「お嬢様?」 不意に立ち上がった主を訝しがり、咲夜は声をかけた。しかし聞こえていないのか、主――レミリア・スカーレットは、立ち上がった姿勢のまま虚空を見上げて、返事を返さない。 あれから数時間が経ち、結局この日は妹様を追いかける事は止めにした。屋敷の主であるレミリアが「大丈夫」と言ったのだから、たぶん大丈夫なのだろうという結論で。 その後は、いつもと同じように過ごすだけである。否、フランが飛び出したのが昼過ぎだったので、若干レミリアがいつもより早く起きているが。 ……まあそれ以外は、いつもと変わりない。こうやって紅茶を飲んでいるのだって、いつもより数時間早いだけで、別段普段と変化は無い。 目の前の主が、その紅茶の時間に立ち上がって、あまつさえボーっとしている事を除けば、の話だが。 「――楽しそうね、フラン」 「え?」 虚空を見つめるレミリアは何処か嬉しそうな表情をしており、咲夜は主の気が触れたのではないかと少し心配になる。 が、すぐに主の能力を思い出し、思い過ごしだと考えを改めた。 彼女はまた【視た】のだろう、妹の【運命】を。 「あ……ごめんなさい、咲夜」 一瞬の間の後に我に帰り、お茶の時間を中断した事を詫びるとそそくさと席につくレミリア。その顔は、少しだけ赤い。 独り言を呟いた為か、お茶の時間にボーっと突っ立ってしまった為かは定かではないが、照れているのだろうという事は咲夜にも分かった。 しかしそこで、可笑しそうに笑ったりして主を困らせてはならない。 従者はあくまで従者らしく、落ち着き払いながらしっとりと話を進めるべきだろう。特に【完全で瀟洒な従者】である十六夜咲夜なら、尚更だ。 「いえ……さあ、お茶が冷めない内にどうぞ。今日は少し、趣向を変えて淹れてみましたので……」 だから咲夜は優しく柔らかく、ただそう言っただけだった。 ◆◆◆ 突きと、薙ぎ払いと、振り下ろし。 三種類の単調な攻撃は、しかし物凄い速度と圧倒的な破壊力で迫ってきた。 それを紙一重で避け続けながら、風見幽香は幾度と無く反撃を試みる。指をはじき向日葵達を呼び出しては、炎の剣を振るい続ける悪魔の妹へ押し付ける。 しかしそれも、全く意味を為さない。 「――アハハハハァ!」 本当に楽しそうな笑い声と共に、炎の剣が縦横無尽に辺りを舐め回す。 一撃、二撃、三撃。 たったそれだけで、百はあったはずの向日葵達が切り裂かれ、焼き尽くされ、灰燼へと帰す。 それを見ても、幽香の表情は変わらない。何故なら、もう何回も見せ付けられて見飽きたからだ。 炎と花とではまず、自然の摂理から言っても分が悪い。おまけに、敵が発動させたあのスペルカード……どうやら、彼女が持っているスペルの中でもかなりの逸品なのだろう。 まず威力が圧倒的である。滲み出すオーラからも容易に想像できたが、まさかこれ程までに破壊に特化した代物だとは……さすがの幽香も、度肝を抜かされた。正直、見かけ倒しという結果も少し考えたのだが、目の前の悪魔の妹さんは、そんな無粋な真似はしなかったようである。 おまけにリーチの長さも頂けないし、なによりあれだけの巨大な炎の剣が、棒切れを振り回すのと変わらない速度で襲い掛かってくるのだ。まさに出鱈目や無茶苦茶も、良いところである。 「まあその方が、私も楽しめるけど、ね!」 喋りながら器用に体を傾けと、彼女の横すれすれを炎の剣が、轟音を上げながら通り過ぎた。 体術は疲れるのであまり好きでは無いし元々得意ではないのだが、この場合は致し方ないだろう。すぐに向日葵達を咲かせて向かわせながら、今度は出来るだけ眼前の敵と距離をとる。 しかしその向日葵達も、今度は炎の剣が通過した空間から発生した無数の炎に、あっという間に蝕まれて消えていった。 言い忘れていたが、【レーヴァティン】の薙ぎ払われた空間からは、ああいった大量の炎が出現する。その為、時たま見せる大振り後の隙にも、その炎に阻まれて決定打を与える事が出来なかった。 妖怪としての身体能力を精一杯に使いながら避け、隙を見て向日葵を叩き込む。今この場で考え付いた即席戦法だったが、効果は先程の通り全く期待できていない。 何せ、咲かせた傍から全て破壊されるのだ。効果が期待できるはずも無い。現にフランは、あの【レーヴァティン】を発動させてから一度も攻撃を受けていない。その服には、大地に埋もれた時に付着した土以外には、汚れや傷らしきものは見られなかった。 「……これは、ちょっと奥の手を使うしかなさそうね」 意味深な言葉を呟きながら、幽香は嘆息する。その表情には、参ったなぁという感じの感情が浮かび上がっていた。 脳裏に浮かぶのは、貧乏神社に遊びに行った時に見つけた一冊の本。巫女曰く、【スキマ妖怪の忘れ物】という本。 ほんの暇つぶし程度に読んだ【外】の本。 その中で見つけた、ひとつの物語。 人間の浅知恵で書き上げられたその物語は、思わず失笑が浮び上がる程に稚拙で矮小な物だったが、それでも幾つか面白い物も見られた。 そしてそれを元に、ほんの戯れ程度で編み出してみた、ひとつのスペル――否、まだそう呼ぶのに値しない程に未完成で滑稽な代物。 この威風堂々にして余裕綽々の風見幽香様が、ちょっとした遊び心で弄くった、対近距離用のスペルもどき。 