それでも妖忌は頑張った



 魂魄妖忌。
 鋼の如き気骨と、神木を思わせる風格を同時に併せ持つ、老練なる侍。
 滲み出る鋭さも色濃いその面構えは、人妖問わず見る者全てに、畏怖と憧憬を瞬時に感じさせるほど。年齢による老いが確かに見て取れるその身体も、しかしながら薄く見事に引き締まっており、緩慢や鈍重などの印象はまるで無い。
 冥界の主、西行寺幽々子の身辺警護を単身で受け持っているのも、これならば納得が出来る――誰もがそう思えるほどに、妖忌は強そうに見えた。なにより、本当に強かった。
 だからこそ、まだ幼かった妖夢にとって、実の祖父でもあった妖忌は、心の底からの憧れの対象だった。
 無口で厳しく、決して優しいとは言えなかった妖忌を、しかし妖夢は確かに尊敬していた。
 強くなって大きくなって、あの背中に並びたい――天頂の陽を遮るほどに大きな後ろ姿を見つめる妖夢は、子供心ながらにもそう決めていた。
 決めてしまうほどに、妖忌が、師匠が好きだった。

 妖忌の姿が白玉楼から消えたのは、本当に突然の事だった。

 何故だか普段より早めに目覚めた妖夢は、枕元に置かれた二振りの刀を見つけてしまう。
 長刀と短刀。
 楼観剣と白楼剣。
 妖忌が普段から、肌身離さず大切に持ち歩いていた、魂魄家の家宝とも言える二振りの業物。
 先祖代々、楼観剣と白楼剣を手渡された魂魄家の者は、魂魄家そのものを受け継ぐ事を意味している――静かな言葉でそう語った、妖忌の厳しい面が脳裏に閃いた瞬間、妖夢は思わず駆け出していた。
 何故かと問われると、実はよく覚えていない。
 ただ、今この場で止まり続けていては、いけないような気がしたのだ。兎に角、一刻も早く妖忌に会わなければと思っていた。
 寝室を飛び出し、庭へと降り立ち、寝間着のままで、裸足のままで。そんな姿で会っても、厳しい一喝を浴びせられるだけなのに。
 嗚呼、こんな速さでは、お師匠様には到底追いつけない――胸の奥から湧き出たその言葉を、妖夢は頑なに押し止めた。押し止めて、でも代わりに瞼から熱いものが滲み出そうになって。朝の涼しげな空気によって、鼻と耳に引っ張られるような痛みが走って。
 それでも、駆け続けるその足だけは、絶対に止めなかった。
 やがて冥界の入口、長い長い階段がようやく見えてきた時、そこに見覚えのある人影を妖夢は見つける。
 大きな背中の、会いたかった妖忌ではない。
 西行寺幽々子。
 祖父にとっても自分にとっても共通の主である彼女が、静かに佇んでいた。
 恐らくは、妖夢がこの場所に来ると分かっていたのだろう。特に慌てる素振りも見せずに、幽々子はいつも通りの足取りでこちらに歩いて来る。
 仮に、妖夢がもう少しでも冷静であったり、或いはもう少しでも未熟で無かったのなら。普段はふよふよと何事にも漂って行動する主が、この時ばかりは自分の足で歩み寄って来ている事実に、違和感を覚えたかも知れない。髪色と同じ、桜のように柔らかな色合いのその瞳が少しだけ寂しそうに揺れているのに、気付いてしまったかも知れない。
 だが生憎、妖夢はそんなに冷静では無かったし、何より、まだまだ未熟者。心身共に真っ直ぐ過ぎる、今日この日から西行寺家の専属庭師となった幼い少女には、主の些細な変化に気付く余裕など、微塵も無かった。
 だからこそ、主である幽々子がすぐ傍まで歩み寄ったにも拘らず、妖夢には何も出来なかった。朝の挨拶も、身なりを整える事も――自分がいつの間にか、あの長刀と短刀を必死に抱え持っていたという事だけしか、妖夢の頭には無かった。
 しかし、それほどまでに失礼無礼な態度に対しても、幽々子は何一つ咎めようとはしなかった。
 ただ普段と変わらない、曖昧な微笑みで、新しく庭師となった小柄な少女を見下ろし――

