なんでもなく、なんでもある。



 午前二時。

 赤く柔らかな光が、ゆらりゆらりと優しい動きで揺れている。
 夜空を覆い隠すまでに木々の生い茂る、鬱蒼とした森の中――たった一つの提灯の灯り程度では、やや心許無いものを感じるかも知れないが、それでもその薄ぼんやりとした灯りは確実に、辺りを朗々と照らし出していた。
 季節は丁度、師走に差し掛かった頃――本格的な、冬の始まり。
 何処も彼処も、容赦無く木枯らしが吹きつけ、厳しい寒さの訪れに全ての生き物が身を小さくする、そんな季節だ。
 それが、原因なのだろうか。
 仰々しく『八つ目鰻』と書かれた紅い提灯をぶら提げる、小さな屋台の店主――ミスティア・ローレライは、居酒屋の時刻としてはまだ宵の口にも拘らず、早々に店仕舞いを始めていた。
「店仕舞いだぞ灯を消せ〜……へっくちん」
 可愛らしいクシャミと共に、少女としては、はしたない長さの鼻水がでろんっと垂れる。
 思わずそれを服の袖で拭い、すぐさま慌てたように顔から引き離すが――時、既に遅し。哀れ、お気に入りの服を己の鼻水で汚してしまったミスティアは、背の羽と耳の羽の両方を悲しそうにしゅんと萎れさせながら、それでも健気に、片付けを再開し始めた。
 そんな、あどけなくも滑稽な妖怪少女の様子を、知ってか知らずか。
 一際、強い木枯らしが颯爽と木々の合間を駆け巡り、忍び笑いのような響きと共に、一層強烈な寒さを運んで来る。
「まったく。いきなり寒くなられても、こっちは迷惑なだけなのに……へ、へ、へっくちん」
 気候の変化は、自然の変化。
 一定の法則を保つように見せ掛けて、その実は子供のように気紛れでもある。文句を言ったところで、どうにかなる訳では無いのだが……
 再び、ミスティアはなんの躊躇いも無く、服の袖で垂れてきた鼻水を拭い取って――今度は、そのままの姿勢で数秒間、硬直する。
「…………」
 やがて、またもや彼女の背の羽と耳の羽は、先程と同じようにしゅんと萎れてしまった。
 屋台にぶら提げられた紅い提灯は、そんな鳥頭な店主を励まそうとしているのか、或いは、嘲笑っているのか。
 優しく、それでいて何処か頼りの無い動きで、ゆらりゆらりと揺れていた。





 午前四時。

 妖怪というのは、個々によって差はあれども、得てして夜行性な輩が多いのが現状だ。夕方近くに目を覚まし、夜明けと共に床に就くのも、珍しくない。
 つまり逆に言えば、まだ夜闇も深いこの時間に妖怪が寝ているのは、それなりには珍しい事だったりするのだ。
「すぅー……すぅー……」
 夜雀の屋台からは少しだけ離れた、だけれども鬱蒼とした雰囲気には何ら変わりの無い、森の中。
 いかにも、年頃の少女らしい静かな寝息が、巨大な老木の洞の中から聞こえてくる。
 尤も、半ば腐葉土へと朽ち掛けている大量の落ち葉を掻き集め、それを臨時の枕と布団にして眠っている妖怪を年頃の少女≠ニ呼んでしまうのは、いささか何かが間違っている気もしなくは無いのだが……この際、敢えて目を瞑ろう。
 ほんの僅かに青色の混じった、短めの緑髪。そこから伸びる二本の触覚を、時折ぴくぴくと微細に動かしながら、妖怪蛍――リグル・ナイトバグは、気持ち良さそうな寝顔で横になっていた。
 虫は寒さにめっぽう弱い。
 妖怪に属するリグルにとっても、どうやらそれは、例外では無かったらしい。
 冬眠する天道虫、とまではいかないものの、急激に寒くなった事によって、最近は活動時間が極端に短くなってしまったのだ。起床時刻の夕方は寒さによって中々起きられず、逆に就寝時間である明け方までは寒くて待てないので、さっさと布団に潜ってしまう日々が続いている。
 だからと言って、何か不自由がある訳でも無いのだが……これでは、どこぞの隙間妖怪の自堕落サイクルと大差無いのではないか? などと考えたりした事も、あったり無かったりとか。
「んぅ、む〜……」
 それにしても、本当に気持ちの良さそうな寝顔である。
 何時ぞやの終わらない夜に浮かべていた、ガキ大将特有の厚顔不敵な笑みとは、まさに大違いだ。紫色の奇妙に捩れた、やや気色の悪いその触角も、どことなく可愛らしいものに見えるから不思議である。
 そんなに、この落ち葉布団が気持ち良いのだろうか。
「んあ……ぁむ、ぅ……んすぅー……」
 緩慢とした寝返りと共に、寝言とは呼べない程度の不明瞭な言葉を、むにゃらむにゃらと口にする。
 リグルの明快な、しかしまどろみが多分に含まれたその声は、木々独特の凹凸が目立つ、ドーム状に開けた洞の壁面に反響して、やがて消えていく。
 そこには、まるで蠍座の赤い心臓を微塵に砕いて散りばめたかのように、おびただしい数の色鮮やかな赤い斑点が、鈍い光沢を放っていた。大小、形も模様も微妙に違う、赤い斑点の群れ。その中には、橙色や赤色に黒点の目立つ、極小の太陽を思わせるものも、多々、見受けられる。
 ――それは、何百匹もの、天道虫。
 風の通らない場所で越冬する彼らは、皆一様に小さな小さなその瞳で、眼下の妖怪蛍を静かに見下ろしていた。
「すぅー……ん、んん……」
 不意に、その妖怪蛍の気持ち良さそうな寝顔に、嬉しそうな微笑みがほろりと浮かぶ。
 赤と橙と黒の星達が、少しだけさざめいたような気がした。





