言った方が正しいかも知れない。 建物があり、その向こうには山があり、更に向こう側には雲と空が見える。そのまま見上げれば同じように雲と空が広がっており、何とはなしに見下ろした足元には、人の手が加えられた鼠色の路面がある。 そこは、やはり何処にでもありそうな場所だった。最初に目にした時と何ら変わりない。 だが不意に、違和感が生じた。 始めは小さなものだったが、それは周りの景色を見つめていく内に徐々に大きくなっていった。 建物の形。山の影。空の青さ。雲のかげり。路面の感触。 それら全てに、男が日々の生活の中で見通してきたものと比べて、言いようの無い違いを感じる。 敢えて言うなら、食い違い、とでも言えばいいだろうか。 もどかしさのような自身の思いに、男は突き動かされたかのように歩を進めた。硬い路面、踏み締める度に擦れた音がする。その些細な音ひとつひとつにも、確かな違和感を男は覚えた。 一歩、一歩、また一歩。 そうして十歩ほど歩いただろうか。 自ずと足を止めた男の脳裏に、ようやく、その疑問が浮かび上がってきた。思えばすぐにでも浮かんできそうな、しかし何故か今の今まで一欠けらも浮かんでこなかった、ひとつの疑問である。 建物。山。空。雲。路面。 それらをゆっくりと身体ごと動かしながら見つめていき、最後にそこだけは違和感の感じない、自分の掌を見下ろす。 「ここは、何処だ?」 呟きは、誰にも聞こえない。聞こえるはずがなかった。周りに誰も居ないのだからそれも当然だろう。 男はそう思っていた。 突然、視界いっぱいに鼠色が広がり迫って来たので、男は咄嗟に顔を逸らした。痛みが、頬を含めた身体の至るところに走る。 後ろ手に縛り上げられ、硬い路面へと捩じ伏せられたのだと知ったのは、それから間もなくのことだった。 見ると、男の周りには幾人もの人影が立っている。 その誰もが、見慣れない服装をしていた。 ◇ スズキミノル。 自身の名前を問われて、男はそう答えた。 変わり映えのない名前だと、口に出しながら改めて思った。容貌もたぶん人並みである。長い職業生活を終えて数年を経たその顔には、それ相応の皺がありありと刻まれていた。白いものが大半を占める頭髪は、日ごとに薄くなっているような気もしている。 もっとも、今ではその全てに対して、大した感情は持っていない。諦め、とまではいかないものの、それによく似た心境だった。 老いるとは、たぶんこういうことなのだろう。 子供から大人へと育つ中で、見えないものが見えてくるようになり、逆にそれまで見えていたものは不意に見えなくなる。そうして、見えたり見えなかったりが繰り返されるのだが、歳を重ねていく内に、今度はその見えていたものが段々とぼやけてくる。硝子が磨耗して曇るかのようにして曖昧なものとなっていき、やがてはそれが今の自分には必要ないのだと思い至って、その場に落ち着いてしまうのだ。 それが男の過ごした、老いの有り様だった。 「なにか言いたいことは?」 静かながらも聞き取りやすいその声に、男は緩やかに面を上げる。 例えるなら、そこは裁判所だった。 とは言え、幸か不幸か男には、人生の中で裁判所に出歩くような経験はひとつも無かった。あくまで、テレビや新聞などで目にした裁判所と、この部屋の印象とが合致しただけである。 だが、あながち間違っていないのかも知れない。 見慣れない服装をした人らしきもの全てが、一言も漏らさずにこちらを見つめている。皆一様に難しい顔をしており、どこか気の無い態度で立っている男が、滑稽に思えるほどだ。 そして前方には、小高い位置から数人が男を見下ろしている。先程の聞き取りやすい声は、その中でも中央に陣取っている少女のものだった。 まだ幼い顔立ちながらも、落ち着いたその佇まいは男から見ても感心できるものだった。長い髪を結っている可愛らしい黄色のリボンも、不思議とその雰囲気を崩していない。 『綿月依姫』と書かれたプレートが、少女の傍にある。 恐らくそれが彼女の名前なのだろう。その読み方までは、男にはよく分からなかったのだが。 もう一度、男は周囲をゆっくりと見渡した。 最初に見渡したのはこの部屋に入ってきた時である。その際にも、男は多少戸惑いながらも、なるべく平静を装って周囲の様子を確認していた。 今は、そうやって装う必要も無いくらいに、内側も外側も落ち着いていられる。 これもやはり老いたからだろうか。 男は、周りの人影を順々に見ていく。 男性もいれば女性もいる。背の高いのもいれば低いのもいる。だが意外と、老いていると思えるものが少ない、まだまだ若いものが大半を占めていた。 それは、まるで裁判官のようにこちらを見下ろす人影も同じである。 ふと気が付いたのは、そんな時だった。 これは決して、裁判所などではない。 裁判所であって良いはずなどない、と。 確かに、聴衆は皆一様に真剣な面持ちでこちらを見つめている。裁判官のような数人もそれは例外ではない。