 優しく、ふわりと抱き締められた――と、思う。


 ◆◆◆


 実を言うと、妖夢はその後の事も、よく覚えてはいないのだ。
 強いて言うなら、自分が周りを気にせずに大声で泣き続けていた事と――柔らかくて、良い匂い。それだけしか記憶に無い。
 だけどそれは、何故だかとても恥ずかしい思い出のような気がしていたので、妖夢はその事を誰にも話してはいなかった。
 勿論、幽々子にも。
「…………」
 手に握る箒の動きが、自然と止まる。
 二振りの業物を託され、新たな庭師となったあの日。あの時の自分は、まだ未熟な子供だった。そして、それは恐らく――今も、あまり変わってはいないのだろう。
 なけなしの春を集めた冬、永い永い秋の夜、春に見えた幻想の百花繚乱。それら全てを通し見てきた、魂魄妖夢という自分は、確かに成長はしているのかも知れない。多いとは言えない、しかし様々な出来事を目の当たりにしてきた自分は、寝間着で庭を駆けたあの日と比べれば、少しは庭師らしくなっているのかも知れない。
「――けど、まだ駄目だ」
 腰に挿した、物々しい風格を醸し出す長刀――楼観剣は、今も尚、ずっしりと重い。
 この刀の重さを丁度良いと感じるようになった時こそが、半人前の自分を脱した時なのだろう。妖夢は、未熟な頭でそう考えている。
 ならばそれは、一体いつになるのだろうか。
 悩みが尽きる事は、まだ無い。
「へぇ〜、随分と考え事にご執心みたいねぇ……珍しい。サボタージュの妖夢が居るわよって、幽々子に言いつけてやろうかしら?」
 聞き覚えのある声が背後から聞こえて来たのは、そんな時だった。
 慌てて妖夢が振り返ると、そこには幽々子の奇知の友人――否、既知の友人である妖怪、八雲紫がさも愉快そうな面持ちで立っていた。
「お久しぶりでございます、紫様」
「あらあら、そんな懇切丁寧を装った生真面目な挨拶で隠さなくても良いのよ。だって私、貴方にどんな事を言われても、幽々子には言いつけるつもりなんですもの」
「いえ……私は別に、そんな事は……」
「ああ、良いのよ良いの、別に良いの。そういえば貴方って、真面目以外に受け答えの出来ない不器用で迷惑な、所謂、斬り捨て御免侍だったものね。不真面目に応対しようと思っていた、私が馬鹿だったわぁ〜」
「……不真面目なのは、いつもの事でしょう」
「何か言ったかしら?」
「たぶん空耳ですよ」
 箒を手近な場所に立て掛け、妖夢は改めて紫へと振り返る。
 彼女は、主である幽々子の友人、つまり白玉楼の客人なのだ。あまりに失礼な態度では、色々と癇に障る事もあるかも知れないと考え、身なりを正す。尤も、当の客人本人である紫には、あまりそういった事を気にしなさそうな雰囲気が、これ見よがしにありありと、漂ってはいたのだが。
「……それで紫様。今日は一体、どうなされたのですか?」
「うふふ、実はね――」
 もったいぶるような、静かな含み笑い。普段からよくこういった態度で接せられるので、それ自体は妖夢は気にならない。
 しかし次の瞬間、紫の口から響いてきた言葉の内容は、彼女が全く予想していないものだった。