 午前六時。

 いつものように、巫女は目を覚ました。
 多少、眠気の残る半閉じの瞳で天井を見つめ、続いて上半身だけを起き上がらせて外を見つめてから――たっぷり三分が経過した後に、ようやく布団から抜け出す。
「……寒いわね」
 ぽつりと呟きながら、それでも朝の準備には滞りが無い。
 顔を洗って簡単に髪を梳き、保存してある適当な食材で朝食を作り始める。献立は、豆腐とコンニャクと大根の味噌汁に、少しだけ塩をまぶした焼き魚。それと忘れてはならない、主役のご飯。
「いただきます」
 手を合わせて静かに挨拶し、朝食に取り掛かる。
 速過ぎず遅過ぎず、そして少な過ぎず多過ぎず。年頃の少女として、健康的で丁度良い量の食事を、巫女は綺麗に平らげていく。
 最後に、唇から僅かに逸れた頬のご飯粒を、指で掬い取って口に含んでから。
「ご馳走様でした」
 大変ご満悦な様子で、微笑んだ。
「あーさーごーはーんー」
「そこにあるから食べておきなさい」
「はいはいー」
 ようやく起きてきた鬼を尻目に、今度は普段着でもある、独特の巫女服へと着替え始める。
「……やっぱり、少し寒いわね」
 そう言っている巫女に、開けている腋部分を気にした様子は微塵も無い。着替え終わった後は、結構な年代物の鏡台へと向き直った。
 赤く大きなリボンで、丁寧に自分の黒髪を結っていく。慣れた様子を漂わせるその姿は、見ていて溜め息が漏れてしまいそうなほどに、滑らかで美しい。流れるような動きも、実に見事なものだ。
 やがていつものように、普段通りの髪型に仕上がる。巫女はそれを鏡越しに確認し、満足そうな面持ちで立ち上がって――
「あ」
 不意に、昨日の宴会で誰かが忘れた、香水の存在を思い出した。
 鏡台の傍らで静かに鎮座するその小瓶を、さり気ない挙措で手に取る。
「……ちょっとなら、使っちゃっても良いわよね?」
 誰も居ないのに、何故かそんな事を言う。向こうでもさもさと朝食を食べている、鬼以外は誰も居ない事を知っているはずなのに、それでも周りの様子を確認する。
 再三、周囲を見回してから、ようやく巫女は小瓶の液体を少しだけ手に取った。そして、先程の髪を結う動作とは比べ物にならないほどのぎこちなさで、両方の手首を恐る恐る、擦り合わせる。
「…………」
 鏡に映る自分の虚像に、変化は見受けられない。
 だが実際には、柔らかで穏やかな香りが鼻腔をくすぐっているという、一つの変化が確かに感じ取れる。
「うーん。やっぱり、似合わないかしら?」
 そんな言葉とは裏腹に、巫女の顔は何処か嬉しそうだった。虚像である鏡の巫女も、同じように嬉しそうな顔をしている。
「……さてと。まずは境内の掃除からね」
 鏡台から視線を外し、愛用の靴を履いて外へと出る。傍にあった箒を片手に巫女――博麗霊夢は、鳥居の方へ軽やかに歩み寄った。
 まだ夜闇の色濃い空を見上げて、さり気なく口を開く。
「今日も、良い天気になりそう」
 そう呟いた霊夢の横手を、冬に似つかわしくない穏やかな風が撫でるように通り過ぎる。
 いつもとは違う甘い香りが、博麗神社の境内を軽やかに舞った。





 午前八時。

 最近、サニーこと、サニーミルクの一日は、身支度をした後の『突き』を合図に始まりを迎える。
 肩幅と同じか、それより少しだけ足の位置を開き、腰を落として背筋を整える。
 別に、武道の心得がある訳でも無い。所謂、見よう見まねの真似事なのだが、それでも、こうして形だけでも真似てみると、意外と本格的に思えるから不思議なものだ。
「ひゅぅぅぅ〜……」
 瞳を閉じて、深く息を吐く。
 そうして拳を握り締め、素人なりに構えながら、サニーは右拳を勢い良く突き出した。
「――せいっ! せいやっ!」
 サニーの拳はそれで止まらない。
 一定の間隔を開けながら、裂帛の気合――少なくとも、本人にはそう聞こえている掛け声――を声高に言い放ち、それに合わせて右と左の拳を、交互に前方へと突く。
 傍目から見れば、小さな妖精の何とも可愛らしい真似事のようにも感じられるだろう。しかし本人は、至って真面目である。そこのところの誤解は、どうか無きように。
「つぇいっ! てぇいぃっ! ……ふしゅぅぅぅ〜」
 やがて、たっぷりと三十セット――右拳が三十、左拳も三十と繰り出したところで、サニーは再び深い吐息と共に動きを止めた。
 汗が滲むその首筋からは、彼女が発する熱が白い蒸気となって、上空の木々に向かいゆらゆらと立ち昇る。
 何故か乳臭く感じるのは、恐らくは気のせいだろう、恐らくは。
「それ、まだ続けていたのね」
 感心半分、呆れ半分の声は、木々の上から聞こえてきた。
 見ると、滑らかで雅な黒髪をかなり長く伸ばした少女が、枝の上で行儀良く座りながら見下ろしている。
 知らない顔では無い。寧ろ、毎日のように会っていて、知り過ぎているような顔だ。
「貴方もよく飽きないわね、サニー?」
 今度は、呆れ八割、疑問二割の声が、別の方から聞こえてくる。
 念入りに探るまでも無い。自前の金髪で、幾つかの見事な縦巻きロールを結わえた少女が、黒髪の少女とは別の木の枝に座っていた。
 こちらも、知らない顔ではない。怒ったように引き結ばれた口元は、今の今まで見飽きるくらいに見てきた、その少女の特徴だ。
 長い黒髪の方が、スターこと、スターサファイア。
 縦巻きロールの方が、ルナこと、ルナチャイルド。
 その二人にさらにサニーが加われば、姦しい事で知っている人は知っている、妖精三人組――三月精のお出ましだ。
「……必殺技の完成には、余念があっては駄目なのよ」
 誰にも聞かれてもいないのに、サニーは自信たっぷりの笑みで答える。微妙にスポ魂も入ったその顔が、某チャンピオン格闘漫画の登場人物のように肉厚でないのは、まだせめてもの救いなのだろう、いや関係無いか。
「その必殺技の事だけど……『サニーパンチ』ってそのままのネーミング、止めた方が良いと思うけど?」
「スターの意見に大賛成。大体、私達のような妖精が拳を鍛えたって、全然意味が無いような……」
「いいえ。ネーミングの変更は、残念だけど出来ない相談よ、スター。それにルナも分かっていない。これは拳以外にしちゃったら、逆に意味が無いのよ」
 何処からとも無く、取り出したタオルで汗を拭き取りながら、サニーは尚も自信に溢れた様子で言う。
「そう、それは拳でなければ駄目なの。何故なら――」
「「何故なら?」」
「他とは違う、特別でユニークな、サニーの拳は――」
「「ユニークな拳は?」」
 サニーは両腕を精一杯に広げ、天を仰いだ。