それだけを見るならば、確かに裁判所と呼んでも差し支えはないだろう。誰もが例外なく目前に対して真剣に向き合うこの場は、司法にとっての戦場と肩を並べられるほどに、社会的に重要な場所なのかも知れない。 だが、やはり違う。 その事実に思い当たった時、男は自然と笑い始めていた。 固唾を呑んで見つめていた聴衆から、わずかばかり戸惑いの気配が伝わってくる。 それがまた余計に、男の笑みを助長させる。微笑む程度だったその笑みは、見る見るうちに口の端を吊り上げさせていき、遂には堪えきれなくなった発作が歯と歯の間から漏れ出てきた。 気が付けば、自身でも卑屈だと思うほどに背を丸めながら、男はくつくつと喉を鳴らして笑っていた。 ここには弁護がない。 弁護のない裁判など、裁判であって良いはずがないのだ。 その事実が奇妙に可笑しかったので、男はそうやって笑い続けていた。 「……なにか、言いたいことは?」 笑いながらでもその声は、はっきりと耳に届いた。 沈むようにして気持ちを落ち着かせてから、男は再び面を上げる。背筋もそれなりには伸ばしてやった。 視線の先には、読み方の分からない『綿月依姫』の顔がある。怪訝そうに眉をひそめているその顔は、中々に可愛らしいものだった。よくよく見ると、幼い顔立ちの中にもしっかりと女の色香が感じられる。若い頃ならば、声のひとつでもかけていたかも知れない。 だが生憎、男は既に老いていた。 単に外見だけではなく、感情などの中身も含めて。 「名前、なんて読むんだい?」 一番、聞いてみたいことだった。 思わぬ問いだったのか『綿月依姫』の目が、呆気に取られたかのように丸くなる。そのまま瞬きを三回ほど繰り返してから、再び怪訝そうな表情に戻る。 「わたつき、よりひめ」 それでも少女は、しっかりと答えてくれた。男の中で、『綿月依姫』と『わたつき、よりひめ』とが一致する。 「綿月依姫か。大層だが、良い名前なんだろうね」 本心だった。 誇張でも偽りでもなく、男は心からそう思って、心からそう口にした。 大層、という部分に周囲の何人かが微かに反応したが、当の本人にそれを気にした様子は無い。綿月依姫は黙ったまま、少し微笑んだだけだった。 「あんたら哀しいね」 いつの間にか、そう呟いていた。 その言葉に少女の微笑みが、束の間、はっきりと強張ったものになる。 聴衆からは、やがて動揺の気配がはっきりと伝わってきた。ある者は半ば乗り出すかのような姿勢で目を見開き、ある者は大袈裟とも思える仕草で開いた口を手で押さえ、ある者は眉間にくっきりと皺を寄せながらこちらを睨み付けてくる。 小高い位置にいる数人も、それぞれ似たような反応だった。口元に手を添えながらこちらを見つめてくる綿月依姫こそが、その中でも一番落ち着いているように男には見えた。 別に、意図した訳では無かった。この状況で誰かに皮肉を投げかけられるほど、男は自分を器用だとは思っていなかった。 だが本心だとも言えなかった。 気が付いた時には、その言葉を口にしていたのだ。 何が、何故、哀しいのか? 問いかけられても、男には答えられそうに無かった。 自身が呟いた言葉だというのに、その意図するところも理解できないのだ。おまけに、その程度の言葉で向こうはこんなにも動揺している。おかしなものだ、世の中は意外と適当に回っている。 またもや、乾いた笑みが口元に浮かぶ。男はそれを、他人事のように感じていた。 数人の人影に取り囲まれたのは、それから間も無くのことだった。 どうやら、男をこの場から早々に立ち去らせたいらしい。無言でこちらを見下ろす瞳がそれを物語っていた。 もとより、抗う気持ちなど無い。颯爽とも言える足取りで男は踵を返した。注がれる多くの視線は、不思議と気にならない。 出口がゆっくりと近付く。質素ながらも意匠を凝らした、大きな扉だ。 その目の前で、男はぱたりと足を止めた。取り囲む人影は、こちらに抵抗の意思が無いのを分かっているのか、黙したまま立ち止まり手を出そうとはしない。どこか場違いなその気遣いを、男はほんの少しだけ有り難く思った。 振り返る。 目をやったのは小高い位置の影。 綿月依姫は、難しい顔でこちらを見つめている。 そこに向けて男は、先程までの乾いた笑みとは違う、なるべく優しいと思える笑みを浮かべた。 じゃあね。 声に出さずにそう言って、男はその場を後にした。 ◇ 明朝、あなたには死んでいただきます。 開口一番、部屋へと入った時に、綿月依姫からそう言われた。嘘ではないと分かったのは、そこに込められた確かな響きに呑まれたからだろうか。それを聞いた途端、男の身体からはするりと力が抜け落ちていた。 今は何時なのだろう。 気にもなったが、結局、口に出すことはなかった。朝だろうと昼だろうと、それこそ今が夜だろうと、明朝には死んでしまうのだ。その違いはわずかなものでしかない、男はそう思っていた。 残りの時間が少ない。 そのことに、何ら変わりはないのだから。 