御阿礼の子の穴



 その古びた琵琶を見つけたのは、とある部屋の片づけを行っていた最中だった。
 途端、今の今まで記憶の片隅に詰め込まれていた先代や先々代、或いはそれよりもずっと昔のものかも知れない記憶――いつの時代かも定かではない『私』の記憶が、朧月のように曖昧でぼやけた幾つかの情景となって、脳裏へと浮かび上がる。
 それは、のそり、とも、ほやっ、ともつかない、他人には説きにくい奇妙な感触だ。
 まるで梅雨時の蝸牛のように鈍重な、だけれどもしっかりとした質感を湛えながら湧き上がったその記憶は、やや図々しい面持ちで私の頭の中に鎮座してくる。
 転生して幾代かの記憶を受け継ぐ、御阿礼の子≠ニしての宿命――言葉では理解していても、やはりそう簡単には慣れないものだ。
 どうにも、落ち着かない。
「……まあ、いつかは慣れるはずよね」
 小さく自分自身へと言い聞かせてやりながら、私はようやく、その琵琶を手に取る。
 改めて近くで見ると、覆い被さった埃の量や張り詰めた弦の劣化具合から察するに、相当の年代物だという事が窺い知れる。
 だが一番の確信は何と言っても――御阿礼の子として受け継いだ私の、実際には下手すれば幾百年も昔のものである記憶の内に、まだ過ぎ行く年月に侵されていない色彩煌びやかな琵琶が、威風堂々と居座っている事実だ。
 恐らくは、かなりの名工の手によって造られた逸品なのだろう。容赦の無い歳月に晒されたにも拘らず、こうしてしっかりとした形状を保って現存している事が、何よりの証拠だ。
 それによくよく目を落としてみると、盛情を思わせる彩りや華やかさこそ確かに失えども、逆にそれによって老練な渋みと深みが増し、また違った趣のあるものへと熟しているかのように見える――尤も、私はそういった目利き≠フ類に関してはおおよそ知識の無い人間なので、全く以って当てには出来ないのだが。
「でも、立派な品物なのに間違いは無い」
 何故か湧き立ってきた根拠無き自信を胸に、私はそれを言葉として呟き出す。と同時に、見えない糸を手繰り寄せるかのような慎重な手解きで、ゆったりと琵琶を構えた。
 琵琶は、かなり大きい。
楽琵琶≠ニも呼ばれるそれは、世に幾つか存在する琵琶の種類の中でも、特に大きな代物だ。
 同年代の女性に比べてやや小柄な体躯である私にとっては、いささか不自由な気がしないでもない。恐らく傍から見れば、今の私は琵琶を構えている≠ニ言うよりは、寧ろ、琵琶を抱えている≠ニ言った方が近い状態なのだろう。
 明らかに不自然であり、明らかに不釣り合い。
 それは、今こうして構えている私こそが、誰よりも先に理解出来ていた。
「…………」
 だがそれでも、私は構えを解かなかった。
 大きな琵琶とは対照的な、小さめの撥をしっかりと指で握り締め、そのまま自ずと瞑目し――弦をひとつ、軽く弾く。
「…………」
 べべんっ。
 瞼の裏に現れたのは、静謐を誇る広大な湖面に向かって一粒の滴を垂らすという、何処か大胆な薫りを孕んだ幻覚。
 筆舌には尽くし難い独特の、臓腑の奥底までをも射抜くかのようなその音色によって、私の全ては瞬く間に、朗々と響き尽くされてしまう。
 予想通りだった、間違いない。
『私』は、この音を知っている。
「――っ!」
 瞬間、私は一息の鋭い呼気と共に、琵琶を奏で始めていた。
 最初は優しくゆったりと、喉元を繊細な手付きで撫ぜてくれる余韻もそのままに、柔らかく大振りな動作で撥を動かす。
「…………!」
 そこから、段々、段々と。
 撥を握り締める指と振るい続ける手に、じわじわと力を込める。それに合わせて音色は大きく力強いものとなり、その集合体である流れ続ける調べも、徐々に早足なものへと転じていく。
 自惚れでなければ――恐らく、今の私は琵琶を奏でる者として、かなり様になっているはずだろう。譜面も見ず、即興で、この小さな身体には不釣り合いな大きさの楽琵琶を、中々に見事な手捌きで奏でているのだから。正直、今こうして私が弾いている姿を、誰かに見てもらいたかったくらいである。
 しかし、それはまた次の機会。今はそれよりも先に、知り得たいと思えるものがある。
 脳裏にちらつく情景は、まだ輪郭がぼやけたままだ。
「…………」
 ひたすらに、一心不乱に、私は琵琶を弾き続ける。
 実を言うと私は、今までに一度も琵琶を弾いた事が無い。それどころか、触れた事すら無い。
 だが『私』は――過去の、いつの時代かの御阿礼の子は――こうも見事な技法を習得するほど、琵琶演奏に精通した者のようである。
 それが誰か、という問いに対しては、恐らくすぐに答えが出せるだろう。それこそ、過去の幻想郷縁起≠フ隅から隅にまで目を通し、文体の所々に混ざる『私』の個人的な記述から適当に推し量れば、自ずと理解は出来るはずだ。
 だからこそ、これもまた次の機会まで置いておく事にする。
 今の私が最も知りたい事。
 それは――
「あ」
 思わず、溜め息のような呟きが零れ落ちてしまう。
 曖昧で不透明だった記憶の情景が、ようやく色を帯び始めたからだ。おぼろげだった輪郭にも徐々に細かな線引きが施され、あやふやな形は少しずつ明確なものへと移り変わっていく。そしてそれらは、記憶の内でも威風堂々と居座る――それだけは最初から、鮮明な状態で記憶に浮かんでいた――色彩豊かな琵琶を中心としながら、まるで水面に引き起こされた波紋のように、均等に広がっていった。
 記憶が、息を吹き返す。
 ――もう少しね。
 尚も琵琶を奏で続けながら、私は心の中でひっそりと囁いた。逸りそうになる気持ちを、少々の自制心によってやんわりと抑えてやる。

