東の方の恐怖



 その日、メリーことマエリベリー・ハーンは、とある道を少しだけおっかなびっくりと歩いていた。
 時刻は夕方を過ぎたところ。すっかり陽の気配も無くなった道には、所々に濃い闇が堂々と居座っている。
 メリー以外に人の気配が感じられない事も相まって、辺りには何とも言えない不気味な雰囲気が漂っていた。
 少女、あるいは年頃の女性なら、まず一人で出歩かないであろうそんな道を、年頃の少女であるメリーが独りで歩いているのには、一応訳がある。
 彼女の友人にして、所属するオカルトサークル【秘封倶楽部】の唯一のメンバーである、宇佐見蓮子の家へと向かっているのだ。





 携帯電話に蓮子からの連絡が入ったのは、大学の図書館で調べ物をしていた時だった。

『今日、面白いゲーム手に入れたのよ。だから、メリーも家に来なさい』

 それだけを言うと、電話は即座に向こうから切られてしまった。あまりに一方的な、お誘いとも伝令とも取れる、蓮子らしい言葉だった。
 半ば唖然としていたメリーだったが、このまま黙って言葉どおりに従うというのも何だか納得できなかったので、その後、幾度と無く電話を掛けたりメールを送ったりしてみた。
 ……結局、それらは全て、無駄な徒労のまま終わってしまったのだが。
 別に、向こうが電源を切って繋がらなかった訳ではない。ただ単に、出なかっただけなのである。
 一回、二回、三回、四回……丁寧に応答してくれる留守番サービスももどかしく感じていたが、結局、蓮子は全く電話に出なかった。たぶん、そのゲームとやらに熱中していて気付かなかったんだろう。蓮子は基本的に、携帯電話はマナーモードで過ごす性格なのだ。
 勿論、メールの返事など一通も来ておらず、携帯のメールボックスは閑古鳥が鳴いている始末だった。
 ちなみに、蓮子の連絡が入るまでに調べていた調べ物も、蓮子からの連絡の後に、すぐに予定していた部分まで調べ終わっていた。そしてこの後、メリーには予定と呼べるものは、特に無い。
 このまま蓮子の言葉を無視して自宅へ帰ってしまおうかとも一瞬考えたのだが、一人暮らしでペットも居ないメリーにとって自宅へ帰るという事は、惰眠と怠惰をあるがままに貪る、という事以外の何でも無かった。

 安らぎというには遥かに遠く、刺激というには更に遥かに遠い。そんな中へ自分から身を委ねるよりは――
 そこまで考えるうちに、メリーの考えは自然と決まっていた。





「……まだかしら、蓮子の家」

 自分がこんな不気味な道を独りで歩くまでの経緯を軽く脳裏に浮かべていたメリーは、微かに湧き上がる微弱な体の震えを誤魔化すかのように、しっかりとそれだけを呟いた。
 サークル活動の一環で飛び込む結界の向こう側に比べれば、変な妖怪も居ないし街灯だってポツリポツリと点在している、文明色濃く映るこの道。
 普段なら、これだけ辺りが暗くなっている時間帯でも、こんな一般道路にこれ程まで臆する事は無かっただろう。
 首筋から肩にかけて、或いは脇腹から背筋にかけてうっそりと走る奇妙な寒気を感じる事も、恐らく無かっただろう。

 ――あんな調べ物、するんじゃなかった。

 未だに見えてこない蓮子の住まう場所を、今か今かと歩き望みながらメリーは、自分が調べていた物の内容に対して、少しだけ後悔をしていた。





 ◆◆◆





【皿屋敷】

 お菊という女性の亡霊が、皿を数えることで有名な怪談話の総称――と説明すれば、恐らくほとんどの方が分かるだろう。

 永正年間、城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを青山家の下女お菊が密告。
 だが、鉄山は一時主家乗っ取りに成功し、宝物の皿のうち一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、責め殺したあげく古井戸に沈めたのだ。
 そしてその井戸からは、夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。
 やがて小寺の家臣によって鉄山は討たれ、お菊は十二所神社に【お菊大明神】として祀られた。