そんな【出来損ない】を【奥の手】と呼ぶのもどうかとは思ったが、まあそれは気にしないで思考の片隅に放り投げる。そして同時に、思考の片隅に捨ててあったその【出来損ない】を引っ張り出した。 正確には、その【出来損ない】を発動させる為に必要な、プロセスを。 「――っ!」 引きずり出してきた記憶を脳内で反芻しながら、幽香は声無き呼気と共に上体を屈める。 刹那の間を置いて、巨大な熱量が頭上を薙ぎ払うのを肌で感じながら、今度は下半身のバネを利用して横手へと駆け抜けた。 その後を追うように、炎の剣が通り過ぎた空間から無数の炎が押し寄せた。一個一個は極々小さいながらも、その膨大な数により圧倒的な密度となって襲い掛かる。 背後から迫る熱量を肌で感じながら、幽香は後ろも振り向かずに指をはじき、またも向日葵達を呼び出す。 炎に蹂躙されながらも主を守る太陽。それを横目で確認しながら、大妖怪は今度は大地を脚で軽く蹴った。 迎え撃てと、命じながら。 「う、うわわわぁ〜」 驚きながらも、何処か楽しそうに声を上げるのは悪魔の妹。その視線は、自分の足元に釘付けであった。何故なら、彼女の足元から大量の蔦が出現したからだ。それも物凄い速度で成長し、大地を砕き呑み込みながら。 ちなみにそれはヤドリギなのだが、フランはそれを見た事が無いので知らなかったし、知っていても次の行動が変わる事は無い。 「あー、緑が鬱陶しくて面白いわねー」 呑気な声とは裏腹に、その表情は玩具を与えられた子供の様に生き生きとしていた。心無しか、その手に持つ炎の剣も悦びを得たかの様に瞬き揺らめく。 そして我先にと襲い掛かってくる、ヤドリギの群れを愛し気に見つめ。 「ばらばらばいばいー」 言葉と同時に、炎の剣を無造作に振り回した。ぶんぶん、ぶんぶんと。 ただ向かって行っただけのヤドリギにそれを防ぐ術など無く、瞬く間にバラバラの燃えカスにされてしまった。 足元に散らばる灰を見て、少し満足気にフランは微笑む。と、そこで数メートル手前で立っている幽香の姿に気付いた。 佇む大妖怪は、ヤドリギによる奇襲が全く効果が無くても、その表情を変える事は無い。ただ余裕綽々に微笑んでいるだけある。 だって、先程の攻撃はあくまで時間稼ぎなのだから。 フランの注意を、自分から逸らす為だけなのだから。 そしてこれからする行動も、あくまで時間稼ぎ。ただ、それだけにしか過ぎない行為だ。 「――ひとつ、つまらないお話をしてあげる」 妙に落ち着いた態度で、幽香はつらつらと語りだした。神社で見た、下らない【外】の本の物語を。 頭の中での、一旦放り投げてバラバラにしてしまったプロセスを組み立てる為の、ただの時間稼ぎをしだした。 ◆◆◆ 昔々の、とある神様のお話です。 ある所に、最も万人に愛された、美しい神がおりました。 その神が、悪夢を見るようになりました。 心配した母親が、世界中の生物と無生物に、彼を傷つけさせないように約束させました。 だからどんな武器でも、その神を傷つける事は出来なくなりました。 でも、ひとつだけ例外がありました。 たったひとつだけ例外がありました。 それはヤドリギでした。 若すぎたヤドリギだけは、約束が出来なかったのです。 ある日、傷つかなくなった神を祝う為、他の神が彼に様々な物を投げる遊びをやりました。 その中で、ヤドリギの事を知った一人の悪戯好きな神がいました。 悪戯好きの神は、遊びの輪から外されている、一人の目の見えない神に近づきました。 傷つかない神の兄弟でありながら、盲目の為に除け者にされていた神に、悪戯好きの神は言います。 これを投げて、仲間に入れてもらいなさい。 手渡されたのは、一本のヤドリギの枝。 目の見えない神はそれが何か分からないまま、言われるままにヤドリギを、傷つかない神に投げつけました。 約束されていないヤドリギは、傷つかない神を簡単に貫いて殺してしまいました。 めでたしめでたし。 ◆◆◆ 「……変な話ぃ〜。そいつら全員、ただの馬鹿じゃない?」 じっとしながら耳を傾けていたフランだったが、開口一番に、そう吐き捨てた。表情にも口調にも、呆れという感情しか出ていない。 「うふふ、そうよね。馬鹿ばっかりって所は同感よ」 対する幽香も、笑いながら答える。その声に、侮蔑と呆れを混ぜながら。それでも何処か、やはり面白おかしそうな物も含みながら。 「……でもね、ひとつだけ参考になった事があるの」 やがて、幽香がポツリと呟いた。漂わせる威圧感を、若干高めながら。 風も吹いていないのに、あちこちから昇る土煙が慄くかのように揺らめき、周りの空気が重くなったかのような錯覚も覚える。 何気なしに聞いていたフランだったが、目の前の大妖怪の雰囲気の変化に気付き、少しだけ身構える様に体勢を整えた。尤もその表情は、相変わらず嬉しそうで楽しそうだったが。 「へぇー……何なのかしらぁ?」 わざと相手を挑発するかのように、甘ったるい声を上げるフラン。その右の手は、炎の剣をいつでも振り回せるように構え、左の手はいつでもスペルカードを取り出せるように、指をひらひらと動かしている。 