 私が知りたい事。
 それは、敢えて言うなら理由≠ナある。

 御阿礼の子にとっての転生とは、世俗に広く知れ渡ったような万能なものではない。寿命が他の人々に比べて圧倒的に短い、転生の肉体を用意するのに多大な年月を要する――など、欠陥と呼んでも差し支えの無いような障害を、幾つか有しているのだ。
 そしてその中には、転生の際には前代の記憶の大部分を失ってしまう、というものもある。有り体に言ってしまえば、前代にとって余程に大切な、或いは必要不可欠であった何らかの記憶――それ以外の、限り無く印象や感情の薄かった有象無象の多くは、転生の際に全て吐き捨ててしまうという訳だ。
 理由は定かではないが、恐らくは初代の転生に携わった何者かが、人の身でありながら、若葉を御神木にまで追い遣ってしまうほどの膨大な年月を綴ろうとする御阿礼の子の負担を、少しでも軽くしてやろうと想ったのだろう。
 その為、前代から受け継がれる記憶というのは、本当にごく一握りの、限られたものだけである。それも、その時代を確かに生き抜いた『彼』、或いは『彼女』が、それ自体の善し悪しは関係無く、他の諸々の多くを忘却に押し遣ってでも強く想い挙げたいと願った、ほんの僅かな記憶のみ。
 次へと託される御阿礼の子の記憶は、大半がそういったものなのだ。
「…………」
 では何故、それほどまでに大切なものが、この古びた琵琶と、それを取り巻く幽かな情景なのか?
 琵琶には触れるのも初めてだった私に、初見でここまで見事に弾かせてしまうほどの鮮明な記憶――琵琶演奏という、おおよそ視覚的な記憶だけでは成し得ない、それこそ感覚的な記憶の域にまで達せよと想うほど、『私』を駆り立てたのは一体なんだったのか?
 今の私は、その理由≠ェ知りたかった。
「……うん」
 だからこそ、徐々に鮮やかな色合いを取り戻していく景色を瞼の裏にたゆたわせながら、私は期待を滲ませて独りごちる。
 弾き続けている調べも、いよいよ終盤の山場へと差し掛かった。荒波のように激しさを増し続けていた指の動きを、狙い定めた次の瞬間には戛然とした一筋の音色と同時に、大きく振り被らせて。
 べべんっ。
 何拍かの間を置き、弦と撥とが織り成す高らかな嘶きを、余韻として朗々と昇り遺してから――私の演奏は、ようやく終わりを告げた。