 姫路市の十二所神社に伝わる【播州皿屋敷実録】が原型とされ、小寺・青山の対立という史実を元に脚色された物と考えられている。他にも、江戸番町が舞台の【番町皿屋敷】が広く知られる。
 さらに群馬県甘楽郡・高知県幡多郡・五島列島の福江島・尼崎市・松江市など、日本各地において類似の話が残っており、それらが相互に影響しあいながら成立したもの、と言われている。



 様々な脚色が成されているこの【皿屋敷】だが、怪談話の見所として有名なのは、やはり井戸の中でお菊の亡霊が、恨めしげな声で語る言葉だろう。

『お皿が一枚……二枚……』

 皿の擦れる音と共に、お菊の呪詛を思わせる声が響く。

『五枚……六枚……』

 井戸の底から伝わるその声色は、聞く者を言いようの無い恐怖と不安で締め付ける。

『八枚……九枚……』

 やがて、そこで皿の擦れる音はピタリと止む。何故なら、もう皿が無いからだ。

『一枚、足りない……一枚、足りない……』

 嘆きとも、恨みとも取れる言葉を残しながら、井戸の底からナニカが這い上がって――





 ◆◆◆





「……う〜」

 うっかり思い出してしまい、メリーの体はぶるっと震えてしまった。
 いくら結界の向こう側に飛び込んだり、夢の中で妙な怪物に追われたりしていて普通の人より肝が鍛えられているとは言っても、メリーもやはり女の子である。
 怖い話は基本的に駄目だし、ホラー映画などを見た後に眠れなくなる事だって、しょっちゅうあるのだ。
 そんなメリーにとって怪談話の調べ物をした後に、よりによってこんな不気味な夜道を歩くというのは……心の底から、嬉しくなかった。

 ちなみにメリーが【皿屋敷】について調べていたのは、日本の怪談話の中でも比較的に有名なその話に、彼女自身が興味を持ったからに他ならない。
 これは蓮子と行動する中で見出した事なのだが……興味を持った事を、何処までもとことん突き詰めるという行為は、後味が実に爽快なのだ。
 逆に言えば、自分が興味を持っている事に対して、全く調べないし手も付けないというのは、実に気の持ち様が悪いのである。
 だから【皿屋敷】について調べ物を行ったのは、誰かから無理強いされたものではなく、他ならないメリー自身の意思からなのだ。
 なので、こうやって自分が調べた事柄によって夜道に対して恐怖心が芽生えるのは、自業自得以外の何物でもない。
 それは、メリーにもよぉく分かっていた。

「……蓮子ぉ〜、まだぁ〜……」

 分かってはいるのだが……やはり、怖い物は怖かった。
 思わず何故だか泣きそうになるのを堪えながら、メリーは自分でも情けないと思う声で静かに呼びかける。
 勿論、誰も答えてくれないし、何も答えてくれない。
 と、思った時だった。

 がさり。

「ひっ……!?」

 道端の草むらが不自然に揺れる音に、メリーは情けない声をあげてしまう。
 仮にも年頃の少女なんだから、もう少し可愛らしい驚き声にしなさいよ――と蓮子なら言うだろうなぁ、などという悠長な考えは、その時のメリーの頭には勿論浮かんでいない。
 浮かんでいるのは【皿屋敷】の調べ物をしていた時に見てしまった、葛飾北斎の描いた【百物語・さらやしき】という一枚の絵。





 まるで【ろくろ首】の様に不自然に長い首――否、あの絵に比べれば他所でよく見る【ろくろ首】の方が、まだ可愛げがあっただろう。
 何故なら【百物語・さらやしき】の亡霊の井戸から不自然に伸びている首は、爬虫類の鱗を思わせるほどに毒々しい色彩と質感であり、奇形茸の様に気色悪く凸凹していたのだから。
 おまけに長い黒髪は何処かぬっぺりとした印象を受けるし、背筋がうそ寒くなる程に白い横顔は、生きる者では決して浮かべる事の出来ないような無表情だったのだ。
 兎に角、一目見た時からメリーはそれに対して、不気味以外の印象は持てなかった。





