私の箱、貴方の箱、誰かの箱。




 貴方が『箱』と言われて思い浮かべるのは、一体何ですか?




「『箱』……そうねぇ。やっぱり、これかしら」
 ほんの少しだけ眉根を寄せながら、アリス・マーガトロイドは懐から一つの箱を差し出した。
 手の平よりも一回りほど小さいその箱は、沈むような深緑のみで彩られており、自称都会派の魔法使いを名乗る彼女の私物にしては、些か似つかわしくない代物である。
 良く言えば質素、悪く言えば地味。
 鳥も飛び立つような空色を基調とした、明るく清楚な印象を受けるアリスの服装からは、どうしても際立って見えてしまう。
「地味な色でしょ? 私も初めて見た時は、ちょっとこれはねぇ……とは、思ったんだけど」
 珍しく、はにかむようなぎこちない笑みを口元に湛えながら、それでもアリスは嬉しそうに囁いた。
 淡く繊細な色合いの金髪が、彼女の動きに合わせて微かに揺れ動く。金細工同士が触れ合って奏でる、煌びやかで澄んだ音色――その幻聴が、すぐにでも耳朶を打ちそうな光景だった。
「だけど、目の前でぼろぼろと泣きながら、震える手でこれを差し出されたら……貴方はそれでも、断れるかしら?」
 言葉と共に小箱の上半分が、慎重な手付きで開けられる。
 その内側は、触れ心地の良さそうな布か何かで覆われていた。
 事あるごとに至る所で目にする、求婚の際に取り出す華やかな指輪。それを保管し、同時にそこはかとなく高級感も漂わせてくれる、指輪専用のシックな小箱――半開きの状態で内側を披露するその外見は、まさにそれと酷似していた。
 これでもし、箱の中身が本当に指輪であったならば。
 恐らくは幻想郷中が、それこそ蜂の巣を突付いたような騒ぎになった事だろう。
 何人かの鴉天狗は喜び勇んで徹夜号外と一緒に己の下着の色を披露してしまい後々に赤面し、かの隙間妖怪は無遠慮に事の顛末を覗きながらこっそりとお祝いの『お外の人形』を置いていったに違いない。或いは、紅白巫女が貴重な緑茶を景気良く吹き出して蒼穹にささやかな虹が迸ったり、箒に跨った黒白魔法使いが驚愕の表情と共に勢い余って自宅の温泉へと『Mr.Driller』を行っていたかも知れない。
 兎にも角にも、異様で熱狂的な雰囲気が、あの『紅い霧事変』のように幻想郷を覆い尽くしてしまうのは、まず間違いなかったと思われる。
 しかし、そんな大異変と呼んでも差し支えない傍迷惑な大騒ぎは、結局、引き起こされる事は無かった。
 何故なら、小さく上質な壇上で鎮座していたのは、指輪とは全くの別物だったのだから。
 その輝きと透明感から察するに、恐らくは水晶とよく似た鉱石で作られたと思われるそれは、一人の小さな女の子の姿を見事に模していた。
 まるで、マスコット人形のように可愛らしくデフォルメされたその人形は、よくよく見れば細部に至るまで、しっかりと細工されている事が窺える。表情の微笑み具合からも、これを作り出した人物がどれだけこのモデルの女の子を愛していたのかが、手に取るように分かっただろう。
 女の子への限り無い愛情と、卓越した非凡な技術。
 それらが絡み合い、生み出された一つの小さな奇跡が、箱の中に鎮座していた。
「これは、おか……母が、作ってくれたのよ。『可愛いアリスちゃんの門出を祝して、私も頑張っちゃうわよ〜!』なんて、いつも以上に明るい笑顔で言い切っちゃってね。意外と頑固な部分もあったから、慣れない徹夜なんかもしちゃって、でも手抜きだけは絶対にしなくて……」
 母親の、そんな姿を思い出しているのだろうか。
 懐かしそうに語るアリスの口調は明るく、同時に確かな柔らかさで溢れていた。普段の、冷静で落ち着いた所業の目立つ彼女にしては、やはり珍しい。恐らくは、それだけ母親との思い出というのが、彼女の内では重要な位置を占めているのだろう。