次の質問を投げかけられたのは、それからすぐのことである。 スズキミノル。 自身の名前を問われて、男はそう答えた。 ◇ 懐から、フィルムケースを取り出す。 商店などでも久しく目にしていないそれを、蓋を開けてから傍らに置いた。その中には幾つかの錠剤が覗いている。ここ数年、何処に行くにしても肌身離さず持ち歩いてきたものだ。これが無ければ、ここでこうして静かに座ることも儘ならない。 不治の病。 老いというものを必要以上に実感し、死に対しては奇妙に乾いた反応しか返さなくなってしまったのは、恐らくこれが原因だ。自分のことながら、男にはそれ以上に考えを深めることは出来なかった。 余命数年。 意外に長いなと思った。 その宣告をされた数週間後に、妻が死んだ。溜まりに溜まったものに耐え切れなくなり、折れるようにして逝った。医者の説明では、そういうことらしかった。妻だったものの顔は、当たり前のように安らかだった。 以来、独りで考える時間が増えた。余命という言葉を、死というものと一緒に考えたりもした。頭は不思議と澄んでおり、薬を飲んで落ち着いてさえいれば、むしろ今までに無いほど気分は良かった。 息子夫婦や娘夫婦も最初こそ気遣うように何度も訪れていたが、やがて男が痴呆も無くしっかりしていると分かると、訪れる回数も年に数回程度で落ち着いた。寂しいと思ったことは無い。逆に会うのを控えていれば、それだけ会った時の喜びもひとしおだからだ。迎えるたびに大きくなる孫など、ただ見ているだけで溜め息が出る。 何より、独りは気楽だった。死が迫るのを病というかたちで実感しながら、それでも男の心は静かなものだった。 「思ったより、早くなったなあ」 染みひとつ無い天井を、じっと見つめる。 言葉のままだった。理不尽な死を宣告されたにもかかわらず、男の心境のほとんどはその呟きだけで片が付いた。それは、奇妙奇天烈な機械の数々で身体を調べ上げられた時も、この味気の無い狭くて簡素な部屋に押し込められた時も変わらない。他に強く感じたのは、さっき出された弁当が意外と美味しかったことである。少しばかり良いものを出してくれたのかも知れない、訳も無く男はそう思っていた。 あの場所を裁判所と例えるなら、ここは独房である。剥き出しのパイプで形づくられたベッドがひとつに、隅には洋式便器がひとつ。部屋にあるのはそれくらいだった。今は床に直接腰を下ろして、運ばれてきた弁当を食べ終えたところである。尻のあたりが少しばかり冷たい。 さて、冷たくなったのは果たして尻だけか? 口に出さずに囁きながら、錠剤を取り出す。フィルムケースの中に入っていたのは、一回分の分量だけだった。使い捨てらしきコップに注がれた液体で、一息に飲み下す。 中身は、水だった。 錠剤のころころとした感触とともに、口内から食道へと降りていくのが感じられる。鼻腔の奥に生じた微かな残り香からも、その液体が水であることに間違いはなかった。飾り気がなく、だからこそ潤うようなその後味が、食後の腹心地を優しく揉んでくる。 だが、何かが足りなかった。 水だから味気が無い、という訳ではない。その液体が、水であって水ではないかのように、何かが欠けているのだ。 違和感を覚えながら、男は再びその水を口に含んだ。口内を撫ぜ、舌の上で転がし、頬へと通してからゆっくりと飲み込む。それらの感触全てが、これは水だと確かに告げていた。むしろあのカルキ臭さもなく、そういった意味では少しばかり良い水なのかも知れない。 しかしそれでも、何か物足りない。満ち足りない。 試しにコップに鼻を近づけてみるが、異臭などはしなかった。液体は無色透明であり、それを通してコップを掴む男の手がぼんやりと覗いている。少なくとも見た目や匂いに関しては、間違いなく水だった。 何が足りないのか。 一通り、様々なことを思い付いてはみたが、どれもこれもしっくりと来ない。 そうこうしている内に、錠剤の副作用による眠気が襲ってきたので、男はそのままベッドへと横になった。 少女の、綿月依姫の言ったことが本当であるなら、今日が最後の夜である。 少し、疲れたかな。 それだけを思い、男はすうっと瞳を閉じた。その部屋には窓が無かったので、今が本当に夜なのかは、まったく分からなかった。 目が覚めた時、部屋の入り口には迎えが来ていた。 昨日の弁当は既に片付けられている。あの水の入ったコップも、無くなっていた。 ◇ 鼠色の路面がどこまでも続いている。 その上を、男は歩いていた。周りに建物らしきものは無く、岩肌のような大地が広がっているだけである。その広大な敷地の中に、一筋の舗装された路面が通っているという具合だった。 無論、人影も見当たらない。数歩の間を置いて、一人の少女が付いて来ているだけだった。こつりこつりと、律動的に路面を踏み締める音が、男のものとは別に聞こえてくる。 朝、迎えに来たのがその少女だった。 奇妙な格好をした少女だった。 