対する幽香は、そんなフランの様子を気にもかけて無いかのように、泰然とした態度で口を開く。 「それはね――」 微笑みを一層強くしながら、大妖怪はゆっくりと言った。 カチャリと、手に持った日傘を閉じながら。 「ヤドリギで神が殺せるんだから、悪魔なんて簡単に退けられるって事よ。悪魔の妹さん」 瞬間、風見幽香の持つ日傘が、別の【何か】へと変化した。 メキメキ、メリメリと、植物が一瞬で成長する時の、独特の音色を奏でながら。 「――これはまた、鬱陶しくて面白そうな緑ね」 ソレを見ても、フランの表情や口調は変わらない。先程と全く変わらない楽しそうな笑みで、眼前の敵を睨みつけている。 尤も、その思考や体勢は、即座に対応できるように神経を尖らせていたが。 幽香の手。そこには、先程まで握られていた日傘とは全く別のモノが握られていた。丁度、フランがその手に持つ炎の剣と相対するかの様に、巨大で歪なモノが。 ソレは大地に映る影だけ見れば、フランが構える【レーヴァティン】と大差は無い。 ――あくまで、影だけを見た場合だが。 歪に揺らめくソレは、まさに植物の塊だった。寄り集まり、絡み合い、ひとつの歪で乱雑な深緑の巨剣となって、幽香の手に握り締められている。 肉塊。 植物を生物として捉える者なら、そう思わずにはいられないモノだった。 「これはね……まだ名前も無い、戯れ程度のスペルなのよ」 自慢する風にでもなく、幽香はさらっと言ってのけた。その手に持つ巨大な深緑剣を、まるで重さが感じないかのように持ちながら、肩をすくめてさえ見せる。 一方の深緑は、主の声と行動に合わせるかの様に、ドクンドクンと脈打ちながら揺らめく。その様子は、不気味以外の何物でも無かった。 「だから、手加減出来なくても恨まないでね?」 刹那。フランの視界全体にヤドリギの緑が広がり、彼女へと肉薄してきた。 「――っ!?」 咄嗟の判断で炎の剣をかざして受け止めるが、それでも衝撃を殺しきれずに後ろへ吹き飛ばされる。 「こな、くそっ!」 姉が聞いたら注意しそうな言葉を吐き出しながら、フランは背中の翼を羽ばたかせて勢いを消し、地に降り立つ。 そして、吹き飛んだ自分を追って深緑を振りかざした大妖怪に目掛けて、炎の剣を横薙ぎに振るった。 激突しあう紅炎と深緑。触れ合った衝撃波が辺りに散らばり、土煙やら大地の欠片を吹き飛ばす。 ギリギリと歪なモノ同士が噛み合う中で、その主である二人の少女は壮絶な笑みを浮かべる。嬉しそうで楽しそうで、身の毛もよだつ程に禍々しい笑みを。 唐突にヤドリギの勢いが増し、炎の剣が後退しだす。どうやら単純な力では、幽香の方に分があるらしい。そう考えたフランは、即座に押しやる力を抜いた。 突然、均衡状態にあった力が無くなり、少しだけ体勢を崩す幽香。その様は、素人から見ても、絶好の機会以外の何物でも無い。 しかしフランは、その場で攻撃を仕掛ける事無く背後へと飛び去る。その背にある、一対の歪な翼を駆使してなるべく距離をとりながら。彼女が攻撃を仕掛けなかった理由、それは次の瞬間で明らかになった。 つい先程までフランの存在した空間に、突然向日葵達が咲き乱れて殺到しだしたのだ。見ると、幽香の深緑を握っていない方の手が、指をはじいた形になっている。どうやら、お得意の【花を操る程度の能力】を発動させたらしい。 しつこく自分へと向かってくる向日葵達に対してフランは、空いている手の平を【きゅーっと】押しただけだ。ただそれだけで、目の前で迷惑に咲いていた向日葵達はバラバラに消える。自分を長年、幽閉させる切っ掛けとなった忌々しい能力だが、こういう場合では役に立つものである。何と言っても、面倒な雑魚は全てこれ一発で片付くのだから。 そんな事を少しだけ考えていたフランだったが、すぐ目の前に迫ってきた深緑を見て、慌てて現実へと思考を引き戻すと再び炎の剣を振るった。 振るい合い、打ち合い、噛み合う、二振りの異形の巨剣。その単調でいて圧倒的な光景は、何処か野生の獣の狩りを思わせたし、何故か子供の遊びも思い起こさせる。 幾ら人間以上の歳月を生きてきた悪魔の妹でも、習ってもいない剣術を披露する事は無理な相談だ。振るわれる炎の剣はパワーや破壊力こそ圧倒的であるが、技量に関しては、全く無いと言ってもいいほどの有様だ。 対する大妖怪の深緑も、似たようなものである。元来のパワーもあって威力こそあるものの、その出鱈目に振るわれる様子から、それを剣術と呼ぶにはあまりに拙い出来である。 そういった意味では、これはまさに遊びだった。そしてその拙さを差し引いても、二人の少女の遊びは物凄い。出鱈目で圧倒的な二本の凶器は、かすめれば大気を切り裂き、大地に打ち付けられればそれを揺るがし、互いに噛み合う時の衝撃波は周りの物を吹き飛ばす。 さらにその凶器だけではなく、彼女達はその能力も遊びの為に使役する。大輪の向日葵達が咲き乱れたと思えば、次の瞬間には跡形も無く消し飛ばされる。かと思いきや、無数の炎が壁となり迫るのを、大地から突き出したヤドリギの蔓が絡めとり呑み込む。 そんな地獄絵図の様な中を、可憐であどけない二人の少女が、舞うように出鱈目に楽しそうに遊びに興じる。 ――中々、現実離れしていて滑稽な光景だった。 