「その門出の時に、濃い隈の浮かぶ顔で子供みたいにわんわん泣かれても……こっちが、困るだけなのに」
 肩を竦めるアリスの言葉は、内容自体は非常とも思える程に冷たい物だ。
 尤も、微かに浮かぶ照れ臭げな笑みと、声色に滲む暖かな感情のおかげで、その冷たさは見事に中和されていたのだが。
 そんな事実を、まるで気にも留めずに――意図的に、意識しないように振舞っていたのかも知れないが――アリスはその小さな人形を、人差し指でそっとなぞった。
「……私が新しい人形を作る時、これはとても役に立っているわ。これ程までに丁寧に、そして完璧に誰かを模している物は、そう簡単に作り出せる物では無いもの……云わば、私の人形遣いとしての出発点。或いは、雛形と呼んでも、過言ではないかも知れないわね」
 乾いた音が響いた時、既にその箱の蓋は、しっかりと閉じられている。
 顔を上げたアリスの表情には、普段と変わらない物静かな、しかし何かが決定的に違う微笑みが浮かんでいた。それはもしかしたら、上質の琥珀を思わせるその瞳が、何処か活き活きとした輝きを発していたから――なのかも知れない。
「だから、私が真っ先に思い浮かべる『箱』は、これね。俗に言う、宝物って奴かしら? 勿論、実際には中身の方がずっと大事だけれど……それを守る『箱』だって、やっぱり大事なのに変わりは無い。これが無くなったら、新しい保管方法を考えなきゃいけないしね」
 話はこれで終わり。
 そう言わんばかりの視線でこちらを一瞥してから、アリスは最後に柔らかな声で呟いた。
「――こんな感じで、宜しいかしら?」




 貴方が『箱』と言われて思い浮かべるのは、一体何ですか?




「これ、ですね」
 素っ気ない程に、簡素な返答。
 白魚のようなその指が軽やかな音を弾き出した次の瞬間、その手には不自然なまでに自然な挙措と共に、優美なティーカップが握られていた。漂ってくる香りから想像するに、恐らくは紅茶の類だろう――無論、茶葉から抽出したと思われる、真っ当な紅茶の香り、である。
「アフタヌーン……今のような、午後の休憩時間にはピッタリのお茶ですわ」
 慇懃な態度をほんの少しだけ柔らかな物に転じながら、十六夜咲夜は微かに口元を綻ばせた。と同時に、もう片方の手に握られた二つ目のティーカップを、こちらに向かって差し出してくる。
 簡単に礼を言いながら受け取った際に、淹れ立てにしては、やや湯気が薄い事に気が付いた。どうやら、幾分か温めのお湯を使っているらしい。
 成る程。猫舌な、彼女らしい淹れ方である。
「ふぅ」
 ゆっくりと傾けたカップから唇を離し、咲夜は落ち着いたように溜め息をついた。
 その仕草は、艶やかと呼ぶよりは清楚と呼ぶのが相応しく、そして清楚と言うよりは寧ろ、凛々しい印象を見る者に与えるだろう。二つ名にもある『瀟洒』という単語がこうも似つかわしい人物も、やはり珍しい。
「…………」
 特に言葉を交える事も無く、しばらくの間は、カップとソーサーの触れ合う硬質な音だけが部屋に響き渡る。時折、相槌のように溜め息の漏れ出す彼女の横顔は、午後の陽光によって煌びやかに輝くその銀髪も相まって、ただそれだけで一枚の肖像画を思わせる程に美しい物だった。
「……時間の止まった世界。それは、恐らく貴方が想像している以上に、時間の動き続けるこの世界とは全く異なって見える場所なのです」
 やがて、二つのティーカップの中身が無くなるのを見計らっていたかのようなタイミングで、咲夜は口を開き始める。
 言うや否や、最前までは確かに卓上に置かれてあった彼女のティーカップが、まるで最初から何も無かったかのように消え去っていた。ふと見ると、こちら側のティーカップも見当たらない。同じように、何処かへと跡形も無く消え去っていた。