 草むらの音と、脳裏に浮かんだ【百物語・さらやしき】の不気味亡霊。
 それらが重なってしまったメリーの頭の中には、草むらからその不気味亡霊が出て来るのではないか――と言った、およそ現実的とは言い難い思考が展開していた。

 がさり、がさり、がさがさ。

 そして、恋以外で思考回路がショート寸前なメリーを他所に、草むらの不自然な音はどんどんと彼女へと近づいていきそして――

「ぃ……っ!?」

 みゃおん、という何とも言えない可愛らしい鳴き声と共に、一匹の小さくて可愛らしい黒猫が、姿を現したのだった。

「……ね、猫?」

 まさか本当に【百物語・さらやしき】の不気味亡霊が出てくるとは、流石に心底から信じていた訳ではないメリーだったが、それでも目の前の草むらの音に恐怖していたのに間違いは無い。
 だからこそ確認の為……という訳では無いのだが、思わずそんな言葉を口にしてしまっていた。
 そんなメリーの言葉に反応してくれたかのように、黒猫はまたしてもみゃおん、と何とも言えない可愛らしい鳴き声をあげてくれた。

「……はぁ〜」

 自分への呆れと安堵感からか、思わずメリーの口から溜め息が漏れる。
 その間に、黒猫はこちらへともう一度みゃおん、と鳴くとそのまま何処かへと駆けて行ってしまった。

 ……一瞬だけ、黒猫の尻尾が二本ある様に見えたが、流石に気のせいだろう。
 メリーはそう思いながら、情けない悲鳴をあげていた事に今更ながら顔を赤らめて、蓮子の家の方へと足早に立ち去っていった。





 ◆◆◆





 特に何かしらの出来事に出会う事も無く、数分程でメリーは、蓮子が一人暮らしをしているマンションへと辿り着いた。

『駅から歩いて結構な距離がある代わりに、それなりに環境も快適で何より家賃が安かったのよ。だから、ここに決めたの』

 というのが、いつだったか蓮子が勝手に話してくれた、このマンションを選んだ理由である。
 ちなみにメリーも似たような理由でマンションを選んでたりする。というか、一人暮らしをする人のほとんどは、恐らくそういった理由で住む場所を選んでいるのだろう。

「確か蓮子の部屋は……二階、だったわね」

 少し前にサークル活動の関係で来た時の事を思い起こしながら、メリーは二階へと上がる為の階段を上がり始める。
 コンクリート製の階段はくぐもった音しか出さないので、辺りに階段を上がる音が響く事は無い。ぽす、ぽす、という独特の音を何気なしに聞きながら、メリーは途中の踊り場で足を止める。
 あんまり高くない位置から見える街は、それでもそれなりには遠くまで見渡す事が出来た。とは言っても、辺りは道を歩いていた時に暗闇に覆われてしまった為、ほとんど何も見る事は出来なかったのだが。

 それでも、ポツリポツリと点在する街灯によって、街はうっすらと浮かび上がって見えた。
 物悲しく、物寂しく、ただただ在るがままに、浮かび上がって見えた。
 それは何なのだろうか。亡骸、という単語は適切では無いのかもしれないし、適切なのかもしれない。
 どちらも的を得ていたし、どちらも的を外していたのだから。
 外見だけなら、これ程までに亡骸を思わせる物は、実際の生きとし生ける者の亡骸以外には、そう無いのだろう。
 だがしかし、ここには確かに生が存在する。亡骸に群がる微生物の様に、見せ掛けの亡骸には生が群がる。そしてこの亡骸もどきの暗い街には、確かに人間という微生物が存在して生きているのだ。

 物悲しく物寂しく、ただ在るがままに存在する暗い人工の亡骸と、そこに群がり住み着く微生物。
 もしかしたら人間は、自然へと回帰しようとしているのかもしれない。
 自然とは正反対の人工ながらも、廻り巡って自然へと。
 それはもう、ただただ在るがままな人工の亡骸と共に。
 人工の微生物として、人工の自然に――