「その出来損ないの草の塊、私のコレでも壊れないんだねぇー!」 フランドール・スカーレットは叫ぶ。破壊を伝える炎の剣を、チャンバラごっこの様に振り回しながら。 「貴方のデカブツ火遊び玩具とは、エネルギーの質が違うの、よ!」 風見幽香は叫ぶ。不気味に脈打つヤドリギを、チャンバラごっこの様に振り回しながら。 打ち合い離れ、打ち合い離れ、また打ち合い離される。児戯に等しい太刀筋が、圧倒的な破壊となって打ち合わされる。 「――なるほど、ね」 小さく、相手に聞こえない程に小さく呟きながら、フランは納得いった様に頷いた。 一見すると、ただの植物の塊にしか見えない深緑の巨剣。炎の剣に簡単に焼き尽くされそうなソレは、しかし幾度と無く打ち合っても傷ひとつ付かなかった。 それを少しだけ疑問に感じていたフランだったが、先ほど幽香の放った言葉で合点がいった。 炎の剣の源である破壊のエネルギー。それとは正反対のエネルギーを、あのヤドリギは持っていると言う。恐らく、生きようと足掻くのが最も強い植物らしい力――胎動のエネルギーが。 殺し滅し消し去る破壊の力と真っ向からぶつかる力……産まれ出で生きようと足掻く力。ならばそのエネルギー同士の相殺が起きて当然であろう。 ちょっと頭の片隅にぶら下がっていた疑問が落ちて、フランはやっと安心した。 これで、目の前の遊びに集中出来る。目の前の大妖怪と、好きなだけ遊ぶ事が出来る。フランは自分の顔が、嬉しさで緩んでしまうのを止められなかった。否、止められるはずが無かった、と言った方が正しい。 だって仕方がないだろう? こんなにも、楽しいのだから。 飛び掛る勢いもそのままに、フランは炎の剣を薙ぎ払う。胸の悪くなる様な轟音と共に迫るそれを、幽香は地面ギリギリまで屈み込んで避け、若干不安定な体勢から刺突を繰り出した。 風音を上げながら肉薄する深緑を、無理矢理に体を傾けて回避するフラン。その柔らかい頬に、かすめたヤドリギが一筋の傷をつける。 そこから少量の血が流れ落ちるのを置き去りにしながら、フランは幽香との距離を一気に詰め寄った。その何も握っていない左手を、ぐーの形に握り締めて。 少しだけ間を置いて、肉の弾ける音が響くと同時に、幽香が吹き飛ばされる。その優雅ながらもあどけなさの残る顔に、少しだけ痣をつけながら。 たった今、眼前の敵を殴り、嬉しそうに顔を歪める悪魔の妹。同じ少女の、それも顔を殴ったという後悔は、その表情に全く浮かび上がってない。そしてさらに、一片の躊躇も見せずに再び攻撃を仕掛けようと飛び掛る。 しかし、足元から突き出した蔓によって脚を絡め取られ、一瞬だけ動きを封じられてしまう。 「――ああもう! 邪魔ぁ!」 水を差されたことによってかなり気分を害したフランは、憎々しげに空いた手で蔓を引き千切った。視線を、足元に落としながら。 その為、眼前に迫っている大妖怪の存在に気付くのが、ほんの少しだけ遅れてしまった。戦いとも言えるこの遊びの中でその隙は、あまりにも大き過ぎたと感じ取りながら。 頭上から迫る深緑を、からくも炎の剣で受け止める。あれだけの隙でこれだけ対応できたのは、僥倖以外の何物でもない。自分の反応にフランは、少しだけ感謝した。 しかしその後の行動は、さすがに予想出来なかった。不意に、受け止めた深緑に込められた力が無くなってしまったのだ。予想も出来なかった行動に、フランは大きく体勢を崩す。 そこへ眼前まで迫る、風見幽香。ちょっとだけ片頬を腫らしたその顔が、ニヤリと笑う。 ――フランは気付かなかったが、幽香の目には少しだけ涙が滲んでいた。よくよく見ると、痛さを堪えるかの様に微妙に口元が強張っても見えた。 尤も、弱い部分を見せる事を極力嫌う幽香は、それが頬を殴られた痛みによる物だと悟られないように、ほとんど表情には出さないよう努力していたが。 「お返しよ」 静かに、しかしはっきりと紡いだその言葉を、フランはよく聞き取ることが出来なかった。何故なら、そのお腹に思いっきり蹴りを食らったから。 ただの何気ない、しかし妖怪としての身体能力を活かした強烈な蹴りに、お世辞にもウェイトがあるとは言えないフランの体は、軽々と吹っ飛ばされてしまった。 そしてその、手加減無しの衝撃で吹っ飛ばされながらも、何とか体勢を立て直して受け身をとるフラン。じわじわと湧き上がる痛みに涙が滲むが、何とかぐっと堪えながら敵を睨みつけた。 「……痛いじゃない」 「あら、さっきのだって痛かったわ」 愚痴をこぼすかの様にムッとしたフランに対し、にべもなく幽香は答えた。しばらく無言で睨み合う二人の間に、少しだけ殺伐とした空気が漂いはじめる。 だが不意に表情を緩めると、またお互いに身構えた。 二人には分かるのだ。文句など、遊びの中で言えば良いのだと。だから、さっさと再開するべきだと。 よく似た笑みを浮かべながら、二人は同時に飛び掛った。その手に握り締めた得物を、再び振りかぶりながら。 ◆◆◆ その後も、二人の少女の遊びは続いた。 物騒で激しいながらも、稚拙で陽気な遊びは続いた。 悪魔の妹は、そんな雰囲気に呑まれてついついスペルカードをばんばん宣言する。 後先や配置など、全く考えずに。 