 そう認識した途端、まるで狐に化かされたかのような、筆舌に尽くし難い摩訶不思議な感覚がふつりと浮かび、そして即座に消えていく。
 まあ、それも当然だろう。
 刹那、須臾、清浄――それこそ涅槃寂靜すらも及ばない、完全に黙殺された無音の世界の中で、二つのティーカップは片付けられてしまったのだ。
 得も知れない感覚に捕らわれてしまうのも……いくら既知の事実とは言え、やはり仕方が無い。
「動かない物は相も変わらず動かず、動くべき物も皆一様に動かなくなる。言葉では表し易い、だけど目にする機会は凡そ無いであろうあの世界を、仮に見る事が出来たならば……貴方はまず間違い無く、その光景に圧倒されるでしょうね」
 何かを含んでいるかのような意味深な視線をこちらへと注ぎながら、咲夜はその形の良い薄い唇で言葉を紡ぎ出す。
 どうやら、片付けた二つのティーカップの事は、既に思考の片隅へと追い遣っているらしい。理知的な輝きを放つ瑠璃色の瞳を、まるで神へと啓示を請う教徒のような面持ちでそっと閉じる。
「想像以上ですよ? 時の流れから置き去りにされる、あの世界の感触……自分がまるで、小さな人形の家に迷い込んだかのような、不可思議な感覚。硬質な材質を用いて作り出された無機物で、だけど今にも動き出しそうな程に精巧に模られた、綺麗なだけの美しい箱庭……子供の頃の街角、ガラスのショーケースの向こう側で広がりただ見続ける事しか出来なかった、あの暖かで空虚な団欒……それが今は、私にのみ許された音の無い情景となって、現在も此処に横たわっている。そして、それ故に湧き立つ、この拭えない甘美な満足感……」
 そこまで言って、咲夜は閉じた瞳を再び見開かせながら、こちらへと振り向いた。
「……なんて、ね?」
 先程までの述懐するかのような声色を一変させながら、咲夜は失礼にならない程度の柔らかな仕草で肩を竦める。その顔に浮かぶ微笑みには、ほんの少しの可愛らしい茶目っ気が顔を覗かせていた。
「さて。休憩時間も、もう終わりですし……そろそろ御帰り願えますか? 私は貴方と違って、これから仕事がありますので」
 何時の間にやら取り出したのか、その手には銀色の懐中時計が握られている。鈍い輝きを放ち、律動的に淀み無く時を刻み続けるそれから視線を逸らすと、彼女は再びこちらへと顔を上げた。
 しかし、まだ帰る訳にはいかない。
 先の質問――『箱』について、まだ明確な答えを貰っていないからだ。
「――あら、さっきも言った筈ですわよ?」
 さも意外そうな表情と共に、落ち着いた返答が返って来る。
 声の主は懐中時計を大事そうに懐に忍ばせ、同時に、そこから一枚の符を取り出した。
「これ、だと」
 言葉が紡がれた、次の瞬間。
 最前まで目の前に居た筈の人影は、気が付いた時にはあのティーカップのように跡形も無く消え去っていた。突然の事態に思わず言葉を失い、又もや得も知れない感覚に捕らわれてしまう。
 ぎぃ。
 そんなこちらを他所に、背後で扉の開かれる音が聞こえてきたのは、幾許の間すらも経っていない時だった。半ば誘われるように、それでもなるべくは落ち着いた挙措を心掛けながら、振り返った先。
 そこでドアノブに手を掛けて佇んでいたのは、眼前から鮮やかに消え失せて見せた十六夜咲夜、その人だ。
「又のお越しを、お待ちしております」
 故意か、それとも偶然からか。
【時符「プライベートスクウェア」】
 そう画かれた符がポケットから覗いている事実を気にも留めずに、咲夜は美しく、何より瀟洒に微笑んで見せた。




 貴方が『箱』と言われて思い浮かべるのは、一体何ですか?