「……って、何考えているんだろう、私」

 苦笑を浮かべながら、見下ろしていた街から視線を外すメリー。外した先に見えたのは、二階へと続く少し古びたコンクリートの階段。
 蓮子から聞いた話ではこのマンション、今年で丁度、築二十年を数えるらしい。人間で言えば、成人式に出られる年なのだ。
 そんな人工物の成人さんに、ほんの少しだけ心の中で感謝しながら、メリーはゆっくりと階段を上がる。
 二十年という歳月から考えるに、恐らくそれなりの人数を階上へと歩ませてくれたであろう階段を、ゆったりゆったり上がる。

 やがて、目的の二階へとメリーは辿り着いた。記憶が正しいなら蓮子の部屋は、廊下の一番奥の筈である。
 ちかちかと微弱に明滅する蛍光灯の白が照らす廊下は、お約束の様に所々にうっすらと薄気味悪い影が居座っていて、やっぱり気味が悪かった。
 先程の痴態を思い出しながら、何かあったとしても情けない声だけは出すまい、と自分へと言い聞かせて蓮子の部屋を目指すメリー。
 一歩、また一歩。
 あちこちに居座る、小さくて濃い闇をキッと睨み付けながら、慎重に堂々と歩いていく。
 その表情は、少し前に情け無い声をあげた少女とは、全くの別物である様にも見えた。

 ――頭の中に、どうしても【百物語・さらやしき】の不気味亡霊がちらちら浮かんでしまうのは、メリーだけの秘密である。

 そうこうしている間に、メリーはようやく蓮子の部屋の前に辿り着く。
 人工物で出来たクリームグリーンのドアが何とも味気なかったが、今のメリーにとってそんな事はどうでもいい。
 兎に角ここまで来れた事に、彼女はほっと安堵の溜め息をついた。

「それにしても、蓮子が面白いって言うゲームねぇ……どんなのかしら?」

 蓮子から連絡があった時に思ってもいい筈の疑問を、ようやくメリーは浮かべた。
 流石に浮かべるのが遅すぎるだろうと思うが、恐らく調べ物やら夜道の事やらで、頭がいっぱいだったのだろう。

「……ま、いいわ。今から蓮子に聞けば、分かる事だしね」

 そう結論付けるや否や、メリーは呼び鈴のボタンを押した。ぴんぽーん、という古き良き時代の音が部屋に鳴り響くのが、外で待つメリーにもよく分かった。
 ……しかし、その後に来るはずの蓮子が出てこない。いつも待ち合わせには遅刻してくる癖に、こういう時には呼び鈴の余韻も消え切らない内に、勢いよくドアを開け放って出てくる快活な笑顔が、今日この時はしばらく待っても出てこなかった。というか、一分ほど待った今も出てこない。

 不審に思ったメリーは少し迷ったかのように、周りに居座る闇と、ちかちか明滅する蛍光灯を交互の見比べる。
 一往復、二往復、三往復……と、しばらく闇と光を交互に見比べていたが、やがて何かを決心したかの様にドアノブをグッと握り締めた。

「お邪魔するわよ、蓮子」

 メリーは考えていた。蓮子は恐らく、トイレか風呂あたりにでも居るのだろうと。
 トイレならまだ待てるが、風呂では待てないし待ちたくもなかった。突然呼び出したのは蓮子だし、勝手に家に上がっているくらいなら笑って許してくれる筈である。
 何より、これ以上闇が居座っている場所に自分が居るのが、どうしても耐えられそうになかった。これ以上【百物語・さらやしき】の不気味亡霊に付き纏われるのは、はっきり言って御免だったからだ。





 だからメリーは、ドアを開けた。そこに在るであろう、蓮子の快活な笑顔と人工の温かい光を求めて。





 ◆◆◆





 結論だけを言うなら、メリーの望みは叶わなかった。
 何故なら蓮子の部屋は、ドアの外に広がる廊下よりもさらに巨大で濃い闇に、居座るどころか覆い尽されていたのだから。

