腕が疲れた。ついでに、絵が完成した。 以上の二つの理由から、私は昼食の後からずっと握ってあった愛用の筆を、そっと机に置く。 堅い物同士が触れ合って奏でる、単調で味のある音を耳朶で軽く受け止めながら、椅子から立ち上がってうんと背伸び。 為すがままに静止を命じられていた身体が、痺れる様な解放感に酔い痴れる、まさにこの感触。 私は、これがたまらなく好きだ。 「ん〜……ふぅ」 大地へと引き込む不可視の力に逆らいながら、限界まで徹底的に伸びて伸びてまた伸びて―― 一挙に、全身の力を抜く。 この時の、少々あやふやに映える感覚も、何とも心地が良い。 肩を回して首を回して。 そうやって軽くコリを解していた私の目に、不意に飛び込んでくるのは、窓から垣間見えた外の風景。 いつも通りの安全で平凡な風景の中で、精一杯に自己主張している太陽の光。それが、結構な位置まで傾いていた。 私の、それなりの年月を生きてきた経験が確かならば、そろそろアレの時間である。 妖に関する絵描きでも、消え入りそうな樂の歴史残しでも無い、私個人による愛でるべき趣味の時間。 「ふふっ。今日は、どれにしようかな〜♪」 思わず鼻歌を口ずさみながら、私は傍にあった戸棚の中から、様々な種類の茶葉を取り出して見比べる。 今日は久々に絵が完成したのだから、少しだけ贅沢をするのも良いかもしれない……否、自分への御褒美も兼ねて、今日はちょっと良い茶葉を使ってしまおう。 「えっと、確か……あ、あったあった、これね」 手に取ったのは、丁寧で上品に梱包された、紅茶の茶葉。 里の守り手として、又は近所の相談役として、日頃から色々とお世話になっている、慧音様からの御裾分け。 聞いたところによると、知り合いの給仕長? が自分でブレンドした紅茶の茶葉を作り過ぎたとの事で、御裾分けとして貰った物らしい。 『貰ったのは良いんだが、生憎私は紅茶より緑茶の方が好みだからな……そんな私に飲まれるよりは、君みたいな紅茶が好きな娘に飲んで貰えた方が、作った側としても紅茶としても、恐らく本望だろう』 そう言われて、ちょっと遠慮しながら、しかし内心では多いに喜びながら、私はその茶葉を受け取ったのだ。 「じゃあ、早速……あ、良い香り〜」 梱包を解いた途端に鼻腔を擽る、飾り気の無く尚且つ上品な香り。オリジナルのブレンドだと聞いていたのだが、中々どうして、私の好みにぴったりの香りである。 これは、嫌でも期待が出来た。寧ろ、期待以外に考えられない。 「うふふ、楽しみだな〜」 自然と頬が緩むのを、私は止める事が出来なかった。 ◆◆◆ お気に入りのティーカップを片手に、私は椅子に深々と腰掛けている。 先程の紅茶は、まさに申し分の無い物だった。香りもさる事ながら、深い味わいも実に良かった。満点どころか百二十点である。 苦戦していた絵も完成し、今の気分はまさに絶好調――では無く、満たされて心地の良い物だった。絶好調とは違い、何処か脱力した感が有ったのだが、それはそれで良しと思っておく事にする。 「――綺麗ねぇ」 窓枠に区切られた、ほんの少し狭苦しい、里の黄昏。 のんびりと過ごしている内に、何時の間にかすっかり茜色に染まった景色を見つめながら、大変に美味しい紅茶を口に含む。 年相応では無い行為なのかもしれないが、これはこれで良い。先があり生気に溢れる若者だって、たまには黄昏時に夕日を眺めて、老いた様に呆けてみたいものなのだ。 そんな事を呆けた頭で描きながら、私は静かに両の瞳を閉じる。 瞼の裏では、先程まで見つめていた黄昏の景色と、寸分も違わないであろう黄昏の里が、鮮明にありありと焼き付いていた。 一度見た物を忘れない程度の能力。 稗田家の乙女に代々伝わる、唯一の異能の力。 外見的にも精神的にも、極々普通の人間と何ら変わりの無い私に与えられた、ちょっと変わった能力。 これが原因で不便な事も多々あったけど、今こうして椅子に座って外を見ている分には、それ程悪い物とは感じない。 何故なら。 今見ている、この黄昏色の景色を忘れなければ、この美味しい紅茶の味や香りも共に此処に在るが故に、忘れる事は無い。 この景色を思い出せば、一緒に紅茶の味や香りも、脳裏に描いた情景と共に湧き出てくるのだから。 一度でも垣間見た妖の姿は、決して忘れる事は無い。 それは後々に書く時でも、一片の誤差や感情の混合が起こる事無く、率直に事実を模写出来るのだから。 消え入りそうな樂の音。音色自体は忘れても、その時に幻視した【此処では無い何処か】を忘れる事は無い。 そして、それさえを記憶に留める事が可能であるならば、その記憶を思い起こした時に樂の音色も共に描かれ、耳朶へと自然に蘇ってくるのだから。 だから今は、この能力を疎ましい物とは感じていない。寧ろ逆に、感謝していると言っても過言では無い。 勿論、嫌な面だって数え切れない程にはある。先代や先々代――つまり、私の母さんやお祖母ちゃん何だけど――も、それで苦労を重ねてきたと聞いている。 かく云う私だって、多少は憶えている。まだ小さい時に、うっかり見ちゃった動物の亡骸なんかは……今でもお肉は、あんまり食べれない。 でも逆に、良い面だって沢山ある。 嫌な面ばっかり見てたって仕方が無いから、私はなるべく良い面ばかりを見る事にしている。 この景色だって、そんな良い面の一つ。 茜色の黄昏に、芳醇な味わいと香り。全てを一緒くたにして憶えておけば、後々に思い起こせばそれなりには幸せな気分になれる。 絵だって描こうと思えるし、消え入りそうな樂の歴史をちょっと書き綴ろう、とも考えられる。 だから私は、このちょっと変わった異能の力を、私なりに楽しみながら一生付き合っていこうと決めている。 少なくとも今この時は、この胸の中にしっかりと記憶してある―― 「……さて、それじゃあ続きを書こうかな」 自分自身に対しての、穏やかな気合入れ。 カップの中身を飲み干して机に置き、ちらりと横目で区切られた黄昏を覗き込んで。 私は再び、筆を軽く握り締めた。 ◆◆◆ しがない晩春の一日。 乙女は絵を描き、樂を綴り、紅茶で一時の休息を楽しむ。 彼女の求聞史記が世に出るのは、もう少しだけ、先のお話になりそうです。 |
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