「……此処」
 暖かで柔らかそうな巨大なベッドに、古風なアンティークを思わせる衣装ダンス。
 床に広がるのは踝まで沈み込みそうな上質の絨毯であり、そこに所狭しと散らばるのは大小形も様々な可愛らしいヌイグルミや人形達。
 典型的な、上流階級の子供部屋――家具やら日用品やらを見る限りならば、恐らくは誰もがそう思っただろう。或いは、勘の鋭い者ならばヌイグルミや人形の愛らしい作り具合から、此処がまだ幼さの残る、女の子の部屋だと分かったかも知れない。
 抱え切れない人形に囲まれ、両手で精一杯に感情を表現しながら一人で人形遊びに興じる、仕立ての良い服を着飾った愛くるしい色白の少女――成る程、改めてそう思いながら見渡すと、不思議とそういった類の日常の一コマが思い浮かんでくる。
 だとするとこの部屋の内装は、まさにその情景を如実に物語ってくれる、一種の語り部という訳だ。
 ――尤もそれは、あくまで『家具やら日用品やらを見る限り』という、かなり限られた条件下での事だったのだが。
「味気の無い鼠色の壁に、必要以上に頑丈で強固な鋼鉄製の扉。加えて漏れなく、七曜の魔女特製の魔法障壁までオマケとして付いてくる……これじゃあ『箱』って表現も生温いわよね〜。まさに牢獄よ、牢獄」
 木製の椅子に腰掛け、床に届かない足をぷらぷらと振り子運動の法則に委ねながら、部屋の主――フランドール・スカーレットは、何処か不貞腐れたようなぶっきら棒な口調で言ってのけた。心無しかその表情からも、不機嫌そうな色がじくじくと滲み出ているように見える。
 彼女が言った通り、確かに此処はある種の『箱』だった。
 幻想郷の要所としても名高い紅魔館。その最深部――ヴワル魔法図書館とは全くの別ルートで通じる、特別なメイド部隊によって厳重に警備されたこの部屋は、凡そ幼子を育成する環境に適しているとはとても言えない場所である。
 それは外界からも内側からも、一切の干渉を受け付けない事を目的とした、何者かを隔離する為にのみ存在する部屋――もっぱら、何か大事な物、或いは人に知られたくは無い物をひた隠しにする目的での『箱』としてならば、申し分の無い代物だ。
 フランドールの牢獄という物言いも、言い得て妙ではある。
「まあ、最近は割りと自由が利くようになったから良いんだけど……外出時間とかその他諸々の言いつけを守るなら、上の部屋に移動しても良いって言われたのよね。メイドの皆も、それなりには話し掛けてくれるようになったし」
 そのほっそりとした足で相変わらずの振り子運動を続けながら、フランドールは特に感慨らしき物も感じさせないまま、にべも無く言葉を続けた。しかしその内容は、僅か二、三年前まで置かれた彼女の立場からして見れば、劇的な変化と言わずにはいられなかっただろう。
 ありとあらゆるものの破壊。
 この単純にして強大無比な力が、心身共にまだ未熟だったフランドールに宿ってしまった事実。それが、当時のスカーレット一族にとって――何より、フランドール自身にとって幸か不幸かだったのかは、今となっては推し量る術も無い。
 しかし、その力を保有してしまったが故に、彼女が四百九十五年という時をこの部屋でのみ過ごす事となった事実だけを見て取るならば……やはり彼女にとっては、不幸だったと思われる。少なくとも、不遇な状況だったとは言えるだろう。
『肝心な事は、望んだり生きたりする事に飽きない事だ』――ロマン・ロラン。
 人の言葉で吸血鬼の過去を振り返るのも可笑しな話だが、それでもよく耐えられたものだと思う。
 四百九十五年という年月は、やはりどう見積もっても長過ぎる。
 例え身体が耐えたとしても、精神が先に音を上げるのは間違い無い……それこそ、何らかの異常を来たして。