 ●

 過去が、婉然と面を上げる。

 ●



 まだ栄華の薫りも色濃い琵琶を抱えている『私』の手からは、華奢という言葉が一番しっくりと馴染むほどに、儚げな印象が滲み出ていた。
 それは間違い無く、女性の手――調べを奏で終え、馴れた手捌きで琵琶を片付けるその指は、それでも白魚のように澄み切っている。あれほどの技量を秘めている事実が、まるで白昼夢であるかのように。
『……っ』
 その手に突然、後方から別の手が重なる。
 やや骨の浮き出た、しかしながらも心地良い温もりを発するその手に、『私』は最初こそ多少の驚きと共に呆けていたのだが――その頬が、何とも言えない胸の燻りによって自然と緩むのに、それほどの時間は要さなかった。琵琶を床に置き、やんわりと重ねられたその手を――こちらはどうやら、男性のものであるらしい――両方の手で包み込むかのようにして、優しく握り返す。
 それからしばらくの間は、本当に何も起こらなかった。交わす言葉も皆無な静寂の中、ただ時間だけが刻々と、流れて往った。
 相手の顔も見ず、それどころか目を瞑ってしまった『私』からも。
 差し伸べた手を包まれ、それに対して何の反応も見せなかった男性からも。
 まるで、この静々とした場を慈しんでいるかのように、二人はじっと動かなかった。

 琵琶を奏で始めたのは、一時の好奇心から湧き立った、本当に些細な切欠だった。
 小柄な体躯に似つかわしくない大きな琵琶を選び、そこからの縁でまだ年若かった彼≠師として邸に招いたのが、およそ数年前の出来事。
 四季折々の彩りを見上げながら、日々の訪れを二人で過ごし続けていた内に。
 最初は見るも無残だった琵琶奏者としての腕が、蝸牛の行軍のようにのろのろと上達しているその間に。
 気が付けば、『私』は彼≠――

 やがて、記憶の中の『私』は目を開け、握り返していた手と、そこから伸びる腕の部分に向かって、半ば身を委ねるかのようにして寄り添う。後ろから差し伸ばされている為、骨ばったその手の主が今はどんな表情をしているのか、こちらからは窺い知る事が出来ない。
 だがそれでも、今のこの状況は『私』にとって、確かに幸せなものだった。
 両の手で包み込んだ手の平と、頬をそっと摺り寄せる二の腕――そこから感じるのは、程好い硬さの産毛の感触に、日に焼けた汗の匂い。それと、紛れも無く彼≠フものだと断言出来る、無骨な男性の手には勿体無いほどの、優しい人肌の温もり。
 その全てが、とても心地良い。
『――――』
 頭の後ろに、落ち着いた声がかかる。
 どんな内容だったのかは、私には聞き取れなかった。しかしどうやら、そこに居た『私』の耳には届いたらしい。思わず形の良い薄い唇を緩ませると、蹴鞠が弾むかのような軽やかな調子で、小さく笑い声をあげる。
 そしてそのまま、差し伸べられていた腕に自分の腕を絡め、何か言い返してやろうと瞳を悪戯っぽく瞬かせながら、彼≠フ顔が出迎えてくれるであろう背後へと、振り返った。


 ●

 掴めそうなほどに濃密な闇を、その縁のぎりぎりにまで湛えた、拳ほどの大きさの穴。
 そいつは、まるで彼≠フ顔を呑み込むかのように『私』の記憶をじわじわと咀嚼しながら、無機質にこちらを見下ろしていた。