四人に分裂したかと思えば、網目の様に複雑に絡んだ光で閉じ込める。 炎の壁で迷路を創り出したかと思えば、その迷路自体を突き破る巨大な二つの時計を召喚する。 ひどく乱雑で、ひどく心に純粋なその行動を、大妖怪は同じ様に嬉々として迎え撃つ。 スペルカードの様な面倒で手順の掛かる物を嫌う彼女は、その圧倒的なパワーで答えた。 四人の悪魔の妹を深緑の一振りで掻き消し、絡み付いて纏わり付く光は無理矢理に引き千切る。 端から迷う気など無い迷路は傷付きながら突き抜け、巨大な二つの時計は衝撃を受けながらもそれぞれ片手で制し砕く。 そして隙を見ては悪魔の妹に一撃を叩き込み、また反撃を食らって……それの繰り返しだ。 そんな遊びはしばらく続いた。 よく飽きないなと思うくらい、しばらく続いた。 ◆◆◆ 最早、何度目かも分からない、巨剣と巨剣が打ち合い噛み合う音が響く。 ギリギリと歪なモノを押し付けあう二人の少女の外見は、どちらもかなり酷いものだ。まさにボロボロ、という表現がしっくりとくる。 しかしそんな状態の身体と服装でも、表情だけはまったく違っていた。生き生きと、そして嬉々とした顔で、相手を睨みつけて微笑み返している。 やがて、磁力が反発するかの様に離れる二人。人間では考えられない程の跳躍力を見せながら後方に跳び、ふわりと着地する。 動きを止め、静かにお互いを見つめ合う、フランドール・スカーレットと風見幽香。先程までとは打って変わった場の雰囲気に、耳が痛くなりそうな感じを覚える。 無言の威圧の空気。その中で先に口を開いたのは、幽香だった。 「……後、どれくらいが限界?」 柔らかい口調で尋ねる彼女の顔は、先程の笑みとは違いとても和やかなものだった。 「……これ一発、ってところねぇ」 対するフランの口調も、何処か柔らかい。その手からいつの間にか炎の剣は消えており、代わりに一枚のスペルカードが握られていた。 彼女が【これ】と言った物は、恐らくその手にある符の事なのだろう。 「あら奇遇ね。私もこれ一発が限界」 言葉と同時に、幽香が手にした物。それも一枚のスペルカードだった。別段見せ付ける訳でもなく、ただそこに握っている。 余談だが、彼女が握っていた深緑もその手から消えており、今はいつもの様に日傘を持っているだけだった。 「じゃ、これで終わらせるー?」 不敵な笑みを浮かべながらフランは言った。ひらひらとその手に持つ符を弄びながら、心底可笑しそうに。 「うふふ、いいわよ」 余裕綽々な態度で幽香は言った。その手に握られた符で口元を隠しながら、心底可笑しそうに。 静かに笑みを浮かべながら対峙する、二人の少女。辺りは時間の経過によって薄闇に覆われ始めていた。 遊びの残滓が残る荒れた大地を、闇と威圧がじんじんと塗り潰していく。しかし塗り潰されていく二つの影は、それでもまったく動かない。 張り詰めた糸の様に、ただじっとして動かない。 きっかけが何だったかは分からない。 吹き付けた一陣の風か、何かが動いた物音だったか、あるいはもっと別の何かか……それは結局、分からない。 兎に角、そのきっかけと共に少女達は同時に動いた。 【QED「495年の波紋」】 【幻想「花鳥風月、嘯風弄月」】 そして同時に、スペルカードを宣言した。 笑顔で、快活に、威風堂々と、宣言した。 この日のこの時間、幻想郷はちょっとだけ、揺れた。 尤も、その揺れは余りに微細なものだったので、それに気付いた者はほとんど居なかったそうだが。 ◆◆◆ パタパタと背に生えた、蝙蝠を思わせる黒い一対の翼を羽ばたかせながら、レミリア・スカーレットはうんっと背伸びをした。 その隣には、毅然と優雅に佇んでいる十六夜咲夜の姿もある。 紅魔館の玄関ホールで二人は、今まさにこれから外出しようとしていたのだ。 昼頃に突然壁をぶち破って、何処かへと飛んでいってしまった、悪魔の妹を探しに行くために。 「……場所はここ。数時間前からほとんど動いてないから、今行っても居ると思うわよ」 別段不機嫌でもないのに、半眼になりながら淡々とパチュリー・ノーレッジは説明した。彼女が差し出した手には、昼間に見せた一冊の本。 そこに載っているのは、今は全く動いていない赤い点と、そこから紅魔館への簡単な案内地図だ。 「ありがとうございます、パチュリー様」 穏やかにお礼を言う咲夜に対し、パチュリーは少しだけ口元を綻ばせる。 一方のレミリアはというと、今はまた別の二人とお話しをしていた。 「それにしても、お嬢様も一緒にお迎えに行くなんて……珍しいですね〜」 少しだけ興味あり気に聞いてきたのは、この紅魔館の門番を勤める【華人小娘】紅美鈴。普段は門番として扉の外へ出ている彼女も今は、守る館の主の外出と聞いてお見送りに来ているのだ。 その隣では、言葉を発さずに少し気恥ずかしそうにコクコクと頷いている少女。どうやら美鈴の言葉に対して、肯定の意味で頷いたようである。パチュリーの図書館での補佐役として働いている彼女――小悪魔も、パチュリーと一緒にお見送りに来ていた。 「たまには、ね」 美鈴の言葉に対し、悪戯っぽく微笑みながら答えるレミリア。あどけなさの残るその表情から、彼女が五百年の時を重ねる吸血鬼だと想像するのは、なかなかに難しい事だろう。 