「でも、結局は此処で落ち着いちゃうのよね〜……ほら、よく言うじゃない? 枕が変わったら、途端に寝付けなくなっちゃったって話。たぶん、あれと同じようなものだと思うの。何だかもう、此処で過ごすのに慣れちゃっているのよねぇ」
 背に生える一対の歪な影が、フランドールの言葉に合わせるかのようにゆたりとはためく。
 枯れ木を髣髴とさせる細長くしなやかな質感の黒い器官と、それと結び付く、七色に煌めく宝石のような幾つかの物体――これこそが、フランドールの翼らしい。こんな出鱈目な代物を羽ばたかせて宙を舞うのだから、吸血鬼というのはどうにも度し難い生き物だ。
 尤も、幻想郷にはこれと同じかそれ以上に出鱈目な妖怪が十人十色に存在しており、おまけに人間である筈の巫女までもがふわふわと難なく蒼穹を闊歩しているという、これまた厚顔無恥なまでに出鱈目な事実も存在するのだ。
 今更、吸血鬼の翼程度では驚かない。
「本来は野生に生きる獣も、赤子の時から人の傍で育て続ければ……野生を居場所と定めず、人の傍こそを己の居場所と定めてしまう。案外、それと似ているのかも知れないわねー。今の、私の状況」
 嘆くでも嘲るでもない、それでも何処か面白可笑しそうな響きを孕む声色で、フランドールはころころと笑って見せた。レッドカーバンクルを思わせる真ん丸いその瞳も、今は喜色に彩られたかのようにうっすらと細められている。
 童女――否、幼女そのままの微笑みで、こちらを見つめる小さなその背丈は非常に愛くるしく可愛らしくもあり、同時に、自分の置かれていた状況をまるで他人事のように話すその姿は、限り無い不気味さと得体の知れなさを醸し出している。
 肌へと焼け付くかのような焦燥感を感じるのも、無理は無い。
「……それに」
 しかし、突然その焦燥感を感じさせていた張本人が椅子から降り立ってヌイグルミへと真っ先に駆け寄った時には、それまで漂っていた不気味さ諸々の雰囲気は跡形も無く消え失せている。
 自身の身長と然程変わらない、巨大なヌイグルミに半ば身体を埋めるようにして抱き付きながら、フランドールは喜色一面の笑みで言ってのけた。
「此処に居れば、面倒な事は全部お姉様に任せても大丈夫だしー。夜の星を眺めたり咲夜の紅茶を飲んだり、三日に一回は図書館からパチュリーの本を借りて読んだりして。それで時々、神社の宴会とかに行って弾幕ごっこで遊べたら……私は、それで満足なのよねぇ」
 背に生える歪なその羽が、今度は鈴の鳴るような澄んだ音と共に、一際大きくはためく。
 感情を如実に表現する――そういった点では、姉の背に生えた羽とフランドールの羽は形こそ違えど、本質自体はよく似ているのかも知れない。
「まあ、つまり私の『箱』は此処って事。で、昔の『箱』は牢獄で、今の『箱』は私の居場所。たぶん、それが私の答え……なのかな〜?」
 何故か最後を疑問系で締め括りながら、彼女はようやくヌイグルミから離れた。
 恐らく、こちらがそろそろ帰ろうとしているのを察したのだろう。ご丁寧にも、お見送りの為に傍へと寄って来てくれる。
「――ああ、そうそう」
 不意に、何かを思い出したかのような声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
 思わず声のした方へ視線を移すと、そこには向日葵の咲くような快活で愛らしい笑みを浮かべて行儀良く佇む、フランドールの姿。
「次に来る時は、私と遊ばなきゃ駄目よ? 何の遊びかは、言わなくても分かるわよね〜」
 まるで揶揄するかのように嘯かれた言葉が、軽やかにこちらの耳朶を打つ。
「ちなみに、何時まで経っても貴方が来ない場合は……私の方から、お邪魔しちゃうから」
 多少の癖が残る金髪を朗らかに揺らしながら。
 フランドールはそう言うと、上品ながらも幼さの感じられる仕草で口元を押さえて、可笑しそうに笑った。




 貴方が『箱』と言われて思い浮かべるのは、一体何ですか?