「……え?」

 闇へと同化しそうなくらいに、闇の中へと呑み込まれたメリーは呆気に取られた様な声をあげた。
 無理も無いだろう。彼女が予想していたであろう光景とは、あまりにも懸け離れすぎていたのだから。
 まさかこれ程の闇が人工の、それもよく見知った人の住まう場所に存在しているとは……あらゆる結界を暴きその向こう側を垣間見てきた、霊感の強い家系の申し子である【マエリベリー・ハーン】でも、流石に予想する事は出来なかったのだ。

「――嗚呼、メリィ〜……」

 眼前に広がる闇に愕然としていたメリーだったが、不意に耳朶を打った不透明な声によって、我に返る。
 不透明で不明瞭で濁った声色は、確かにメリーがよく知る人の物であった。そして記憶が理解しても、理性と思いがそれを否定しようとしていた。
 脳裏に浮かぶであろう数々の過去の出来事は、その声がその人物の物である事を充分に肯定していたが、彼女の今を司る部分とも言える全てが、彼女自身の記憶と肯定に対して真っ向から否定していた。

「メリィ〜……メェリィ〜……」

 そんなメリーの葛藤と逡巡を他所に、不明瞭な声の主は尚もメリーの名を呼ぶ。
 まるで、旧知の間柄と久方ぶりの再会をしたかの様に、とてもとても嬉しそうに。
 それと同時に、ずる……ずる……という何か重たいモノを引き摺る様な、奇怪な擦り切れる音。
 どうやら、メリーに向かって何かが近づいている様である。ゆっくりと、本当にゆっくりと、近づいて来ているのがメリーにもようやく分かった。
 何かは分からない。
 もしかしたら【百物語・さらやしき】の不気味亡霊かもしれないし、或いは、呪いのビデオで有名な貞の子さん、なのかもしれない。
 引き摺る様にゆっくりと這って来るのは、貞の子さんの専用特許――と言っていい程に似合っていて、恐怖心駆り立てられるモノなのだから。
 勿論、メリーにしてみればそのどちらかが来る事は、お断り願いたい事だった。どうか両者とも、這いながらお帰り下さいませ。

「嗚呼……やっと、来てくれたのねぇ……メェリィ〜……」

 いつの間にやら、随分と近くなっていた声の出所に、メリーは強制的に我へと帰らされてしまう。
 正直、ここで気絶でも出来た方が楽だったのだろうが、生憎メリーはサークル活動の関係で、ある程度までは肝が鍛えられてしまっているのだ。なので残念ながら、気絶する事は無かった。というか出来なかった。
 そんな彼女を他所に、音は尚も近づいてくる。メリーへと向かって、ずるり、ずるり、と這うような奇怪な音と共に、ゆっくりと近づいてくる。

 メリーは動けない。
 本当は恥も何もかもを捨てて一目散に逃げ出したかったのだが、力が何処かへと抜け出してしまって、動く事が到底不可能になってしまったのだ。
 だから彼女には、ただじっと耐える事しか出来ない。自分へと向かってくる、得体の知れないモノに対して、ただ歯を食いしばって耐える事しか出来ない。
 奥底から震えと共に湧き上がり、冷や汗と脂汗をじわじわと湧き流れさせ、目の縁に塩味の雫を溜めさせ、歯を無意味にカチカチと鳴らさせる。
 その自分自身から沸き起こる恐怖に対して、彼女はただ歯を食いしばって耐える事しか、出来なかった。

「メェリィ〜……どぉこぉ〜……?」

 やがて、もうすぐそこまで近づいていた声の主が、メリーへと本当に間近へと迫ったとき――





 巨大で濃い闇の、でっぷりと太った腹を突き破って、ひとつの綺麗な手の平が出てきた。





「……れ、蓮子?」
「嗚呼、メェリィ〜……!」

 記憶が肯定し、それ以外が否定していた事実は、どうやら記憶の方が正しかった様である。
 不透明で不明瞭で濁ったその声だけではどうしても信じきれなかったが、闇から突き出された女性特有の白い手が、声の主こそがこの部屋の主である宇佐見蓮子の物だと、何よりも如実に語っていた。
 その事実にメリーの体から、全ての行動を束縛していた恐怖という単語が、自然にするすると抜け落ちていった。