「……ではお嬢様、行きましょうか」 「ええ、そうね」 咲夜が静かに問い掛けに、レミリアは笑顔で答える。 二人の会話はそれで充分。後は外に出て妹様を探しに行くだけだ。幸い、時間の経過で外は薄闇に覆われている為、わざわざ日傘を持参する必要も無い。 「後の事は、私にまっかせてください!」 満面の笑顔と共に元気良く言い放ち、胸をドンっと叩く紅魔館の門番。何故だか分からないが、相当張り切っているのが傍目から見てもよく分かった。 そんな得意気な美鈴を尻目に、パチュリーは溜め息と共に呟く。わざと門番に聞こえるような声で。 「ま、貴方がやられても私が結界を張るから、別に良いんだけどね」 「……パ、パチュリーさまぁ」 先程とは一転した、情けない顔で情けない声を上げる美鈴に対し、パチュリーは「冗談よ」という感じに軽く微笑みかける。それでも門番のしょぼくれた顔は変わらずに、いじけた様子でブツブツと何かを呟いていた。尤も、その呟きは余りに小さ過ぎて、何と言っているかは誰にも聞き取られなかったが。 「い、行ってらっしゃい、ませ……」 か細く、しかしはっきりと聞こえる声で見送りの挨拶を言ったのは小悪魔だ。上目遣いで頬を赤く染めながら、照れ臭そうに体をモジモジさせている彼女に対し、レミリアと咲夜は柔らかく微笑み返した。 「じゃあ行ってくるわね……咲夜」 「はい」 言うや否や、二人は紅魔館の扉をくぐって外へと飛び出した。ぐんぐんと速度をあげ、空へと昇っていく。背後に見えていたはずの巨大な紅い屋敷は、既にかなり小さくなってしまっていた。 目の前に広がるのは、昼間の曇天とは一変した、雲ひとつ無い夜空。 無数の星が瞬くその下を【永遠に紅い幼き月】と【完全で瀟洒な従者】は、それなりに速い速度で飛び去っていった。 ちょっと困ったところのある、それでも大事な大事な、妹様の今居る場所へ向かって。 ◆◆◆ 「……生きてる?」 仰向けで荒れ果てた大地に寝そべりながら幽香は、横で同じ様に寝そべっているフランへと声を掛けた。 「何とかー」 答えはすぐに帰ってくる。若干、疲れの混じった声色だったが、それでも聞き取りづらい程に不明瞭では無かった。 「あ、そう」 夜空一面に広がる星をじっと見つめながら、幽香はそう答えただけだった。目だけを動かして横に視線を移すと、フランも同じ様に夜空を見つめている。 遊びに興じていた頃とは違い、嘘の様に遮る物の無い夜空を、二人は並んで寝そべりながらボーっと見ていた。服もボロボロで、おまけにあちこちに傷を負った少女達の姿は、見ていてあまり気持ちの良いものではない。 しかし、その表情だけは別格だ。疲れを惜しげもなく滲み出しながらも、何処か満足そうに口元が綻んでいる顔は、遊び疲れながらも嬉しそうに快活に笑う子供の顔、そのものであった。 そんな子供の様な顔で、黙って星空を見続ける二人。その光景は、何処か儚さを漂わせる程に美しく、そして切ない。 「ひとつ、質問いい?」 不意に横から聞こえた声に幽香が首を傾けて見ると、そこには同じ様に首を傾けてこちらを見つめるフランの顔があった。 その顔に、多少の好奇心を滲ませて、期待するかのように瞳を輝かせながら。 「……どうぞ」 嗜虐心をそそられる光景に何か言ってやろうと思った幽香だったが、そのまま何も思い付く事無く普通に答えてしまう。とてもじゃないが今は、何か皮肉を言ってやれるほどに元気では無かったからだ。 「何で、私が吸血鬼って知っていたの?」 「……一応、紅白巫女とはそれなりの付き合いなのよ」 フランの問い掛けに、言いよどむ事無く簡単に答える幽香。 歪な翼で金髪な吸血鬼で、ちょっと気が触れたところのある悪魔の妹。巫女からはそう聞かされただけだったが、それが目の前の少女だとは対峙してからすぐに分かったのだ。 「あー、なるほど」 そんな簡単な答えでも、納得したかの様に声を上げるフラン。そのまま何事も無かったかの様に黙り込み、また星空をじっと見上げだした。 またしばらく、しんしんと静寂が流れる。 「……ふたつ、質問いいかしら?」 唐突にその静寂を破ったのは、今度は幽香の声だった。先程と同じ様に首を傾けながら、フランの方へと向き直る。 「私はひとつなのに、貴方はふたつなの? 名無しの権兵衛さん?」 「あら、別にいいじゃない」 ちょっとだけムッとした顔で答えたフランに対し、さも当然という顔で幽香は言い放つ。その声色には少しだけ可笑しそうな響きが混じっていた。 「んー……ま、いいか。で、何?」 少しの間、考えるように難しい顔をしていたが、すぐに元の無邪気な顔へと戻るフラン。彼女の顔は、道を聞かれて得意気に案内をする子供のソレとよく似ている。 「まずひとつ。何故、いきなりここを燃やしたのかしら?」 別段、感情を込めずに淡々と幽香は聞く。こことは恐らく、今は荒地であるこの場所、太陽の畑の事を言っているのであろう。 その問い掛けに対して、フランはちょっと呆けた様な表情になってしまった。 「何故って……面白そうだったから、かなぁ?」 「……それだけ?」 「うん、それだけー」 さも当然、という風に答えたフランに対して、幽香は呆れ一色の溜め息をついただけだ。 