「……どうせ貴方も、私の帽子の事を言いに来たのだろう?」
 開口一番に、実に的を射た言葉が飛び込んで来た。
 紅縞瑪瑙とよく似た色合いのその瞳には、若干の不機嫌さがありありと滲んでいる。
「まったく……言わせて貰うがな。私とて、別に自覚が無い訳ではないのだぞ? 巷では、私の服装判断力や美的感覚に多少の齟齬があるという意見も小耳に挿んでいるし、この帽子が世論的服装意見から見て少々逸脱した意匠だとも理解はしているつもりなんだ……分かったなら、そんな意外そうな顔をしないでくれないか。少し惨めな気分になる」
 質問された当人――上白沢慧音は、まるで積年の鬱憤を吐き出すかのように矢継ぎ早に言い終えると、今度は少しだけ悲しそうな顔となった。
 どうやらその言葉通り、自覚はしているらしい。
 何せ、今この瞬間にも彼女が被っている帽子……と思しき物体は、世間一般的な帽子の類としての範疇を、明らかに超えているからだ。
 その形状は、一般的な帽子のように滑らかな半円を基準とした形状では無く、小物入れと思しき箱型と用途不明の四角錐とを組み合わせた奇妙な多角形型であり、更にその天には鮮やかな赤褐色の布リボンが、求愛雄孔雀の美しく壮大な翼の如き様相で鎮座しているのだ。
 幻想郷に住む人妖の性格、趣味、所持する物品の胡散臭さや奇抜さはそれこそピンからキリまでと存在するが、こうも他の追随を許さない逸品もやはり珍しい。いっその事、敬意を評してこの帽子に名を付けても良いかも知れない――柄にも無く、そんな事まで考えてしまう。
 例えば『孔雀明王、暁の地に立つ』とか。
「誰が『孔雀明王』だ、この与太郎が」
 如何なものかと提案したところ、先方からはあっさりと一蹴されてしまった。中々の妙案だと思ったのだが……
 仕方が無い、話を元に戻そう。
 先に説明した通り、慧音の被る帽子は、明らかに他の帽子とは異なったデザインをしている……とは言え、それだけだったならば別に、ここまで大仰に取り上げる話題でも無かっただろう。
 何故なら此処は、摩訶不思議が堂々と罷り通る異形の地、幻想郷なのだ。不思議が日常であり、同時に隣人でもある。事実、奇抜な帽子を被っている人妖は、目の前の上白沢慧音だけに留まらない。
 月型の装飾品と魔力を高める為のリボンをふんだんに付属した、紫の七曜魔女特製のフリル満開帽子。
 黄色い御札が存在感をアピールし、同時に仲の良い双子山のように二つの天が聳え立つ、九尾の式の耳隠し帽子。
 色濃い蒼と荘厳な金で重厚な雰囲気を高め、更には紅と白のリボン装飾で己の平等さに磨きを加える、被るのが面倒そうな閻魔帽子。
 ざっと思い上げるだけでも、これだけの種類が浮かんで来るのだ。
 上白沢慧音の帽子を取り上げたところで、『何を今更』と思われるかも知れない。
 だが、彼女が被る帽子は、もう一つの奇妙な点がある。今回はその点も含めて、質問をしてみたのだ。
「面白い意見だ。一体、それは何なのかな?」
 その点とは――ずばり、この帽子の不安定さである。
 文字にも表現される通り、帽子とは被る物だ。頭頂部に乗せる物では無い。
 比べて、慧音の帽子はその底面積が、彼女自身の頭頂部に比べてやや小さい物となっている。
 これでは被る物では無く、乗せる物と言わざるを得ないだろう。
 話は少々ずれるが、外の世界では上流階級の社交の場において、奇抜で斬新なデザインの重要視された帽子を着飾るらしい。何時ぞやの隙間妖怪から聞いた話なので、真偽の程は些か不透明なのだが……しかし仮にそれが事実だったとしても、それはあくまで非日常の中であり、社交場という一種の特殊な環境下での出来事に他ならない。つまり日常的に被る帽子とは、一線を画する物だと推察出来るのだ。この点から考えても、慧音が被る帽子とは、やはり意味合いの違う物だと思われる。
 加えて、件の帽子は不自然に高さが長い。目測で測っただけでも、被り手である慧音の顔の縦幅とほぼ変わり無いのが分かる筈だ。