「――正拳突きで、型番『NS‐5』の頭を貫いてしまうような、凄まじい威力を発するのよ!」
「「それ何て『アイ,〇ボット』?」」

 途端、何とも言えないまでに微妙な沈黙が、森の中に漂い始める。
 風で揺れた木々が触れ合う音も、何故か今は、ほのかな哀愁を滲み出していた。
「…………あ、あれ? スターもルナも、知ってたの?」
 引き攣るような笑みが、サニーの口の端に浮かぶ。
 対する二人の妖精の態度は、かなり冷ややかなものだった。
「ねえ、ルナ。今日は二人だけで行動しない? というか、是非そうしましょう」
「奇遇ね、スター。私も丁度、そう思っていたところなの。だから勿論、大歓迎よ」
「ちょ、ちょっと――」
 完全に勢いを失した、不憫過ぎるサニーの悲痛な声にも、二人はまったく耳を貸さない。
 普段より三割り増しほどあっさりとした態度で、スターとルナは颯爽と森の奥へ消えていった。
「あ、あんまりよ……あまりにも、心が無い……理不尽よ……折角、毎朝、頑張ったのにぃ……」

 サニーはその場に蹲り、二分間だけ辺りを見回した……
 そして……ふと我に帰ってからしばらくして、自分がとんでもなく滑った事を思い出し……泣いた……

 それから半刻と経たない内に、スターサファイア、ルナチャイルド、そしてサニーミルクの三人一緒で行動する、三月精の姿が目撃される事となる。
 彼女たちにとっては兎にも角にも、何時もの事に過ぎないのだった。





 午前十時。

『夏の日差しは暑くて嫌。だから私は、私も含めて周りを暗くしているの』
 鴉天狗の新聞で、宵闇の妖怪、ルーミアが語っていた言葉だ。
 確かに、夏は暑い。
 それならば、昼間から寒い冬の間は、一体どうしているのだろうか。
「あー」
 その答えが、此処に居た。
 闇色の服に包まれる華奢で小柄な体躯に、赤い御札をリボン代わりとして結んでいる、肩口までの金髪。
 見間違うはずも無い。夏の間、常に闇を纏っていた、あのルーミアだった。
 その彼女が、今は闇を少しも纏わずに、日向ぼっこに興じている。どうやら、冬の寒さに対しては、抗う事が出来なかったらしい。
「気持ち、良いー」
 森からは少し距離の離れた、比較的に開けた場所。
 そこに点在する、大きな岩の一つにちょこんと腰掛けながら、ルーミアは太陽の光を一身に浴び続けている。
 彼女の服は、真っ黒な闇色。黒は白に比べて、照射される光の熱を吸収し易いと聞く。
 なるほど、夏の間は苦痛だろうが、冬ならば逆に快適なのも頷ける。この時ばかりは自慢の闇を引き剥がすのも、当然と言えば当然なのだろう。
「暖かい、なー」
 瞼を閉じながら、ルーミアはのらりくらりと口にする。その声色は、まどろみの響きを多分に含んでいた。このまま彼女が昼寝を始めてしまうのも――どうやら、時間の問題らしい。
 風も大して強く吹かず、空には白い雲も疎ら。
 恐らくはこのまま、良い天気が続いてくれる事だろう。