 ●


「ひっ……!?」
 思わず琵琶を取り落としてしまい、硬い物同士がぶつかり合う独特の硬質な音が、その部屋に反響する。
 だが私は、そんな失態を犯してしまったにも拘らず、蹲るように座り込んだまま何も出来ずに居た――より正確に言うならば、誰かが語った怪談話に心の底から怯えてしまい、夜の厠にも行けなくなってしまった童のような恐怖に慄き切った表情で、自分の肩を抱きながら、見るも無残に震えていた。
 御阿礼の子の転生には、欠陥と呼べるものが幾つもある――先程、自分が何の感慨も浮かべずにさらりと言い放ったその言葉によって、言い知れぬ不安が目尻に滲んでくる。知らず知らずの内に唇を強く噛み締めてしまい、微かな血の味が口内にじわりと広がる。
 私は、鮮明さを取り戻した『私』の記憶によって、それが今も遺り続けている理由≠知った。
 それと同時に、改めて転生の不完全さを思い知らされた。
 あんなにも『私』が想っていた彼≠フ記憶は、あのおぞましい穴によって、いとも容易く喰い穿たれていた。想い人の温もりだけで心の奥から微笑みを浮かべられ、記憶と重なった私が思わず涙しそうになるほど胸が焦がれる、その想いの証とも言うべきものが、只々静かに朽ち果てていた。
 痛みを伴った切なさに、首から胸にかけての部分が強く締め付けられる。
「なんで……どうして……」
 言い知れぬ感情が冷たい塊となって胸元を過り、私の頬に一筋の涙を誘う。
 貪欲に喰い続ける、あの穴が怖かった。
 成す術も無く穴に喰われる、『私』の幸せな記憶が悲しかった。
「――どうかしましたか?」
 場違いなほどに優しげな声が耳朶を打ったのは、そんな時だった。
 目を向けるとそこには、部屋の入口から顔を覗かせてこちらの様子を窺う、一人の男の姿がある。知らない顔ではない。寧ろ、連日の如く顔を合わせ、それ故に知り過ぎているほどに知っている、そんな間柄の男だった。思わぬ人物の登場に、私は涙の跡もそのままに、ほんの少しだけ目を瞠る。
「……っ」
 だから、だったのだろうか。
 唐突に訪れた安堵感によって目元が潤み、その気持ちに後押しされるかのようなかたちで勢い良く駆け出して――
 軽い衝撃と共に、男の胸元へと顔を埋めたのは。
「あっ……阿」
「何も言わないで下さい……お願い、何も言わないで……」
 頭上からの戸惑いを孕んだ呟きを、私は泣きじゃくる童女のように震える声で遮った。
「あんなにも想っていたのに……あんなにも好きだったのに……なんで……なんでっ……!」
 嗚咽によって胸が詰まりそうになるのを、半ば無理矢理な息遣いで押し留める。だが一方で、いつの間にかぽろぽろと零れ落ちていた大粒の涙を食い止める事は、とても出来そうに無かった。
 何故、あのような穴によって、前代の記憶が蝕まれてしまうのか。
 その答えや理由は、私には検討もつかない。そもそも、もしかしたら『私』の記憶こそが御阿礼の子にとっては毒であり、あの穴は薬のようなものである可能性も、否定は出来ないのだ。
 だから今は、そんな事はどうでも良い。
 寧ろ、そちらに考えを回すほどの余裕が無かった、と言った方が正しかっただろう。
 ――もう限界だった。
「『私』は、私に負けないくらい、その人を愛していたのに……私が貴方を想うくらい、『彼女』は彼≠愛していたのに……それなのに……何故、ああも無残な形で、遺されなければならないんですか!? 心の底から好きな人を、何故、あんなにも哀しい記憶でしか遺せないんですか!?」
 抑え切れない感情の奔流に、私は慟哭する。
「御阿礼の子とは……何故、こんなにも弱く脆く、理不尽な存在なんですか……!」
 男の服を掴む手にも、知らず知らずの内に力が入ってしまう。
「……貴方の顔が、見れない」
 やがて、僅かな間を置いてから静かに漏れ出たその囁きは、自分でも驚くほどに掠れたものだった。ぽろぽろと零れ続ける涙もそのまま、その幾つかが唇を撫ぜてしょっぱい味が口の中に広がりながらも、私はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「本当はすぐにでも見たいのに……見たくて見たくて、今この一瞬だけでも、貴方の表情を覚えておきたいのに……貴方の記憶が将来、あの穴に穿たれてしまうと思うと……貴方への想いが、未来の『私』に否定されてしまうかも知れないと思うと……それが、ひたすら怖くて……」
 自然と、声の調子が速くなる。ともすれば震えで止まりそうになる喉へと必死に意識を傾けながら、私は血の滲むような怒号を振り絞った。
「でも、私は……私はっ……!」
 明瞭な言葉として吐き出せたのは、そこまでだった。
 嗚咽によって萎れてしまった、か細く痩せ細る涙声の尾を引かせながら、私は崩れ落ちるかのようにその場に座り込んでしまう。