そして同時に思った。あの紅白巫女が気が触れてると言うから、どれくらい凄いのかと興味を持っていたが……何て事は無い、これではただの子供ではないか、と。 「……まあいいわ、じゃあふたつめね。貴方は吸血鬼なのに、何で昼間から外に出て平気なのかしら?」 多少の眩暈を覚えながらも幽香は、再び質問する。これこそが、一番疑問に思っていた事なのだ。 目の前の悪魔の妹。その彼女の姉に当たる吸血鬼も、日傘さえあれば一応昼間でも外に出られるとは聞いたことがある。それに今日は曇りだったので、彼女達の天敵である太陽の光も無い。そう考えれば、こうやってフランと真っ昼間から遊べた事だって多少は納得が出来る。 しかし幽香には――自分でもよく分からないが――何故か納得出来なかったのだ。だからこうやって、目の前の張本人に聞いてみたのである。 「ああ、それね。強いて言うなら気の持ち様、かなぁ?」 ちょっとだけ悩む様な仕草を見せながら、フランは言った。その表情には、自分でもよく分からないけど説明はしてみる、という感情がよく現れている。 「気の持ち様?」 「そ、気の持ち様。例えばあいつは、日傘を使えば昼間は出歩けるけど、無かったら出歩けないって言ってるでしょう? でも傍から見れば、絶対に日傘なんて意味が無いと思うはずよ。だってあんな小さい日傘だと、歩いている内に何処か体の一部に日光が当たっちゃうはずでしょうー?」 訝しげに問い掛ける幽香に対して、フランは【あいつ】と例を挙げながら説明していく。いきなり出た【あいつ】という単語に幽香は少し疑問を覚えたが、話を聞いていく内にそれが誰かはすぐ分かった。 そして同時に、自分の姉を【あいつ】呼ばわりしていいのかなー、とも思ったが、面白い考察を遮るのも気が引けたので黙っている事にした。 「つまり、気分の問題かしら」 「そうも言えるわね。あいつが日傘を使って昼間に歩けるのだって、『日傘を使えば日光当たらない』って思い込んでいるだけだと思うのよ。私が今日出かけれたのも『曇りで日光当たらないから』って思っていたからだしー」 何でもない風に自分なりの考えを述べるフラン。それを聞いても幽香は何処か納得できないところもあったが、口を挟むことは結局無かった。色々と疑問視する部分はあったのだが、当人がこうやって説明しているのだからそれで良いだろうという、訳も無く納得した部分もあったからだ。 「なるほど」 だから幽香は、そうやって答えただけだ。色々と考えるのは元々あまり好きではないし、何より今はかなり疲れている。正直、意味も無い事をつらつらと考えれるほど、今の自分には気力も精神力も無かった。 「……ところで、お姉さんの事をあいつなんて呼んじゃっていいのかしら?」 ふと思い付いた疑問を幽香は、少しだけ意地悪な笑みを浮かべながら、目の前の悪魔の妹に投げかけてみた。 一方の投げかけられたフランはというと、悪戯っぽい笑みを浮かべながら答えようとする。 「ああ、別にあいつでいいのよ。だって、あいつったらこの前も――」 「こらこら、お姉様をあいつ呼ばわりしないの」 だが突然、明後日の方向から聞こえた言葉に、フランの言葉は遮られた。そして二人は、その声のした方向へと首を傾けて、視線を移す。 そこには今まさに、妹から【あいつ】呼ばわりされていた姉、レミリア・スカーレットが静かに佇んでいた。そしてその隣には彼女の従者、十六夜咲夜の姿もある。 「あら、お姉様」 突如現れた二人の姿を見ても全く動じず、あまつさえ全く悪びれもせずにフランは笑顔を浮かべた。そんな様子を見て幽香は、何とも調子の良いものだなぁ、とも思ったが、やっぱり何も言わなかった。 「……随分、派手にやったのね。フラン」 一方のレミリアはというと、幽香にはまったく視線を向けずに、寝そべっている妹へと歩いていく。 先程まで【あいつ】呼ばわりされていたにも関わらず、その声も視線も表情も、何処か包み込む様な優しさで溢れていた。 「楽しかったわよぉー。今度、お姉様も一緒にどう?」 無邪気に微笑みながら自慢気に話しかけるフラン。 その表情だけ見れば、先程までの遊びがどんな物だったのか……彼女の事を知らない者ならば、恐らく想像もつかないだろう。 「考えておくわ、それより……」 そんな妹の嬉しそうな言葉に、姉はそう返しただけだった。そして尚も言葉を続けながら、妹の傍へと静かに歩み寄る。 「帰るわよ、フラン」 「……わ! お、お姉様!」 言葉と同時にレミリアの起こした行動に、驚きと恥ずかしさの混ざる声をあげるフラン。その頬は見る見る赤くなり、目の前の姉へと戸惑いと驚きの視線を投げかけている。 彼女は、レミリアに抱きかかえられていた。それもいわゆる、【お姫様だっこ】で。 「たまには、ね」 「お姉様……」 尚も戸惑いながらうろたえていたフランだったが、レミリアの優しい微笑みと言葉に動きを止める。そして気恥ずかし気に微笑み返すと、後は姉に身をゆだねるかの様に大人しくなった。 「ありがとう、お姉様」 甘えるかのように、小さく小さく呟く悪魔の妹。その顔は、安らぎを得た安堵感でとても幸せそうだった。 やがて数秒も経たない内に、レミリアの腕の中から静かな寝息が聞こえてくる。