 午前十二時・午後零時。

 紅魔館の門番は、敷地内のお花畑も管理しているらしい――というのは、数年前の話題にも上らない噂だった。それが事実だと分かった今では、噂が成り立つはずも無く、結局のところ門番の紅美鈴は、何時の間にか定められていたという花畑の管理を、特に不平も漏らさずに行っている。
「さて、今日はどんな感じかな〜?」
 と言うよりも、寧ろ、かなり楽しそうに行っていた。
 冬と言う季節は、基本的に寂しく、何より厳しい季節でもある。花粉を運んでくれる虫もいなければ、光合成に必要不可欠な太陽が大地を照らす、日照時間も少ない。極々一般的な植物ならば、なるべく避けたい季節に違いないのだろう。
 だが、人間にも妖怪にも例外が存在するように、植物にも例外は存在する。
「えっと……この白い花のが、シクラメン。で、こっちの赤いのは、ポセインセチア。そして、小さいけれども一面に一杯咲いているのは、確かパンジーだったわね」
 珍しく、地下図書館から本など借りて来て、わざわざ覚えた花の名前を、ゆっくりと思い出していく。
 今の時期に咲く、他とは少しだけずれた、花々達。紅魔館の花畑を彩る彼らへと、美鈴はしゃがみ込みながら話し掛ける。
「寒いのに咲くなんて、貴方達も変わり者よね〜。まあ、一風変わった方達が多いこんな場所だからこそ、貴方達みたいに咲く花の方が、咲き易いのかも知れないけど」
 そう言って、目の前の青いパンジーを軽く突付いてみる。
 柔らかな色彩のパンジーは、その質感も滑らかで柔らかく、美鈴の顔も思わず綻んでしまう。こうして見ると、花というのも中々に可愛いものだ。
「――そうだ。折角だし、何か名前を付けてあげようかしら」
 返事が返ってくるはずも無いのに、美鈴はまるで名案でも思いついたかのように、明るい声を出す。
 当然、風に揺られるだけのパンジー達からは、反応らしいものは何一つ返って来ない。それでも門番の少女は、既に付けるべき名前を思案し始めていた。難しい顔で、唸り声をあげている。
「ん〜……んん〜……」
 一分が経過し、三分が経過し、五分が経過してから。
「よし! 三つだけだけど、思い付いたわ」
 満面の笑みで頷いてみせた美鈴は、まず最初に、自分が突付いたあの青いパンジーを指差す。
「まずは、貴方からね。貴方の名前は『アルヴィン・H・ダヴェンポート』。ちなみに仇名は『チョッパー』よ。元は、北海から来る悪魔の内の一人らしいんだけど。良い名前でしょ?」
 ……実に、コメントに困る名前だ。
 しかし、当の名付け親である美鈴本人からは、そんな様子は微塵も感じられない。頻りに元気良く、頷くだけである。
 続いて彼女は、今度はその隣でやや所在無さげに揺れ続ける、黄色いパンジーへと向き直った。
「次は、貴方。で、名前なんだけど……『レイシス・フォーマルハウト』っていうのは、どうかしら。仇名は、少しだけ短くした感じの『レイス』。本で見た名前で、何でも凄腕の剣士らしいわよ」
 ……死亡フラグ、という単語が、否が応でも浮かんできてしまう。
 勿論、美鈴は満足そうにしているだけだ。良かったね〜、などと言いながら黄色いパンジーを突付く姿は、どうにも無邪気で、何故だが遣り切れないものを覚えてしまう。
「そして、最後は貴方よ。三つしか思い付けなかったから、とりあえず今日は、貴方でお終いなの……ラッキーでしょ?」
 ラッキー。嬉しそうな門番を間近で見られるという意味でならば、確かにラッキーだったのかも知れない。
 美鈴が話し掛けていたのは、彼女の紅い髪色よりも暗めの赤をした、小さなパンジーだった。
「ずばり言うわ。貴方の名前は『サスァ・パルパレオス』で、決まり! 仇名は特に無いから、普通に『パルパレオス』って呼ぶわね。双剣を振るう、特別な剣士だったって本には書いてあったのだけど……冥界の庭師とは、やっぱり違うのかしら?」
 ……それにしてもこの門番、ノリノリである。
 いくら、本からの知識をそのまま反芻するかのようにして名付けたとは言え、ここまでドンピシャな名前を与えてしまうとは。おまけに最後に名付けたのは、世にも恐ろしいトラウマすらも兼ね備えた名前だったのだから、余計に始末に終えない。
 もしかしたら、今の彼女は北斗七星の傍らに、もう一つの星を見つけてしまうかも知れないだろう。
 美鈴、恐ろしい子!
「私が名前を付けてあげたんだから……貴方達、しっかりと咲き続けなきゃ駄目よ? 分かった?」
 自分が笑顔で名付けた、名前の末路。
 その事実を露も知らないであろう美鈴は、またもや満面の笑みを浮かべると、再び目の前のパンジー達を優しく小突き始めていた。
「…………」
 そんな光景を、黙って見つめる影がある。
 昼食が出来た事を伝える為に、お花畑のすぐ傍までやって来ていたその人影は、小さく口を開く。
「……後で、花の名前を変えるよう、説得しないとね」
 先程までの、微笑ましい遣り取り。
 その一部始終を、物陰からこっそりと盗み聞きしていた十六夜咲夜は、疲れたように溜め息をついた。