 瞬間、私の身体は力強い温もりに、包み込まれていた。

「あ――」
「私は、此処に居ます。御阿礼の子の記憶ではなく、貴方だけの目の前に居ます」
 吐息のように漏れ出た私の呟きに対し、優しい低さを保った声が返ってくる。
「貴方がそれほどまでに苦しむ理由について、御阿礼の子として生まれていない私には、正直、理解の及ばない部分が大きい……ですが、貴方が私の顔を見れないと言うのなら、私には異を唱えるつもりはありません。喜んで、この顔を隠す事に尽力しましょう。こんなにも苦しんでいる貴方を見るのは、私にも耐えられそうに無い」
 男の胸元に顔を埋めている私からは、その男が今はどのような表情を浮かべているのかは、全く分からない。
 しかしそれでも、頭の上から降ってくる静かながらも芯の強いその声色と、背中に回された腕の温もりによって、私の身体は段々と落ち着きを取り戻してくる――それが冷静に理解できるほどの安堵感が、私の内に満ち始めていた。
「ただ、勝手な我侭を述べさせてもらうなら……先程も言った通り、私は貴方だけの目の前に居ます。例え、後世の私の記憶が見るも無残な状態になろうとも、私は此処にこうして居るんです……だから私は、今の貴方にこそ見てほしい。貴方と見つめ合い、語り合い、些細な事で素直に笑い合いたいから……貴方の事が、本当に好きだから」
 一言一言、噛み締めるかのように、男は言う。陳腐なくらいに真っ直ぐで、飾り気というものがおおよそ感じられないその言葉は、今の私にとっては丁度良かった。くすぐったいものが、ささくれ立った胸の奥を癒してくれるかのように、そっと撫でていく。
 ――私は、改めて感じていた。
 想い人を只一心に想い、それによって思わず目尻に涙が滲んでくる、切なくも柔らかなその感触を。
「私は別に、御阿礼の子の記憶に遺りたい訳では無い……貴方の記憶に、遺りたいんです」
 そう言って男は、私から自分の身体をほんの少しだけ遠ざける。私が顔を上げやすいようにと気を遣って、僅かな間隔を空けてくれたのだろう。それでも尚、しっかりと私の背中に腕を回してくれている事が、とても嬉しかった。
 怖くない、と言えば嘘になる。記憶の中に巣食ったあの穴への恐怖は、今も揺らぎようが無い。
 だが、それ以上に。
 好き勝手に『私』が蹂躙される事への、恐怖以上に。

 私は、この人が好きなんだと、ようやく思い出した。

 だから私は、縋るようにして顔を埋めていたその胸から、そっと離れる。
 涙の跡を色濃く残しながらも、泣き笑いに似た精一杯の微笑みを浮かべて。

「――ありがとう、阿弥様」

 男の顔を、見上げた。


 ●

 私――稗田『阿弥』が見上げた、その視線の先。
 拳大の無機質な穴に穿たれている男の顔が、こちらを見下ろしていた。

 ●


「…………」
 つい先程まで弾いていた琵琶を、私は慎重に慎重を重ねながら床に置いた。横たわらせたその琵琶は既に、瞼に描かれていた過去の情景のものよりも、更に風化してしまっている。醸し出す、渋みを通り過ごした衰えから察するに、そろそろ土に還る時期なのだろう――稀代の名工が造った逸品とて、やはり不死身では無いのだ。
 私の、稗田『阿求』も含めた御阿礼の子の記憶が、決して永遠では無いのと同じように。
「……熱いわね」
 一心不乱に琵琶を奏でた事により、汗が滲むほど火照った身体。それを少しだけ煩わしく思いながら、私はすっかり草臥れた琵琶を再び手に取り、縁側へと歩み寄った。すっかり闇色の帳に覆われてしまった庭を、空を、何とはなしに見つめる。
 夜色の空に頼り無く浮かぶのは、まるで巨大な穴に大部分を呑み込まれてしまったかのような、細く伸びた月だ。
 下弦の月――やや控え目に全てを見下ろしてくるその光は、春の終わりには似つかわしくない涼しげな大気の薫りと相俟って、幽美さを孕んだ夜を見事に演出している。それは、微かに熱を帯びた私には、何故だか贅沢に過ぎるほどの待遇のような気がした。そう思えるほど、気持ち良かったのだ。
 自然と、笑みが浮かぶ。
 だがそれは、記憶の中で『私達』が浮かべていた、誰かに向けるべき微笑みでは無い。
 手の届かない場所へと過ぎ去ってしまった幾多もの触れ合いを、たった独りで憂うかのような――あまりにも淋しい、微笑みだった。
「…………」
 琵琶を、抱えるかのようにして構える。
 そして目を瞑り、身体の内だけで一定のリズムを整えてから。
「……っ」
 べべんっ。
 私は再び、琵琶を弾き始めた。 


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 穴に穿たれた幾世も昔の記憶に、穴に呑み込まれたかのような頼り無い月。
 それら全てを瞑目した瞳の裏に描きながら、少女は独り、草臥れた大きな琵琶をゆったりと奏で続ける。
 哀しいほどに静謐な微笑みと、いつの間にか頬を撫ぜていた一筋の涙もそのままに――

 稗田阿求は、穴だらけの景観を見つめながら、確かにそこに居た。

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