「嗚呼ぁ……嗚呼ぁ……! メェリィ〜……メェリィ〜……!」

 一方の蓮子はと言うと、尚も不明瞭な声でメリーを呼び続けている。どうやら、メリーが来る事をかなり待ち望んでいた様である。
 何故、蓮子がこんなにも錯乱しているのか。何故、部屋の電気をつけようとしないのか……などなど、恐怖から解放された心の余裕を埋めるかのように、メリーの心中に大小様々な疑問がころころと浮かんでくる。

「……ふふ。そんなに慌てなくても、私はここに居るわよ……」

 しかしメリーはそれを、ひとまず置いておく事にした。蓮子錯乱事件の訳も、部屋の電気をつける事も、とりあえず後にしようと考えた。
 まずは、蓮子の手を取る事にしよう。自分も怯えてはいたが、蓮子だってこんなに錯乱しているんだ。だから、先に彼女を安心させて落ち着かせよう。
 メリーはそう思って、蓮子の白く綺麗な手を優しく掴み返した。





 途端、物凄い力と共に、メリーは巨大で濃い闇の腹の中に、無理矢理引き摺り込まれてしまった。





 声をあげる暇も、恐らく無かっただろう。
 あっという間にメリーは蓮子の手によって、闇の中を無尽蔵に突き進まれていた。
 彼女を力ずくで引き摺る蓮子の顔は、まだ見えない。
 何故ならそこは、巨大で濃い闇の体内だったのだから。巨大で濃い闇の内臓は、やはり何処までも闇一色だったから。

「れ、蓮子……ちょ、痛いって……!?」

 やっとの思いで、それだけを口にするメリー。彼女の手を掴む蓮子の力は想像以上で、本当に痛かったからだ。
 しかしそれを聞いても、蓮子の引き摺る力は一向に衰えないし、メリーを引き摺ろうとする事も全く止めようとしない。
 ただただ、何処かへとメリーを連れて行こうとするだけであり、ただただ、メリーを何処かへと引き摺って行くだけである。

 不意に何かが開けられる音と、独特の何かが擦り切れる音の両方と共に、引き摺ろうとする力が無くなり、メリーはバランスを崩してその場に倒れ伏してしまう。
 思ったほどに痛みが無い事と、手のついた感触から察するに、恐らくここは蓮子の部屋の中――安物のカーペットが、その事実を的確に教えてくれていた。
 それに加えて、先程の何かを開ける様な音。あれはたぶん、玄関から居間へと続く間にある、簡素な引き戸の開く音だ。古くて独特の擦り切れる音をあげるから、間違いない筈である。
 そこから考えると、実際に引き摺られた時間は数十秒にも満たない時間だった筈なのだが、メリーは数時間ほど引き摺られ続けたかのような疲れと感覚を、ほぼ同時に感じていた。

「ねぇ……メリー……」

 つい先程までの、何処までも濁っていて荒々しい声とは一転して、静かでいつもの声色へと戻っている蓮子の声が、不意に聞こえた。
 座る様な形で起き上がるメリーの目に飛び込んできたのは、闇に覆われている事以外は普段と変わらない蓮子の居住スペースと、普段と変わらない格好で向こうを向いている、蓮子の後姿。

 ――闇に覆われているのに辺りの様子が分かるのには、しっかりとした理由が目の前にある。
 普段、蓮子が食事やら勉強やらその他諸々やらに使っている、簡素で素朴な造りの小さなテーブル。その上には何故か毛布が掛けられており、そこからうっすらと光が滲み出していたのだ。
 毛布が少しだけ盛り上がっている事から、恐らく何かが毛布の中に隠れていてそれが光を発しているのだろう。

 うっすらと、不気味に、ナニカが、ヒカリを……

「足りないのよ……後一枚、足りないのよぉ……」
「……蓮、子?」
「一枚……二枚……三枚……四枚……五枚……六枚……七枚……八枚……九枚……後一枚だけ……後一枚だけ、足りないのよ……メリー……」