 午後二時。

 風見幽香は、普段とあまり変わりなく、その場所を訪れていた。
 鬱蒼とした魔法の森から、少しばかり離れた場所に位置する、開けた場所。そこは、あの春の異変と夏の間には、彼女の大好きな向日葵達が群生していた、太陽の畑だった。
 しかし向日葵とは、あくまで夏に咲く花である。太陽の花、とも呼ばれるように、夏の鋭い日差しを浴び続けなければ、咲く事は出来ない。それどころか例え夏だったとしても、長雨が続いてしまえば簡単に萎れてしまう、意外とか弱い花でもあるのだ。
 当然、今のような冬の季節に、咲けるはずも無い。逞しい雑草が、申し訳無さそうに揺れているだけである。
 だからこそ、幽香がこの花畑を訪れる時間は、夏の間と比べて格段に短くなっているのだが――しかしそれでも、時間を短くしただけで、訪れる事は止めていない。
 夏に咲く向日葵達の為に、何かしらのトラブルが起こっていないか。その確認も含めて暇潰しがてら、こうして冬の間にも拘らず、彼女は毎日訪れていた。
「…………」
 そして、そうやって毎日訪れていたからこそ、ささやかな変化にもすぐに気付く事が出来たのだろう。
「寝ているわね」
 三人の人間。それくらいなら、並んで寝転がれそうなほどの広さを持つ、巨大な岩がある。
 普段は幽香が、暇潰しに空を眺める為に使っている足場。しかしこの日ばかりは、先客がその場を占拠していた。
 大変に嬉しそうに口を開き、遠慮無く涎を垂らしながら眠っている、金髪の少女――数時間前、満面の笑みで日向ぼっこに興じていた、あの宵闇妖怪ルーミアだった。
「起きる気配は……全然、無さそうね。そんなに気持ち良いのかしら?」
 ぷにぷに、と眠る少女の頬を突付きながら、幽香は何とはなしに言う。
 実際、ルーミアの気持ち良さそうな眠りっぷりは、見ている方にまでその気持ちを分け与えてくれるかのような、見事なものだった。少しばかり興味を抱く事だって、別に不思議では無い。
「……ちょっと、失礼するわ」
 聞こえるはずが無いのに、幽香は一言だけ断ってから、ルーミアの横へと腰掛ける。
「あら、意外と良い感じかも」
 新たな発見に、僅かながら顔を綻ばせる。そして、隣の宵闇妖怪を習うかのように、ゆっくりと横になった。
 夏場には熱くて仕方が無かった岩場の上が、今は背中を、緩やかにじんわりと暖めてくれる。空から降り注ぐ陽の光が多少眩しいのが難点だが、その日差しも気持ちが良いので、あまり気にならなかった。
「へぇー。これはちょっと、癖になりそう」
 身体の力を抜いて、幽香は深く息を吐く。
「本当、気持ち良いわぁ〜……」

 やがて、それまで聞こえていた寝息の中に、新たな寝息が混じり始める。
 とある岩の上では、二人の妖怪が仲良く並びながら、のんびりと昼寝に興じていた。





 午後四時。

 見慣れた竹林を散歩中、見慣れない死体を見つけたのは、半刻ほど前の出来事だった。
 すぐさま駆け寄り、脈を確かめてみるものの、時既に遅し。見慣れない服装をしたその青年は、右肩から水月までを深く切り裂かれて、絶命していた。
 固まった血を口の端にこびり付かせ、瞳を驚愕に見開いたままのその表情からは、当然ながら一片の生気も垣間見えない。恐らくは、何処からか迷い込んだかして、妖怪に襲われたのだろう……五体満足で残されたその身体が、何故か不思議と哀しく、世知辛い痛みを覚えさせた。
「――私達で、弔ってあげない?」
 隣からの声に、藤原妹紅は多少は驚いたものの、反対をする事は無かった。
 天高く竹が生い茂る竹林の、比較的に開けた場所。もう一人と一緒にそこで穴を掘り、青年の骸を埋めてから、適度な大きさの石を墓標代わりに鎮座させる。
 それは墓と呼ぶには、あまりにも味気無いかも知れない。だが弔いとは、誰かを弔おうとする気概こそが大事なのだと、妹紅は思っていた。だからこそ、即席の墓石に向かって静かに手を合わせ、その紅い瞳をそっと閉じる。
 青年の来世の幸せを、願う程度に祈りながら。
「…………」
 しばらく時間が経ち、妹紅は傍らの少女――蓬莱山輝夜へと視線を移した。長く美しい黒髪を風にそっと靡かせながら、彼女は尚も手を合わせ、瞳を閉じている。その横顔に浮かぶのは穏やかな色だけであり、長年、因縁の関係としていがみ合ってきた妹紅と言えど、彼女が今、何を考えているのかまでは全く分からない。
 尤も、それも何百年と過ごす内に慣れてしまったので、今更どうだと言う事も無いのだが。
「珍しいね。あんたが『弔おう』だなんて、言い出すのも」
「あら。そりゃあ、私だって不老不死とかいう、生者も死者も世界も輪廻も冒涜するような生き方をしているけど……そこまで、冷酷無比じゃないわよ?」
 口元を押さえながら振り返り、輝夜は上品に笑って見せる。
「死人に口無し、とは言うけれど。だからこそ私は、死人に対して礼節や気遣いを以って接してあげるのが、一番大事だと思うの……可笑しいかしら?」
「いや、良いんじゃないかな。私としても、その意見には賛成だし」
「あら嬉しい。選りにも選って、妹紅に賛成されるだなんて」
「……あくまで、その意見だけだよ」
 何故か嬉しそうに笑う輝夜を尻目に、溜め息と同時に妹紅は立ち上がると、何処へともなく歩き始める。
 別に他意は無い。ただ少し、歩きたいなと思っただけだ。
「――ねえ、妹紅」
 輝夜の声に柔らかく呼び止められたのは、三歩目を踏み込んだ時だった。
 回りくどい言動を好む彼女にしては、やや強い感情を漂わせるその声に、思わず振り返る。
「一緒に、お酒飲まない?」
「はぁ?」
 しかし、妹紅の微かな驚きとは対照的に、輝夜の言葉は至って一般的なものだった。浮かべる表情も、普段と変わらない、あの掴みどころの難しい曖昧な微笑みだけである。
 少なくとも、先程の言葉のような確固たる感情は、あまり感じられない。
「だからね。私と貴方と――それと、この人との三人で、お酒を飲みましょうって提案しているのよ」
 そう言って輝夜は、自分、妹紅、傍らの墓石と、順番に指差しながら、説明を付け加えた。
 何処か小馬鹿にしているような態度に、妹紅の瞳に少しだけ、剣呑な輝きが過る――しかし、そこは年の功か、はたまた元来の性格が我慢強いからか。口をついて出て来た彼女の言葉は、当たり障りの無い平穏な内容だった。
「いや、私は別に良いんだけどね……でも、こんな時間から飲み始めるっていうのは、正直どうかと思うよ? 大体、肝心のお酒はどうするのさ?」
「こんな時間だからこそ、楽しめるんじゃない。それに此処からなら、貴方の家が近いから大丈夫。お酒くらい、何本かは持っているのでしょう?」
「おいおい待て待てちょっと待て、奢らせる気か」
「当然、でも良いじゃない。一人より二人、二人より三人。それも、死んだのが一人に死ねないのが二人なら、静けさも騒がしさも丁度良いと思うのよね。陽が沈んでいくのを楽しみ、竹のさざめきを耳の肴にしながら、姦しく悠々と飲み明かすのも……乙なものだと、思うのだけれど?」
「……今日は随分と、饒舌なんだな」
「だって飲みたいんだもの〜」
 ぴょんぴょんと、兎のように跳ねる輝夜。
 着物では跳び難いだろうに、わざわざ頑張って跳ぶその姿は、見ようによっては中々に可愛く見えるかも知れない。しかし残念ながら妹紅には、精神的な部分から来る、偏頭痛の種にしかならなかった。
「はぁ〜……仕方ないね、私も飲むのは嫌いじゃないし。適当に見繕って、持って来てやるよ」
「あ、ちなみに私は、熱燗じゃなきゃ嫌だからね。安酒なんか持って来たら、それこそ問答無用で難題を――」
「五月蝿い我慢しろ」
 言うや否や、妹紅の行動は早い。彼女独自の力である、不死鳥の幻影の翼を羽ばたかせ、颯爽と宙に浮かぶ。そしてそのまま、竹林の奥へと一挙に飛び去ってしまった。
 まさに、あっという間の出来事。
 炎を思わせるほどに鮮やかなその朱色も、今は向こうの方で、風前の灯のように小さくなっている。苦言を漏らしていた割りには、随分と迅速な対応だった。
「んもぅ、別に良いじゃない。貴方なら熱燗くらい、それこそ朝飯前のはずなのに……」
 取り残された輝夜は、まるで怒っていない口調で呟きながら、そっと傍らに視線を落とす。
「――今夜だけは、難題はお休み」
 一際強い風が吹き、竹同士が触れ合う独特の音色が、周囲へと波のように響く。
「だから、ゆっくりと飲みましょう? ね?」
 墓石へと微笑んだ輝夜の笑みは、いつものように謎めいていて――それよりも、優しいものだった。