学生が着るようなブレザーを身に纏い、腰にまで届きそうな長い髪は薄い紫色に染まっている。それだけならまだしも、その頭頂部には草臥れたコートのように皺の寄ったウサギの耳、と思しきものが装着されていた。ちなみに、本物の耳はその長い髪に覆い隠されており、今も目にはしていない。 思わず、眩暈がした。 ふざけたことをするなと思い、その耳を引き抜いてやろうとおもむろに手を伸ばしたが、それは少女の手によって阻まれてしまった。思った以上の力で腕を握られ、男は仕方が無くその手を下ろした。どうやら、触るなとのことらしかった。 そんな一悶着もあってか、それからずっと、男も少女も無言だった。もとより、話すことなどひとつも無いのだ。 むべなるかな。今は、歩くことに気を遣っていればいい。 こつりこつりと二人分の足音を響かせながら、ひたすら歩き続ける。 目指す場所は遠いのか。と言うより、そんな場所など果たしてあるのか。そう思ってしまうほどに、変わり映えの無い景色が続いている。見つめる先では、鼠色の路面が地平線の向こう側に消えていた。岩肌のような大地も同様である。 あれは、どうしてなんだろうなあ? 昨日の水のことを、男は考えていた。 そればかりが思い出されてしまうのだ。他のことも考えようとするのだが、ふと気が付くと、その水のことへと思考が傾いている。 水。 そう、水である。 あまり拘りを見せたことは無かった。精々、水道水の煮沸消毒を心掛けていたくらいである。それを冷まして飲めば、それだけで美味い、喉も潤う。偶に、ミネラルウォーターなども買って飲んでみたりもしたが、味の違いなどは終ぞ分からなかった。よくそれで、味音痴だと知人にからかわれたこともある。 その自分が、こうも水に関心を寄せている。寄せられている。なにか見えない力にでも促されるように、考え続けている。 しかし不思議と、悪い心地はしなかった。 「止まって」 不意に呼び止められたのは、それから少し経ってのことだ。 それが、はじめて聞くウサギ耳の少女の声だと分かったのは、振り返った先で紅い瞳がこちらを見つめていたからである。おおよそ表情らしいものを見せていないその顔は、それでもどこか不機嫌そうに見えた。 少女は、男と視線を合わせたまま、前へと出る。おもむろに近付いて来る。 背丈は男の方が幾分かは高い。見上げてくるような紅い視線に、男の視線が重なる。そのまま、吸い込まれるように意識が集中する。 わずかばかり、時だけが過ぎた。 少女は既に、互いの息遣いが聞こえそうな位置にまで近づいている。言葉は無い。不機嫌そうな、面倒臭そうなものもまた滲ませた、表情の感じられない顔。二つの紅い視線で見上げてくる。 その紅さが、少し、増した気がした時。 「う、ん?」 ふと見ると、空が黒い。 透き通るように青く、雲ひとつ無い晴天。あれは何処に。 「う、ん?」 と、男はここで思い出した。眼前にいる少女のことなど忘れて、今日のことを振り返る。迎えが来て、少女の格好に眩暈を覚えて、二人で黙々と歩き続けて。その時の、今日の空は―― 晴天。 晴天とは、何のことだ? 空はもとから「黒かった」と言うのに。そうだ、これは確かに奇妙な光景だが、今になって取り立てて驚くようなことでもない。独房のような部屋を出て、建物を後にしたその時から。 この空は、ずっと「黒かった」じゃないか。 呆けたように、男は立ち尽くしている。それを少女はじっと見つめていた。長い髪も、皺の寄ったウサギの耳も、まるでそこにあるのが当然のように佇みながら、男を見つめている。表情の感じられないその顔に、二つの紅い瞳は鮮やかに映えていた。 「幻覚」 「う、ん?」 「私が見せていたの。それを今、解いた」 ぽそぽそと少女は呟いて、ゆっくりと黒い空を仰ぎ見た。つられて、男の視線も空へと移る。 空は、やはり黒かった。夜の闇より濃密にも見えるその色は、手を伸ばせば掴み取れるのではないかと思ったほどだ。或いは逆に、伸ばしたその手ごと、いとも容易く呑み込まれてしまうかも知れない―― いつのまにか。 そこに、一粒の白が浮かび上がっていることに、男はようやく気が付いた。目に痛くない程度に瞬いているそいつは、濃密なその黒の中にありながら、それでも呑み込まれることはない。それが当たり前であるかのように、そこにある。 黒い空に、白い粒。 ああ、そうか。 「星か?」 言うと、一斉に星が瞬いた。 最初からそこにあったかのように。飾り立てたもみの木がライトアップされるかのように。 まばたきを二つ三つとする頃には、黒い空には既に、無数の星が散りばめられていた。最初に見つけたあの星は、すぐに他の星に紛れてしまい、どれだったのかはもう分からない。 だがそれは、別に気にならなかった。 仰いだ姿勢のまま、軽く息を飲む。ただそれだけで満足してしまうほどに、その星空は綺麗だった。 自分の息遣いだけが聞こえる中、どれくらいか男はそうしていた。