どうやら遊びつかれたフランが、あまりの心地良さに我慢出来ずに寝てしまったらしい。 「……咲夜、私達は先に帰っているわ……貴方は少し、後からついて来て」 自分の腕の中で眠る、あどけない妹の寝顔を愛し気に見詰めながら、レミリアはなるべく声量を抑えながら静かに言った。 その背に生える一対の夜の翼を、これもなるべく音を発生させない様に注意深く、ゆっくりと羽ばたかせながら。 「分かりました」 それに対して咲夜は、一片の疑問も見せずに毅然と答える。ちらりとレミリアは、それを横目で見ただけで後は何も言わない。 彼女達の間の意思の疎通は、それだけで充分の様だった。 「――感謝するわ」 最後にそれだけを言って、レミリアはやっと幽香の方を見る。一瞬だけ、大妖怪と吸血鬼の視線が交錯した。 だがそれも束の間の出来事。吸血鬼は視線をすぐに外すと、その答えを聞く前に夜の星の海へと飛び去っていってしまった。 静かに、しかし速く。星の海を泳ぐ様に彼女は飛んでいく。 後に残された大妖怪は、交錯した時に見た瞳の残滓を見つめる様に、静かにその影を眺めていた 「どういたしまして」 そして既に、遠くへと飛んで行ってしまった二人の吸血鬼へと、幽香は静かにそれだけを返した。 尤も、それを聞き取れたのはその場に佇んでいる、悪魔の従者だけだったが。 ◆◆◆ 「――では、私もこれで失礼しますわ」 無言に支配されていた元太陽の畑に、静かな声が響いた。声の主は、メイド服を着た悪魔の従者、十六夜咲夜その人。その毅然とした態度は、瀟洒以外の何物でも無かった。 「……何か、言うべき事を忘れていない?」 若干、不機嫌そうに答えたのは、寝そべっている大妖怪、風見幽香。疲れから体を余り動かせないので、目だけを動かしてメイド服を睨み付ける。 「? 何の事でしょうか?」 そんな並大抵の妖怪なら一瞬で怯んでしまいそうな睨みを向けられても、咲夜は自然に呆けて見せた。何とも、豪胆なものである。 その態度に幽香のこめかみがピクリと動くが、対する咲夜は「?」という表情を浮かべたままだ。どうやら、本当に分からないらしい。 余談だが、十六夜咲夜という人間は、吸血鬼であるレミリアから【完全で瀟洒な従者】と称えられる程に、全てにおいて完璧で余念が無い。 だがそんな彼女も、時たまに抜けた部分がある。それは本当にごく稀なので、あまりそういった一面を見掛ける事は無いのだが……兎に角、彼女にだってそういう一面はあるのだ。 あるいは、そういった【抜けた一面】があるからこそ、彼女は【完全で瀟洒な従者】と褒め称えられるのかもしれない。 余念無く完全な者というのは、真の意味では完全ではないのかもしれない……だからこそ、完璧ながらも稀に抜けるところのある十六夜咲夜は、真の意味で【完全で瀟洒な従者】と言われるのかもしれない。 「……まあ、私も楽しかったから別にいいわ」 何処か納得のいかない幽香だったが、目の前の相手が本当に分かって無いのだったら仕方が無い。不毛な言い争いは疲れるだけなので、ここは大人しく退く事にした。 「? では、私はこれで――」 「ちょっと、伝言を頼まれてくれない?」 だから、咲夜が何かを言おうとした矢先にその言葉を妨害する事にした。ムシャクシャした気分を晴らすには、やはり誰かをからかうのが一番なのである。大妖怪である、風見幽香に関しては特に、だ。 案の定、目の前のメイド服は一瞬だけムッとした顔になったので、幽香も少しだけ気が晴れた。 「……内容にも、よりますわよ?」 だがそこは【完全で瀟洒な従者】すぐに事務的な笑顔になると、極力感情を抑えながら問い掛ける。 多少、口元が無理しているかのように引きつっているのが分かったが、幽香はそれをワザと無視してやった。 「私の名前、妹さんに伝えてくれるかしら? もう名無しの権兵衛って呼ばれるのは嫌だからね……後は、今度はもっと苛めてあげるとも伝えておいてあげて」 くすくすと悪戯っぽい、先程まで遊んでいた悪魔の妹と、とてもよく似た笑みを浮かべる幽香。 その顔は、今日この場所で遊んだ事を思い出して楽しんでいる様にも見えたし、これから未来の何処かで遊ぶ事への楽しみを思い浮かべている様にも見えた。 「……分かりましたわ」 対して悪魔の従者は、事務的な微笑みを崩さないまま、淡々とそう答えただけだった。 そしてもう話は済んだだろうとばかりに飛び立つと、そのまま二人の悪魔の後を追うように飛び去っていった。 再び、辺りに静けさが漂い始める。 後に残されたのは、荒れた大地に投げ出すように身を預ける、大妖怪だけ。大の字に寝そべりながら目だけを動かすと、見えるのは夜の星の海。 そんな物悲しくも賑やかだった場所で、幽香は満足気に一言だけ、呟いた。 「あーあ、楽しかった」 感嘆詞と合わない言葉は、静けさに呑まれて静かに夜空へ昇っていった。 後日、宴会場となった博麗神社で偶然再会した二人。 そこでいきなり【遊び】を始め出し、辺り一帯がとんでもない被害を被るのだが、それはまた別のお話である。 |
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