 午後六時。

 甘味が、少し濃い。
 どうやら今日のミルクティーには、普段より砂糖を多めに入れてしまったらしい。
「まあ、こんな寒い夜には、これくらいが丁度良いのかも知れないけれど……」
 誰に言うでもなく、まるで言い訳のような言葉が、自然と零れ落ちてしまう。そんな自分に対してアリス・マーガトロイドは、小さな溜め息をついただけだった。
 今の彼女は椅子に腰掛け、カップを右手に持ちながら、左手だけを器用に動かしている。
 白魚のような指が艶かしく動き、手首は忙しない半回転を繰り返す。あたかも、左手首から先の部分だけが、別の生き物であるかのように活き活きと、何かを行っていた。
「んー、こんなものかしらね」
 不意に、アリスが呟く。するとその左手も、ぴたりと動きを止めた。
 人形遣いであるアリスにとって、別に珍しい事では無い。人形と自身の指先を繋ぐ魔法の糸と、それを扱う際の動きに支障が無いかの確認――所謂、メンテナンスのようなものである。常日頃からこうやって確認をするのは、今では彼女の日常の一部となっていた。
「寒さで動きが鈍る事も無い……うん、今日も快調ね。この分だと、今年の冬も問題は無さそう」
 甘めのミルクティーを、優雅な挙措で口に含む。
 レモン、ハーブと、紅茶は基本的に何でも好きなアリスだったが、それでもやはりミルクが一番好みに合っていた。たぶん、幼い頃からずっと飲んでいたというのが、大きな理由なのだろう。こっそりと甘党なのも、実は母親譲りである。
「……さてと。そろそろ、夕飯の支度でもしようかしら」
 空となったカップを片手に、椅子から立ち上がって台所へと歩み寄る。
 あまり気にならないとは言え、今日が寒い事に変わりは無い。アリスは、今夜の夕食は身体が温まる物にしようと、考えていた。