いくら見続けても、物足りないと思ったからだ。首の後ろに、締め付けるような痛みがじわじわと増してきてから、男はようやくその視線を下ろした。 ウサギ耳の少女は、いつのまにか男から数歩のところまで離れていた。気のない表情は今も変わっていない。奇妙に鮮やかなその紅い瞳で、空でも男でもない、どこか遠くを見つめている。 その視線を追って――ふと、男は気付いた。 鼠色の路面がすぐ近くで途切れて、その先が深い崖となっていることに。 そしてそれが、途轍もなく巨大なすりばち状のクレーターの外周に合わせるようにして、途切れていることに。 なにより、紅い視線の先にある、少女が見つめているもの。それが何なのかを、男は気付いた。 「気付いたの。そうよ、あれが――」 言われるまでも無かった。 青く、丸く、大きく。 水の星がそこにはあった。 ◇ 濡れた匂いとともに思い出したのは、真夏の雨だった。 空の青も、雲の白も鮮やかだった夏の最中に、珍しく降った雨。風雨のように自己主張の激しい雨でもなく、霧雨のようにそれと気付かない雨でもない。 そういった意味では程好く降っていたその雨の中を、男は濡れそぼった上着も気にせずに歩いていた。周りは田んぼばかりのあぜ道を、くちゃりくちゃりと泥を鳴らしながら進んでいる。一面に降り注ぐ雨音を、漠然と、気持ちが良いなと感じたところで――それから先の記憶は、曖昧なものとなっていた。 何故、雨の中を傘も差さずに歩いていたのか。 どこぞに傘を忘れたか、暑さで頭が浮かされたか、密かな恋でも破れたか。思い出そうにも、そう簡単に思い出せるはずもない。 なにせそれは、十代の頃の記憶なのだから。 雨の中、ずぶ濡れになりながらあぜ道を歩き、雨音へと耳を傾けて。それだけのことを、数十年も経った今になって思い出した。 濡れた匂い。 水の、その匂いとともに。 次に思い出したのは、番傘を差したところだった。その日は確か、梅雨の最中だったと思う。どこか遠慮がちなものにも見える小雨の中を、男は色鮮やかな番傘を差して歩いていた。 乾いた紙の匂いが、しんしんと鼻をくすぐる。差した番傘が新品だったからだ。見慣れない古い街並みを歩いているのは、旅行の途中に立ち寄ったからである。雨に降られ、値の張った買い物もしてしまったが、こんなのも悪くないと隣の影と話している。 誰か。 決まっている、妻だ。 朱色の番傘を背にした妻の顔は、お世辞にも若々しいものとは呼べなかった。口元にも目尻にも、それこそ顔の至るところに皺が寄り、老いが見て取れる。だが記憶の妻は、小雨の中で朱色の番傘を差して隣を歩く妻の横顔は、楽しそうに微笑んでいた。 それだけで良いんだと、不意に思った。 まだ続く。 近所の川で泳いだ時のことだ。 今では用水路としてしっかりと整備され遊泳禁止となったその川も、昔はよく友人と泳ぎに行った。そこで、生まれてはじめて溺れそうになった。 友人と向こう岸まで競争する途中、運悪く深い場所で足を攣ってしまい、もがくようにして水底へと沈んでいった。鼻から水が入り、堪らず開いた口からも入り、ごぼごぼと気泡の漏れ出る音しか聞こえない。苦しい、ただそれだけだった。 つん、と。喉奥の上に、冷たい質感が侵入してくる。 顔面の裏側まで水浸しになってしまったかのような感覚が、息苦しさを緩和させる。手足を動かす力が段々と痺れ、弱くなる。水の中だと言うのに、水面の向こう側で輝く太陽は、不思議と鮮明に見えた。その光の優しさを、妙に腹立たしく思った矢先に――腕を、引っ掴まれた。 目が覚めた時、一番はじめに目に入ったのは、眩し過ぎる地上の太陽だった。 八歳のことである。泳ぐことを怖いと感じたのは、それからもあまり無かった。 そこから、また色々と思い出した。 縁日の日に孫と二人で水風船釣りをした。帰り道で割れてしまい、しばらく孫がぐずっていた。 その孫の親である娘が、まだ幼い頃。庭の花壇に水をやっていると虹が見え、娘はそれに触れようと躍起になり、ずぶ濡れとなって妻にこっ酷く叱られた。 その妻が亡くなる、ほんの少し前。薬を飲みはじめたばかりの男に、妻は種類の違うミネラルウォーターを幾つか買ってきた。一通り飲み、それでも味の違いは分からないと言うと、今度は美味しいかどうかを訪ねられた。どれも美味しい、男はそう答えた。本心だった。妻は笑っていた。 水。 そう、水である。 驚くほど、自分が水に関わっている。 それと意識しなければ、すぐにでも忘れてしまえるほどに、密接に関わっている。思い出すものひとつひとつ、どんな時にでもどんな場所にでも、あの星の上では何らかのかたちで水に繋がっている。 ああ、そうか。 だからか。だから自分は、あんなにも違和感を感じたのか。 青く、丸く、大きく。 あの星で暮らしてきたからこそ。 あの星で生まれてきたからこそ。 「ここの水は不味いね」 いつの間にか、そう呟いていた。 ◇ 「え?」 振り返ると、眉をひそめる少女がいた。 