 縦に長く、底が狭い。
 これでは空気抵抗の関係から見ても、飛行どころか普通に歩く事さえ困難なように思えてくる。
 鴉天狗が愛用する、あの角ばった帽子も奇抜と言われれば確かに奇抜だが、あれは帽子と呼ぶよりは寧ろ、装飾品としての意味合いの方が強い。つまりどちらかと言うと、被るよりも付ける感覚に近いのだ。それに縦の長さに比べて底も広く、安定性はまだ信頼が出来る。おまけに顎へと引っ掛ける紐も備わっているので、バランスが崩れて落ちてしまう事はまず無い。
 強いて言うなら、まだ付け慣れていない子供時代や、羽毛が生えたばかりの飛び立てホヤホヤの時――ぐらいだろうか、考えられるのは。
「……成る程、貴方の言いたい事は分かった」
 一頻りの説明を黙って聞いていた慧音だったが、ここにきてようやくその帽子を脱いだ。
 そうして手に持ったそれを引っ繰り返し、徐にとある部分を指差す。
「初めこそ付いてはいなかったんだが、それだと一歩踏み出す度に、被り直さなければならない派目になってしまって……だから、後から付けて貰ったんだ」
 柔らかな微笑みを口の端に湛えながら、彼女は帽子の顎紐を摘んで見せる。
「……それでも中々、安定はしてくれなかったさ。里の皆に会う度に『落ちる落ちる!』と注意されたものだよ……実際、バランスを崩して落としてしまった事も少なくは無い。両手の指で足りない程には、落としただろうな」
 そう言って慧音は手に取った帽子の表面を、まるで慈しむかのように優しく撫でた。
 よくよく見ればその表面には、大小様々な傷跡が無数に付いている。
 鮮やかな色合いの布リボンこそまだ真新しいものの、他の部分は相当に草臥れているのが、ここにきてようやく見て取る事が出来た。
「遠目からでも、誰だか一目で分かるように――この帽子は、そう考えた友人が私に作ってくれた物なんだ。『奇抜で斬新、真面目臭い慧音の顔をユーモアで彩る、素敵で不便利な姿勢矯正帽子!』と、大仰に銘打って、な……嬉しかったよ、誰かからそうして何かを作って貰うのは、これが初めての経験だったからな。おかげで里の皆は、遠目からでも私だと一瞬で見抜けるらしい……そういった理由もあって、私はこれを被っているんだ」
 慧音の口が笑みの形に引き結ばれると同時に、堪え切れなかったかのように押し殺された笑い声がささやかに漏れ出す。
 恐らくは、友人と言ったその人物の事を思い起こしているのだろう。
 帽子を見つめる視線は優しい物であり、口元に浮かぶ笑みには普段のような飾り気が一切感じられない。
「――今はもう、その友人も居ない」
 その呟き自体は、とても静かな物だった。
「彼女も、私より後に生まれて……私より先に、逝ってしまったよ」
 次の瞬間、郷愁とも寂寥ともつかない曖昧な感情が、慧音の顔をうっすらと過る。
 多くの胎動と誕生を見守り、同時に多くの衰退と終焉を見送って来た、半人半妖という特殊な血を引く彼女。先程の曖昧な感情はもしかしたら、そんな彼女の本質とも本音とも呼べるものが、垣間見えた瞬間だったのかも知れない。
 だがそれは、あくまで一瞬の事だった。瞬きを一つ行ったその間には、慧音の表情は普段と変わらない物へと戻っている。
 奇抜なデザインの帽子を慣れた手付きで被り直すと、彼女は力強い声で付け加えた。
「悔しいが、私自身も『箱』と言われて真っ先に思い付くのは、この帽子だ。若干、不本意ではあるものの……確かにこの形状は、何らかの『箱』に見えても仕方が無い。それに彼女なら、憶え易い呼び名だと喜んだ筈だろう。冗談や冗句の好きな、明るい娘だったからな」
 そこまで言って、不意にその表情が柔らかな物から、厳しく険しい物へと転ずる。
「――ただし『孔雀明王』だけは、絶対に言い広めるなよ?」
 剣呑な輝きを放つ赤銅色の瞳が、鋭い視線でこちらを睨み付けていた。




 貴方が『箱』と言われて思い浮かべるのは、一体何ですか?