 午後八時。

「――良い、月だな」
 少女の言葉通り、今宵の月は確かに見事なものだった。
 冬独特の、青味を帯びた真ん丸い雪色の満月。何処か冷淡なものを感じさせるその光は、普段ならば夜闇に沈むであろう情景の輪郭を、ひっそりと涼しげに醸し出している。そして、その満月を際立たせる藍闇色の空には、幾多もの星々が煌びやかに、しかし下品には映えない程度に慎ましやかな輝きで、ちらちらと瞬いていた。
 有事の際には、思わず見落としてしまいそうな、ささやかな感動――それを肴に、満月の影響で角と尻尾の生えた上白沢慧音は、手に持つ猪口をそっと傾けた。
「ええ、満月と言えば秋が有名ですが、中々どうして。冬だからこその風情がある、今の満月も捨て難い」
 傍らからは、滑らかで女性らしい慧音の声とは、全く別の声が届く。
 声の主――農作業によってバランス良く引き締まった体格をしているその男は、見る者にやや厳つい印象を与える壮年の面を、今は冬の夜空へと向けている。
「それにしても、私なんかとこうして飲んでいて……貴方は、大丈夫なのか?」
「実を言うと、あまり良い声は聞きませんな。特に、血気盛んな若い衆などは『満月の下で妖怪と飲むなど正気か!?』とまで言ってきて……いやはや、散々な言われっぷりでしたよ」
「……本当に良いのか? 貴方としては、自分の組織の足元が揺らぐのは、避けたいところだと思うのだが」
「なあに、放って置いても良いですよ。今はまだ、貴方との酒の席を断ってまで、足場を固める時期では無いですからな。寧ろ、勝手に好きなだけ揺れ動き、そうして厄介な輩を振り落としてくれた方が、私としては非常に有り難い。それに私は、結社の長である以前に、この里で生まれ育った一人の人間。今でこそ、こうして貴方と考えを別ったとは言え……子供の頃から優しく、時に厳しく見守ってくれた『慧音お姉さん』との関係を、蔑ろにはしたくない」
「その呼び方は止めてくれないか。その……どうにも、照れ臭い」
「『三つ子の魂百まで』と、言います。申し訳無いですが、この呼び方はそう簡単には直せませんよ、慧音お姉さん」
「あー……ははっ、参ったな」
 照れ臭げな、それでも確かに嬉しそうな様子で、慧音は朗らかに微笑む。
 だが次に口を開いた時、彼女の赤い瞳に浮かんでいたのは、真摯な感情そのものだった。
「……やはり、考えは改めてくれないか」
「新聞でのインタビューは、少し言い過ぎたのは事実ですが……それでも私は、やはり貴方とは違う方法で、先祖の歴史を探りたいと思っています。この気持ちには、嘘も偽りもありません。迷いは、時に多々あったりもしますけどね」
 猪口に口を沿え、ちびりと一口、舐めるように口内に含む。
 その味を吟味するかのように固く瞼を閉じ、やがてうっそりと開けてから、男は冬の夜空と満月を、再び仰ぎ見た。
「妖怪という存在は、個人的にはとても興味深い対象だと思っています。鳥料理撲滅を目指す、八つ目鰻屋台の夜雀。食料食料と人を襲い、実際には一度も成功していない珍妙な宵闇。人間は襲う対象と公言しながら、何故か私などにインタビューをしてきた天狗の新聞記者……ふふっ。あの外見もあってか、いざ面と向かって話してみると、あまり敵愾心というものが沸いてこない」
「結社の誰かが聞いたら、思わず卒倒しそうな言葉だな」
「精々、若い連中が憤るだけでしょう。インタビューでは一応、彼らの意向も汲んで、あのような物騒な言葉を付け加えましたが……私としては、それよりも先祖の歴史に興味がある。私達を遡った人々が、どんな生活を行い、妖怪との距離はどれくらいのものだったのか。私としては、そちらの方が何十倍も重要なんです」
 そこまで言って、男は猪口の中身を一息に飲み干した。
 絶妙な喉越しに感極まったのか、その口からは腹の底から響かせるような声が白い吐息と共に漏れ出し、そのまま冬の夜空へと昇ってゆく。
「……そうか。少し、安心したよ」
 安堵とも、郷愁ともつかない微妙な感情が、慧音の瞳を微かに彩る。
 満月の影響で角と共に生える、絹糸を束ねたかのような白銀色の尻尾を滑らかに揺らしながら、彼女はさらに言葉を続けた。
「ではもう一つ、聞いても良いかな?」
「私が答えられる範囲でなら、喜んで」
「あの新聞に書かれてあった『随分と自分勝手で、人間らしい理由だ』という部分に対して、何やら言いたい事があると小耳に挿んだんだが……是非とも今ここで、それを聞いておきたい」
「ああ、あれですね。下らない事なんですけど、どうしても思うところがありまして……機会があるなら、あの鴉天狗に伝えてもらえませんか?」
 不意に、男の口元が三日月の形に歪む。
 明らかに笑って見せたその顔は、何処か挑発的で、何より人間的なものを感じさせた。
「――随分と自分勝手で、妖怪らしい物言いですね、と」
 たったの、一言。
 しかしそれを聞いた途端、慧音の顔は一瞬だけ呆気に取られ、すぐに疲れたようなものへと変化している。
「……やれやれ。私のような者から見れば、まさに、売り言葉に買い言葉だな」
「ははっ、確かにその通りです。だけど、向こうから一方的に戯言を言われ続けるのは……人間としても妖怪としても、気分の良いものでは無いでしょう?」
「私としては、お互いにもう少し、その物腰を柔らかくしてもらいたい」
「難しいですなぁ……まあ、お約束は出来ませんが、善処はしてみますよ」
「頼む、そうしてくれ。これ以上の厄介事は、流石に眩暈がするよ……」
 眉間を押さえ、呻くように慧音は呟き、大きな溜め息をつく。そんな彼女の肩を、男は苦笑いと共にぽふぽふと、軽く叩いた――こっそりとその猪口に、労いの酒を注ぎながら。
 酒にはまだ、幾分かの余裕がある。
 どうやらこの、寒空の下でのささやかな宴会は、まだまだ終わりそうに無いようだ。