その紅い瞳が、わずかばかりの困惑を滲ませながら揺れている。どうやら先程の呟きが、しっかりと聞き取れなかったらしい。 「……いや」 思わず、ばつの悪い苦笑がこぼれる。 「いくつか、聞いても良いかな」 誤魔化すように軽く手を振りながら、男は問いかけた。どこか気障な言い方だとも思ったが、そういうのもたまには悪くない。少女は少しの間、逡巡するかのように眉をひそめていたが。 「どうぞ」 そう言うのに、それほどの時間は要さなかった。 「ここは、月なのかい?」 「ええ、さっきも言った」 「それじゃあ、あんたは月の兎さん、と?」 「餅つきはそんなに好きじゃないけどね」 「……明朝の、あの、話は」 「もうすぐ時間」 少女は男を見上げている。その紅い瞳の中に、男と、その背後にある大きな青い星が映っている。 「逃げると言ったら?」 「そう言って、本当に逃げられた人はいないわ」 「あんたがやるのかい?」 「命令だからね」 「……痛くは、ないかな」 「たぶん大丈夫」 ふと気がつく。少女が、手と手とを合わせていることに。 右手の、人差し指を真っ直ぐと伸ばし、それとは垂直に親指が立てられ、残りの指は拳でも握るかのようにしっかりと曲げられている。そんな右手に、やんわりと左手が添えられている。子供が手で銃を表現しようとしている時と、よく似たものだった。孫も度々、同じことをしていた。 「むこうを向いて、座って。そのままだと狙いにくい。もう、時間だから」 呟きの中に、からかうような響きは含まれていない。 言われたとおりに、男は鼠色の路面へと腰を下ろした。星空の下にありながら、路面の表面は意外と冷えてはいない。路面を切り取る深い崖と、すりばち状の巨大なクレーターと――なにより、上空に浮かぶ大きな大きな青い星と向かい合うかたちで、男は座った。 さて、あの青さは果たして何なのか。 そうだな、やはり水が良い。 水の星とも言われる星なのだ、光の反射とか三原色とかそういうのは抜きにして、水だと決め付けてしまいたい。そう考えると何故だか笑みが浮かんできた。その笑みは昨日、綿月依姫に向けて浮かべた優しいと思える笑みと、たぶん似ていた。 「なにか、言い残したいことは?」 声がかかる。首だけを動かして振り向くと、少女がこちらを見下ろしていた。その顔には、相変わらず表情らしいものはほとんど窺えない。 この娘が最期の話し相手、か。 まあ良いか。 「そうだね――」 男はまた、あのなるべく優しいと思える笑みを浮かべる。昨日も今日も、沢山笑ったなと思った。 そして上空の、水の星を、青い星を、大きな大きなあの。 地球を、指差した。 「あそこの水とは大違いだ」 最初に辿り着いた、見覚えのあり過ぎる場所。建物、山、空、雲、路面、そのすべてが違和感ばかりだった。もしかしたら、生まれ育った星とのわずかな違いをどこかに感じていたのかも知れない。 そして、夕食の終わりに飲んだあの水。物足りない満ち足りないと、ずっと首を捻っていた。 考えてみれば、当たり前のことだった。水というのは地球にあって、他でもなく地球のものに違いなく、他所が真似て簡単にできるものでもない。況してやここには――月の上には、水なんてどこにも一滴も見当たらなくて。 男の身体には、今この瞬間にも地球の水が、しっかりと満ち溢れているのだから。 「ここの水は不味いね」 だから男は、はっきりとそう言った。当然、本心だった。 ウサギ耳の少女は答えなかった。 恐らく、その言葉の意味がうまく飲み込めなかったのだろう。先程と同じように、紅い瞳が戸惑うように小さく揺れている。 男はやんわりと溜め息をつき、瞳を閉じた。首の後ろ、ぼんのくぼより少しだけ上の位置を、とんとんと指し示す。たぶん少女にはそれで充分なはずだ。正面へと向き直り、面を上げる。 瞳は閉じたままだったが、瞼の裏にはうっすらとした光が感じ取れた。青い光だった。錯覚なのかも知れなかったが、それでも構わなかった。 背後で、少女の動く気配が伝わる。頭に何かが触れる。 目は開けなかった。 ぐらりと身体が傾く。 自分が倒れる音が、遠くで聞こえた。 何かがこちらを包んでくる。優し過ぎるその腕で、音も無く身体が抱き寄せられ、どこかに沈んでいく。とても心地良かった。 目は、もう開かない。 もう開けられない。 それでも、青く輝くその星だけは、最後まで見えていた。 ◇ 「あら、お帰りなさい」 「お姉様、また勝手に取って来たのですか、それ」 「熟れているのを見ると、どうしてもね。貴女もどう、今年の桃も良い出来よ?」 「……いえ、今はいいです」 「珍しく元気が無いわね、何かあった?」 「少し」 「確か、昨日はあれだったわよね。地上人を連れて来ての、穢れの調査――」 「という名目の、公開処刑です、あれは。月人の有力者たちが、自分たちは穢れた地上人などより遥かに優れた存在なのだと、自尊心を満たすためだけの。