要するに、彼女は油断していたのだ。 まわりに気を張る必要のない、自分の家だったからこそ。 その日は良い天気だった。 肌を撫ぜる風はささやかな寒さを運び、澄んだ水色の空に浮かぶ太陽はじんわりと温もりを注いでくる。その相反するふたつが合わさり、なんとも中途半端で気持ちの緩むような気候を、造りだしていた。 季節は秋の中頃。 春の陽気とよく似た、それでいて決定的に何かが違うその日は、おおよその生き物たちにとって、とても過ごしやすいであろう日だった。 現に、小さな神社の巫女は湯飲み片手にうつらうつらと夢心地に首を傾け、人里の御阿礼の子は縁側で寝そべりながら野良猫とじゃれあい、大きな神社の巫女みたいな少女は掃き掃除を中断して一息ついている――決して大きくはない幻想郷の内側は、何処も彼処もがそんな感じだった。 魔法の森でも、その空気は変わらなかった。 陽の光があまり届かない場所とはいえ、そこに漂う空気はほのかな寒さを匂わせており、随所には確かに秋の気配が見て取れた。それは、高温多湿な気候だけでは決して見られない茸だったり、或いは、もう土へと還る準備のできた茶色い葉っぱの集団だったり――魔法の森は、そうやって秋の訪れを伝えていた。 鍵山雛は散歩をしていた。 妖怪の山付近を主な根城とするこの厄神様は、巫女と魔法使いとがかなり強引に山へと押し入ってきたその日から、徐々にその活動範囲を広めていた。 後悔すると忠告したのに、それどころかあの勝手に居着いていた山の神様と決着をつけてしまった人間――そんな人間の住む麓に、単純に興味を抱いたからだ。この魔法の森に入るのも、今日が初めてのことだった。 落ち葉の積もった土の上を、なるべく優しい力加減で踏みながら、ゆらりゆらりと歩く。一歩踏み出すたびに、ぎゅっぎゅっ、という可愛らしい音が耳をくすぐる。 それがなんだか無性に、おかしいような楽しいような気がしてきて、雛はくるりとステップを踏んだ。自然と口元が緩み、白い前歯がちらりと覗く。 木々の間に、ちらりと何かが見えた。 優しい色合いをした緑の瞳に、この日初めての疑問の色が浮かぶ。こんな辺鄙な場所に――妖怪の山付近に住む彼女が、言えた義理ではないのだが――家らしきものが見えたからだ。眉間に皺を寄せて、近づいてみる。 やはり家だった。小奇麗な洋館である。 近くの窓から中を覗いてみるが、人の姿は見当たらない。 しかし、クモの巣や積もった埃も見られないことから、ここが空き家ではないことは雛にも分かった。棚の至るところに人形が飾られていることから、恐らくは女性が住んでいる、ということも。 同時に、また疑問が浮かぶ。 こんな住み難そうな場所にわざわざ住んでいるのは、一体どんな人間、或いは妖怪なのだろうか、と。 疑問は、好奇へと移り変わる。 顎に指を沿えて瞳を悪戯っぽく細めながら、雛はにやりと微笑んだ。 こっそり、家の中を探索しようと思ったからである。 主が留守ならこれ幸い、写真なり何なりで確かめてしまえば良い。仮に居たとしても、こんな、いつ妖怪に襲われてもおかしくないような場所に住んでいるほど、肝の据わった輩だ、少々のことは笑って済ましてくれるだろう――いかにも子供っぽい都合の良い考えに、雛は名案だとでも言いたそうな顔で何度か頷く。 私は厄神、でも善は急げ急げ。 そんな訳の分からないことを呟きながら、器用にもブーツで抜き足差し足忍び足を再現し、ドアノブに手をかける。 がちゃりと、忍び込むにしてはやや大きすぎる音を立てながら、鍵山雛は玄関の扉を開いた。 天気が良いから、人里に買い物でもしに行こう。 およそ一般的な常識を持った人間なら誰でも思い浮かべるその考えに、アリス・マーガトロイドは素直に応じることにした。洗面台で髪型を確認し、姿見の前でいつもの服を念入りにチェックして、ひとつため息をつく。 身嗜みは少女の嗜み――宴会で落ち合う連中に、いつも言ってやりたくなるその言葉を思考の奥で繰り返しながら、アリスは玄関へと歩み寄った。編み上げブーツを丁寧に履いて、具合を確かめる。 都会派を自負する彼女にとって、人の目を気にするのは至極当然のことである。むしろ、常日頃からまわりを気にし過ぎないあの連中の方がおかしいのだ。それなりに気心の許せる人里とはいえ、冷静でさらりとした態度で赴くことも当たり前なのである。 自分の格好を一通り見つめ、満足げに小さく頷いてから、アリスは玄関の扉を開けようとした。 不意に、違和感を感じた。 思わぬその感覚に、アリスの口がへの字になる。 部屋へ戻ろうかとも考えたが、生憎、編み上げブーツを履いてしまった後である。戻るのには、少々時間が掛かってしまう。 仕方がない。 そう考えたアリスは、ここが自分の家だということもあってか、すぐにそれを行ってしまった。 柔らかな緑髪の少女が扉を開けたのは、そんな時だった。 忍び込んだ側と、忍び込まれた側。その両方ともが、驚きで固まってしまった。 扉を開けた鍵山雛は、まさか玄関に家の主が居るとは思わなかった。 その予想外の出来事に対して、扉を開けたままの体勢で硬直し、眼前を凝視してしまったのだ。 そして、アリス・マーガトロイドは―― まず最初に彼女は、出かける直前になって鼻腔の奥がやたらとムズムズした。 ティッシュかハンカチでも取りに戻ろうかとも考えたが、先程のとおりブーツを履いた直後であり、取りに行こうとすればどうしても時間が掛かってしまう。 だからこそアリスは、埃か何かは分からないがムズムズの原因となる異物を取ろうと思い立ち、そして今に至る。 可愛らしい小鼻が片側に少しだけ歪め上げられ、人差し指が第一間接くらいまで消えており、それにあわせて薄い唇がわずかに引き上げられて白い歯が慎ましく覗いている――そんな、あられもない姿で、アリスは大きく目を見開いていた。 要するに、彼女は油断していたのだ。 まわりに気を張る必要のない、自分の家だったからこそ。 常日頃から冷静沈着な態度を一貫し、おおよそ隙の無い存在だとまわりに知らしめ続ける外の状態=\―そこから大きく開放される、プライベートな空間だったからこそ。 彼女は――アリス・マーガトロイドは油断していたのだ。 アリスは鼻をほじっていた。 |
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