 午後十時。

「どうだ参ったか幻想郷縁起を世に送り出せたぞこのぉぉぉ〜!」
「わっ」
「…………むにゃ、むにゃ」
「なんだ寝言でしたか。まったく、寝ている時まで驚かさないで下さいよ、阿求様」
「んぅ、んん〜……平賀、源内かぁ……むにゃら、むにゃ」
「何故に平賀源内?」
 頼り無く揺れる蝋燭の灯り以外には、周囲を照らす物が一切無い、暗く簡素な一室。
 その部屋の主であり、邸自体の主でもある稗田阿求は、相当に疲労が溜まっていたのか、文机に突っ伏した状態ですやすやと眠りこけていた。このような体勢で寝てしまっては、本調子で朝を迎えられないだろうに――そう考えたのは、この邸に雇われる使用人の内の、一人の女性である。
 彼女は阿求の為を思い、幸せそうに眠るその寝顔をなるべく視界に映さないようにしながら、ともすれば挫けそうになる心を鬼にして、阿求を起こそうとしたのだが――
「出来る……訳が無いわよね、普通」
 結論から言うと、それは失敗に終わった。
 肩か背中を軽く叩き、阿求が起きるのを優しく促す。それが、彼女にはどうしても出来なかったのだ。
「えぇ〜んぎぃ〜」
 しかし、だからと言ってその使用人を一方的に攻めるのは、あまりにも酷な話だっただろう。
 幻想郷縁起の執筆。
 大役、と呼んでも過言では無いこの役目を、阿求は先日、見事に完遂してみせたのだ。それまでの道のりは、まさに、山在り谷在り弾幕在り。まだ年齢的に幼い身でありながら、よく耐え抜いたものである。その度重なった心労と過労によって、着の身着のままで意図せずに寝てしまうのも、当然と言えば当然。
「うふふぅ〜……縁起、やっと完成ねぇ……皆にも是非、見て、欲しいわぁ……」
 そしてそれは、どうやら阿求自身も感じているらしい。限り無く自我の薄いであろう寝言にも拘らず、繰り返される言葉はそのほとんどが幻想郷縁起の完成に関する事ばかり。そこに含まれる響きにも、明らかに自信と喜びが染み出ている。おまけに、表情に至っては外見年齢相応に緩みっぱなしで、見ていて大変に心持ちが良い。
 これでは、起こす方が可哀想にも思えてくる。仕方が無いのでその使用人は、うつ伏せで眠る阿求の背に厚手の毛布を被せる事だけで、妥協した。
「……あら?」
 不意に、阿求が突っ伏す文机の上に、一枚の紙を垣間見る。
 阿求の肘と顔の間から覗くその紙には、此処からでは良く見えない、何かが書かれてあった。
 どうやら、まだ何かを書くつもりらしい。それは、誰かからの新たな依頼か。或いは、阿求自身が自分の意思で書き連ねる簡素な想いか。
「…………」
 今は、まだ分からない。もしかしたら、使用人に過ぎない彼女では、一生分かる事の無い物かも知れない。
 だけど……そんな事はこの際、どうでも良いのだろう、と思う事にする。
 小さな邸の主の、背に掛かる毛布。それを少しだけ、整え直しながら。
「――頑張って下さいね、阿求様」
 彼女は静かに、呟いた。

「むにゃむにゃ……平賀源内なのねぇ」
「だから何故に平賀源内?」





 午後十二時・午前零時。

 厳しい冬の寒さと濃密な夜の闇に覆われた、森の中。
 正体不明の、奇怪な鳴き叫び声が木霊するそんな最中を、選りにも選って行灯も無しに、歩を進める人影が一つ。ともすれば、忽ちの内に魑魅魍魎によって襲い掛かられそうなその女性は、しかしながら実際には、周囲の妖怪を圧倒するほどの妖気を滲み出させていた為に、そのような事態に陥る事は無かった。
 尤も、例え彼女がそれだけ妖気を無駄に撒き散らさずとも、その臀部付近から厳かに揺れ生える九尾の金色を見せ付ければ――恐らくは、大抵の妖怪が即座に女性の正体に思い当たり、畏敬と憧憬の念と共に、そそくさと道を譲ったのだろうが。
「ふむ、まだやっているみたいね」 
 そうこうしている内に、女性――八雲藍の足が止まる。何かを見つけたようなその視線の先には、仰々しく『八つ目鰻』と書かれた、揺れ動く紅い提灯。ミスティアの経営する、あの屋台だ。
 炭火の香りが色濃い煙を潜り抜けると、姦しく何かを歌っていた店主が客の来店に気付き、藍へと向き直る。
「あ、いらっしゃい〜。何にします?」
「そうだな……八つ目鰻の焼きと、串揚げを二本ずつ。それと、そこにある日本酒を、まずは一杯だけ頂こうか」
「はいはい、少々お待ち下さいね〜」
 客寄せの為に焼いていた八つ目鰻をむぐむぐと頬張りながら、ミスティアは手際良く調理をしていく。
 じっくりとタレに浸しておき、充分に味の染み渡った鰻を炭火で炙り始めると同時に、別の八つ目鰻を串ごと油へと放り込む。その加減を視線の端でしっかりと確認しながら、コップに日本酒を並々と注ぎ、藍へと手渡した。
「はいお待たせ……それにしても、珍しいわね? いつもは化猫ともう一人の、三人で来るのに」
「紫様は冬眠中で、橙は熟睡中。今この時間に起きているのは、三人の中では私だけでね……たまには、こうして一人でゆっくりと飲みに来るのも、悪くない」
 そう言って、藍はまるで水を飲むかのような軽やかな仕草で、コップの中身を一息に嚥下してしまう。
「――うん、悪くない。御代わりを貰おうかしら」
「はいはい毎度あり〜」
 今夜の客は、どうやら藍一人のようである。
 その為かは分からないが、ミスティアは何処か姦しさを抑えたような声色で、ただ一人の客の申し出に対して快く応じた。
 空いたコップを受け取ると、耳の羽をリズム良く小刻みに羽ばたかせながら、再び酒を並々と注ぐ。
「お待ちどうさま、お酒の御代わりよ〜……串揚げと焼き八つ目鰻は、もうちょっとだけ待って頂戴ね。後少しで、出来上がると思うから」
「ああ、分かった」
 受け取った日本酒を、今度は一息に飲み干さずにちびりと一口だけ舐めながら、藍は満足気な溜め息をつく。それを横目で見たミスティアは、最後の微妙な焼き加減と揚げ加減を確認する為に、そちらへと意識を向けた。
 時刻は、今日と明日の境界――或いは、昨日と今日の境界。
 今は恐らく、自宅で惰眠を貪っているであろう主の、お世辞にも人が良いとは言えない微笑みを脳裏に描きながら、九尾の式神は静かに呟いた。

「お疲れ様です、紫様」





 なんでもなく、なんでもある。
 そんな、一日。




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