そのためだけに地上人を拉致して、狼狽して憔悴するその様子を楽しんで……相手が地上の者とは言え、あれでは酷過ぎます」 「随分と棘のある言い方ね、それはあくまで一面の問題でしかないわ。貴女もそう言ってたじゃない」 「ええ……ですが」 「なんて、言われたの?」 「ん」 「下手な罵声は、貴女はもう聞き慣れているはずよ、依姫。月人の有力者から良い返事を貰うために、貴女は今までに何度もあの場に姿を現してきた。率先して矢面に立ちながら、理不尽な宣告を地上人に下してきた。それだけの覚悟や慣れが、今は珍しく、ちょっとばかし揺らいでしまっている――どう、違うかしら?」 「ん……違わない」 「聞かせて、貴女がなんて言われたのかを。まさか告白でもされちゃった?」 「いえ、かなり年老いた地上人でしたから」 「それは残念――」 「名前を聞かれて、答えたら良い名前だと言われて。その後に、哀しいねと言われたんです。私たちが哀しいと、あの地上人は言ったんです」 「あら」 「それだけなんですが、どうにも頭から離れなくて。周りはみんな、憤りを隠せない様子でしたね。ですが、それでも私は」 「怒るよりも先に考えてしまう。流石ね、私の妹なだけはある」 「……お姉様は、どう思われます?」 「中々どうして。慧眼な皮肉にも聞こえるし、逆に何にも考えていないようにも聞こえる、だから難しい――ただ」 「ただ?」 「真摯に受け止めるべき、だとは思う。それだけかしら、私から言えるのは」 「そう、ですか」 「食べなさい、依姫。糖分は頭を元気にしてくれる、私の分もあげるから。穢れの溢れた地上のものより、たぶん美味しいはずよ、この月の桃はね」 「……お姉様は、逆に食べ過ぎです」 「む」 「少しは控えないと、糖分を取り過ぎてしまいますよ?」 「むむむ」 「ひとつ貰いますね……うん、美味しい」 ◇ それから、どれくらいか時間が経った。 青い星が見える。 粘土細工のように盛り立った緑や茶色に、流れるように渦巻く綿のような白も見える。しかし、その星の大部分は水色に近い青――海が占めていた。 そこを見下ろす者達からは、穢れた土地とも呼ばれる場所。 そこで生まれた者達からは、地球とも呼ばれる場所。 彼女は今、そこにいた。 ◇ 人里に来るのはあまり好きではない。何故ならここを訪れるたびに、好からぬ噂を立てられるからだ。 薬を売り終えて軽くなった籠を担ぎながら、鈴仙は深く息をついた。汗の噴き出してきた額に手をかざしながら、空を見上げる。 鮮やかに澄み渡るその青さが、今は恨めしい。 雲らしき影は欠片とて見当たらず、容赦無く照り輝く太陽はただ見ているだけでも眩暈を覚えるほどだ。季節は夏の真っ只中であり、時刻は昼の真っ只中。普段は人々の往来や談笑する声で賑わうこの大通りも、この暑さのためか人影は疎らであり、時折聞こえる話し声もどこか気だるげなものだった。 それがまた、余計にこの暑さを助長させる。 人の少ない通りは、その土で出来た路面を多く露出させていることで、そこに真夏の日差しが一直線に照射されてより多くの熱が発生するのだ。その熱が陽炎となって視界を揺らすと、まるで自分が茹で釜にでも放り込まれたような気分になる。視界を狂わせるのは鈴仙の十八番だ、その自分が視界を揺らされているのは、どこか滑稽だった。 堪らず目を閉じ、開ける。 世界は眩しかった。真夏の日差しは土の路上にも容赦無く反射し、見えるものすべてを軽く漂白してくる。擦れ違う里の人間たちも、目を保護するように額に手をかざしていたり、或いは、時たま思いなおしたように目を閉じては瞼の上から指で揉んだりしている。鈴仙も例外ではない、眩しさに耐え切れず何度かこうして目を閉じたりもした。それでも瞼の裏に残った光の残滓が、ちくりちくりと嫌らしく目を刺激してくる。 鬱陶しかった。 黙っていても汗の噴き出てくるこの暑さも、落ち着いて景色を見ることの許さないこの眩しさも。 噂や視線に似ていて、鬱陶しかった。 「ああ、暑い」 思わず声に出す。 暑いと呟くと余計に暑く感じる――そう言っていられる内は、実はまだ余裕があるのだ。今はこうして、愚痴混じりの独り言としてでも外側に吐き出していなければ、やってられない。人目が無いなら、犬のようにだらりと舌を出しておきたかったほどだ。 とは言え、流石にそんなみっともない真似は出来なかった。加えて、こんな真夏日に人里へと送り出してくれた師匠への悪態なども、声に出せるものではなかった。どこで聞かれているか分かったものではない、あの師匠はそういうところも含めて抜け目が無かった。 月に対する対処の仕方。 それも、少なくとも鈴仙から見た限りでは抜け目が無かった。 自分とは違って―― 軽く、頭を振る。 過ぎたことをでらでらと思い返すのは、鈴仙のあまり良くない癖だった。この暑さで、身体の方もかなり参っているのかも知れない、目の周りも熱を帯びて腫れぼったくなってきている。早く竹林に戻ろう、鈴仙はそう思って足を速めた。 