「やっぱり私は、愛用するこのカメラですね。誰がどう見ても、箱型には間違いありませんし。それに、撮った瞬間の情景を閉じ込める役割もある。何か大事な物を閉じ込めるのは『箱』の、十八番ですから……駄洒落じゃないですよ?」
 珍しく、その足で街道を練り歩く射命丸文の口調は、かなりご機嫌な様子だった。
 取材内容として書き続けていたノートを覗き見ては、その度に嬉しそうな笑みを浮かべる。
「しかし、ただ一括りに『箱』とだけ言っても、皆さん色んな意見をお持ちなんですね〜。面白い記事を書けるかと言えば、正直、かなり微妙なところですけど……取材としては、中々、面白く貴重な体験だったかも知れません」
 時刻は、橙色の夕日が眩しい黄昏時。
 森の中を往く街道は等しく茜色に染め上げられており、それは人並みかそれ以上に感情を刺激される者ならば思わず足を止めずには居られないような、美しい光景だ。
 尤も、実際にはこの場に文以外の人影は、全く見当たらなかったのだが。
「ま、暇潰しには丁度良かったですよ。私としても、それなりには楽しめましたし」
 癖の強いその黒髪が、彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。磨き抜かれたルビーを思わせる赤い瞳は、尽きる事の無い好奇心と傾き続ける陽光によって、活き活きとした輝きを発していた。
「――そういえば、まだ質問をしていない方が居ましたね」
 何か大事な用事を思い出したかのような言葉が聞こえたのは、その時だ。
 先程と変わらず、彼女の周囲には誰も居ない。
 魑魅魍魎の跋扈する幻想郷において、妖魔が活動し始めるこの時間帯は、一種のボーダーラインのような役目を担っているのだ。昼と夜の狭間である黄昏時の間に、人間は安全な居場所へとその身を隠す――余程の非常事態でも無い限り、この『暗黙の了解』が崩れる事は、まず在り得ない。
 だからこそ、黄昏時には集落の外へ出る人間が皆無であり、妖怪もほとんど出歩いては居ないのだ。
「んっふっふ〜……折角、此処まで来たんです。記念だと思って、インタビューくらい答えて下さい」
 にも拘らず、文は形の良いその小鼻を、文字通りにぴくぴくと可愛らしく蠢かせながら、何処か意地の悪い微笑みで何処かを見据えている。
 無論、誰も居ないのだから返事もある訳が無い。少しだけ気の早い鈴虫の涼しげな声だけが、美しい秋の夕暮れに響くだけだ。
「……うん、殊勝な心掛けです。逃げられないなら覚悟しろ、良い言葉ですよね〜。今さっき、私が勝手に作っただけですけど」
 だがそれでも、彼女に落胆の様子は無い。寧ろ、返事の無い事を肯定と受け取ったようだ。
 この場で新しく、それでいて情緒も何も無い格言を捏造した伝統ブン屋は、人を食ったようなその笑みをより一層、強いものへと転じる。
「それでは、質問です」
 誰も居ない、しかし『確実に誰かが居るであろう』場所を見据えながら。
 射命丸文は快活な口調で、一息の内に言ってのけた。




 貴方が『箱』と言われて思い浮かべるのは、一体何ですか?




もどる