 蓮子の静かな言葉に、メリーは全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。
 それもむべなるかな。
 自分が興味を持って大学の図書館で調べていた【皿物語】と瓜二つの言葉を、目の前の友人の口から聞いたのだから。

 そして、恐怖ではなく戦慄で固まっているメリーの様子など全く知らないかのように、蓮子は向こうを向いたままだった。
 よく見ると彼女は、机の上で毛布に覆われた何かを、じっと見つめていた。
 メリーからは窺う事の出来ないその瞳で、ただじっと見つめていた。

 ――しかし。

「だからね、メリー……後一枚、手伝ってくれない?」

 幽鬼を思わせる動作で蓮子は、メリーへと振り返った。
 ゆらり、と。
 音も立てずに、ゆらり、と。

 その時、メリーことマエリベリー・ハーンは、飛び掛ってくる恐怖というものを、生まれて始めて感じていた。
 全身をじわじわと蝕む、普段から何かある事に感じている恐怖とは、全くの別物の恐怖を感じ取った。
 喉の奥の奥を、ひょぅぐぅっ、と掴み取られるような恐怖を感じ取り、何もかもが真っ白になっていた。





 振り返った蓮子の顔は、兎に角、酷かった。
 瞳は何処か虚ろとなり黒栗色の髪は、ぐちゃぐちゃに乱れて亡霊を思わせた。
 そして口には、ひび割れたのを接着剤で無理矢理にくっ付けた様な歪な笑みが広がり、何かよく分からない液状の物体が口の端にこびり付いて乾いていた。

 蓮子は、笑っていた。歪んだ口元から鳥の様な笑い声をくつくつと漏らしながら、笑っていた。
 蓮子は、涙していた。虚ろで何処を見ているか分からない様な瞳の端に、申し訳程度に溢れていた液体で、涙していた。
 それら全てが――兎に角、色々と酷かった蓮子の顔が、うっすらと毛布から溢れ出た光によって、幽明の下の様に照らし出していた。

 そしてそれら全てを兼ね備えた友人によってメリーは、縛り付けられ何もかもが真っ白になる、今までに無い恐怖を感じさせられていた。





「後一枚、手伝って……メリー……」

 蓮子が――否、蓮子だったモノが、ゆっくりとメリーへと近づいてくる。
 緩慢という言葉を使うのが馬鹿らしいと思えるほどに、ゆっくりとした動作で、ゆらり、ゆらり、と近づいてくる。

 それに対してメリーは、またしても動けない。
 頭の中が真っ白になってしまい、何かを起こそうという考えすら浮かんでこない。
 むしろ、浮かべる事など出来なかった、と言った方が正しかったのかもしれない。
 何故ならメリーは、全てを奪い尽くしていく恐怖の顎に、捕えられていたのだから。

 だから、蓮子が手を掴んで机の前へと引き摺って行く事に対しても、何も出来ない。
 自分を縛り付ける恐怖に対して、ただ身を竦めて目を見開いている事しか、出来ない。

「一枚……二枚……」

 呆然と恐怖に慄くメリーに見える様に、蓮子はその歪な笑みを浮かべながら、言葉と共にゆっくりと自分の指を折っていく。
 数を確かめさせるように、数字と共に自分の指を折り曲げていくその様子は、幼子に数の数え方を教える親の姿とよく似通っていた。
 尤も、こんな場所でこんな様子の蓮子に対して、それを想像するのは、かなり難しい事であっただろうが。

「五枚……六枚……」

 メリーは、そんな蓮子の様子を黙って聞いているしかなかった。
 ――否、聞いていた、というのも怪しいだろう。
 恐怖にがんじがらめにされている今の彼女にとって、何かをするという事ほど、困難な事は無かったのだから。

「八枚……九枚……」

 そこで、蓮子は言葉を止める。
 まるで【皿屋敷】の中に出てくる、お菊の亡霊を指し示すかの様に。

 しかし、それも束の間だった。
 蓮子はメリーへと再び振り返ると、笑って涙しながら、嬉しそうに悲しそうに呟いた。

「やっぱり、後一枚、足りないの……後一枚だけ、足りないの……だからね、メリー……」

 机を覆い隠す毛布を、引っ掴む蓮子。
 目の前の友人の意図を自然に理解したメリーの頭に浮かぶのは、調べ物の途中で見かけた【百物語・さらやしき】に描かれている、不気味な亡霊。
 うっすらとした不気味な光に照らし出される蓮子の顔は、その亡霊の顔と重なって見えてしまった。