『氷』 赤い字でそう書かれた、程好い大きさの旗が揺れていた。 地上に来てからも何度か目にしているので、その意味は知っている、カキ氷が売っていることを示すものだ。ちなみにカキ氷とは、特殊な機械を用いて氷を粉末状に砕いたものに、果実やその他諸々の味付けをされた粘性の強いシロップを好みに合わせて注いで、スプーンなど柔らかいものを食すのに適した食器で食べるものである。この地上では、夏を過ごすための趣向として古くから愛されており、粉末状のその氷は一口含めばするりと溶け、二口含めばじんわりと溶け、三口目には首から上の暑さをほとんど掻き消してくれるのだ。加えて、普通なら甘く濃すぎるそのシロップも、氷と一緒に口に含めば丁度良い甘みとなって口内に行き渡り、暑さで茹だった頭を優しく覚醒させてくれて―― と、ここで鈴仙は気付いた。 いつの間にか、自分が『氷』と書かれた旗の下を潜り、店先に用意された椅子に座っていることに。 思わず眉間の間に皺が寄り、そこを指で揉む。 幸い、金銭的な意味ではなんら問題は無い。使う機会はほとんど無いものの、鈴仙とて自分のお金はしっかりと持っており、いざとなれば薬の売り上げ金を出すことも出来る。そもそもカキ氷の一杯程度なのだ、旗と一緒に揺れていた値段を見るに、鈴仙のポケットマネーで充分に事足りるものだった。 問題は。 気取られないよう、横目で店内を窺う。 店主とその妻らしき二人が、顔を寄せて話しているのが見えた。ちらちらとこちらを窺う視線は、決して友好的とは言い難い。 慣れていることだったので、溜め息は出なかった。 何を考えているのか分からない。 里の人間たちの鈴仙に対する評価は、概ねそういうものだった。 怪しい薬を売りに来ては、それが無くなるとすぐに竹林へと帰ってしまう。そんなことが何度も続けば、奇妙だと思うのは当然だろう。人との接触を避けている鈴仙自身、自分が怪しく思われていることは重々承知だった。だからこそ、この態度も予想出来たことである。別段、悲観するほどのものでもない。 さて、どうしたものか。場合によってはこのまま店を出なければならないかも知れない。 せめてカキ氷だけでも食べたいなと、鈴仙が思った時。 「はい!」 元気の良い声が、店先に響いた。 見ると、五歳くらいの男の子が大きな目をくりくりとさせながら隣に立っていた。差し出された小さなその手には、大振りのコップが握られている。角張った氷を漂わせるその中身は、何とも涼しげなものだった。思わず、喉が鳴りそうになるのを堪える。 男の子の顔がくしゃっとなった、笑ったのだ。 「お水!」 「……私に?」 「うん!」 よく言えば快活な、悪く言ってしまえば少々喧しいその声に、鈴仙はおずおずとコップを受け取る。水滴の浮かびはじめたコップの表面は、ひんやりと冷たい。気持ち良い。 お盆を抱えて、男の子はこちらを見つめていた。注文の品を運ぶためのものであろうそのお盆は、男の子にとってはまだ大き過ぎたらしい。抱き締めるようにして持ったお盆によって、男の子の身体は胸の上から膝くらいまでが、すっぽりと隠れてしまっていた。 そんな様子に、口元から笑みがこぼれる。 なるべく、ぎこちないものにならないよう気を付けながら、男の子の頭に手を添えて。 「――ありがとう」 優しく撫でた。 男の子は再び顔をくしゃっとさせてから、勢いよくお辞儀をして店内へと去って行った。呆気に取られたかのように傍観していた店主とその妻に向かって、何事かを話している。どうやら、両親の仕事を見よう見まねで手伝ってみたらしい。得意気なその声は、真夏の暑さもかくやというほど元気なものだった。 自分の口元が緩むのを感じながら、鈴仙はコップを傾けて、中身を一口含む。 透明なその液体は、当然のことながら水だった。 氷を入れてあったこともあって、しみるような冷たさが口内に広がる。それでも鈴仙は、そのまま一気にコップの中身を嚥下した。 渇きが、潤う。 自分の喉が鳴る音が聞こえ、冷たい塊が食道からその下へと降りていくのが感じられる。こめかみの辺りが引き締まり、火照った身体から徐々に熱が取り除かれていく。コップの縁から口を離し、鈴仙は軽く息をついた。 おいしい、水だった。 「ああ、おいしい」 空いてある椅子の上にコップを置く。からん、と氷が音を立てた。 隣から遠慮がちな声がかかる。 振り返ると、伝票を手にした店主がそこにいた。察するに、先程の子供の件が少しばかり効いたらしい。申し訳無さそうに微笑みながら、注文はあるのかと訪ねてきた。敵意の感じられないその瞳が、何故だか無性に嬉しかった。 やっぱり宇治ミルクかな。 メニューを横目で見ながら、鈴仙はそう思った。 その傍には、コップが置かれてある。 残った氷と水滴が、真夏の陽光を受けてきらきらと輝いていた。 |
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