 そんなメリーの脳裏など知ってか知らずか、蓮子は笑いながら涙しながら乾いた笑い声をあげて、言った。

「お願いだから……手伝って……ねぇ……メリー……」

 その言葉と同時に、ナニカを覆っていた毛布を勢いよく退ける。

 閉じ込められていた妖しい光が、辺りを包み込んでいく。

 余りの眩しさに、メリーは目が眩み、何も見えなくなってしまう。





 数秒とも、数十秒とも、或いは数分とも取れる時間と共に、メリーは見た。

 机の上に置かれ、眩いばかりの光を放つソレを。

 そう、ソレは――







































 何の事は無い、何処でもよく見掛ける、普通のノートパソコンだった。

「……はい?」

 思わず、体中を縛り付けていた恐怖とか雰囲気とかその他諸々とか全てを忘れ去ってしまいながら、メリーは素っ頓狂な声をあげる。
 蓮子の方へと振り返るが、彼女は相変わらずの歪な笑みを浮かべて――よくよく見ると、彼女の顔は歪でも何でも無い。
 ただの、酔っ払っている時の顔だった。口の端に乾いてこびり付いているのは、たぶんビールか何かだろう。
 落ち着いて机の上やらその周辺やらを見ると、蓮子が飲んだ物と思われるビールやカクテルの空き缶が、あちこちに点在していた。

「……ねぇ、蓮子。後一枚足りないって、何の話?」

 とりあえず何とか思考を整理しようかと思い、メリーは尚も酔っ払っている蓮子へと話し掛ける。
 蓮子は何とも曖昧な酔っ払いの笑みを浮かべていたが、ふと何かを思い出したのか、一枚のCDケースを差し出してきた。

「……?」

 訝しげな表情を隠しもせずに、メリーはそれを受け取る。どうやら、パソコン用のゲームのCDらしい。
 蓮子から受け取った時に裏側だったので、メリーは表に返して見る。そこには、こんなタイトルが書かれていた。









































【 東方文花帖 〜SHOOT THE BULLET〜 】





































「いやー、そのゲーム面白いんだけど難しくってね。【弾幕を撮影する】っていうゲームなんだけど、枚数が揃わないと次のステージに進めないのよ」
「……つまり、さっきの『後一枚、足りない』っていうのは――」
「ゲームの写真の事。次でラストなのに、後一枚がどうしてもクリア出来ないのよ〜」

「……何で、部屋の電気をつけていないのかしら?」
「ゲームに夢中で、気が付いたら暗くなってたから」

「……蓮子が酔っていたのは、何故?」
「クリア出来なかったから、ムシャクシャして飲んだのよ」

「……パソコンに毛布を掛けたのは?」
「飲んでたら眠くなったから寝ようと思ってね。で、パソコンの画面が眩しかったから隠したの」

「……私が呼び鈴を押したのに、出なかったのは?」
「ああ、押してくれたのね。たぶん、酔い潰れて寝てた」

「……私の名前、随分と必死で呼んでいたわよね?」
「そうだったの? どうも憶えてなくてね〜」

「……何故、私を引き摺り込んだのかしら?」
「メリーにクリアしてもらおうと思って、無我夢中で」

「……つまり、蓮子はただ酔っていただけ、なのね」
「ええ。全部を要約すると、そういう事になるわね〜」
「……ねぇ、蓮子」
「ん? なにかしら、メリー?」





「思いっきり、グーで殴らせて」





 そんな訳で、二人だけのオカルトサークル【秘封倶楽部】は、今日も平和だった。

 そして――





































「藍さま〜」
「ん? どうかしたか、橙?」
「今日ね、私ね……人間を、驚かしてやったのよ!」





 幻想郷も、勿論平和だった。




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