「今、私の家に妖忌が来ているんだけど……会ってみる気は、無いかしら?」

 まるで、明日の天気でも相談するかのような、軽い口調。
 その意味を理解するのに妖夢は、たっぷり十秒の時間を要した。


 ◆◆◆


「……お師匠様」
 何処に在るとも分からない、八雲紫の住居。
 妖夢は今、そこに居た。言われるがままに案内されて来た、襖を隔てたその一室の前で、じっと佇んでいた。
『此処に居るわ』
 スキマによって妖夢を此処まで連れてきた紫の横顔は、いつもと変わりの無いのっぺりとした、魅惑的な微笑みだった。
『じゃあ後は、師弟水入らず……どうするかは、貴方が決めなさい』
 それだけ勝手に言い放つと、彼女は満足したかのように、何処かへと行ってしまった。
 恐らくは、好きにしろという事なのだろう。襖を引いて妖忌と会うのも、このまま此処を立ち去るのも――どちらも、自分の自由だと。
「…………」
 幼い頃、何も言わずに消えた師匠。まだ未熟な自分に、己の役目を半ば押し付ける形で、旅立った師匠。
 勿論、当時の妖夢の心境は、平穏なものでは無かった。見捨てられたと悲しみに打ちひしがれた事もあれば、勝手に居なくなったと怒りを覚えた事もあった。今でこそ、これも教えだと割り切れるものの――あの頃は、本当に様々な事を思い描きながら、日々を過ごしていた。自分にとって魂魄妖忌という存在が、どれだけ重要なものだったかという事を、深々と胸の奥に刻み込まされる毎日だった。
 そんな、それだけ思ってきた師匠が今、此処に居ると言う。たった一枚の襖を隔てた、向こう側に居ると言う。
「…………」
 手を伸ばし、しかし途中の空中で止め、幾許の時間を要してから再び動かし、ようやく襖へと届かせる。
 後は、ほんの少しの力を込めて、襖を引けば良いだけだ。
「…………」
 しかし、それが出来ない。まるでそこだけが、鉛か何かに変わってしまったかのような錯覚と共に、その手がぴたりと止まってしまう。
 会いたいとは、確かに思っていた。
 挨拶の言葉は何にしようかとか、何から話し始めようかとか、やはり身なりは整えた方が良いだろうかとか――そんな事まで考えるほど、妖夢は、妖忌に会いたかった。
 そしてそれは、今も変わらない。
 変わっているはずが、無い。
 なのに、それでもこの手は――
「…………」
 妖夢は瞳を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
『お前は、人より落ち着きの無いところがある……妖夢、まずは落ち着け。話はそれからだ』
 思い起こされたのは、厳しさと静けさの滲み出る、重厚な妖忌の声。幼い頃に言い聞かされたその言葉は、今この場で確かに功を奏した。募り始めていた苛立ちは、やがて吐き出された息と共に何処かへと飛んで行き、妖夢の思考は再び澄んだものへと変化する。
 そうだ、まずは落ち着けば良い。落ち着いて緊張を解し、その後は優しく力を込めれば良いのだ。大丈夫、お師匠様だってこれくらいの短い時間なら、きっと待っていてくれるはず――
 すると不意に、襖に掛けるその手が、仄かな熱を帯び始めた。
 動く。
 動かせる。
「――お師匠様」
 呟きは、静かなものだった。
 威厳に溢れる強靭な武士の声ではない、一分の期待と九分の緊張を孕ませた少女特有の心地良い声。
「失礼します」
 その声は、祖父と孫を隔てていた襖が開かれると同時に、その部屋へと慎ましやかに舞い込んだ。


 ◆◆◆


 小さな部屋に似つかわしい、小さな炬燵。
 妖忌は今、そこに居た。見間違えるはずも無いその鋭い横顔は、しかし見間違えるほどに緩んだ表情で机に横たわっていた。自他共に厳しい事で知られるその侍は、炬燵に向かって身体を投げ出すようなうつ伏せの格好で突っ伏し、顔だけは横を向いている状態で、そこに居た。
 転寝に興じている訳ではないのは、その灰色の瞳がしっかりと見開いている事からも窺い知れる。更にはよくよく見れば、弛緩していたと思われた妖忌のその頬は、実際は無理矢理に緩んだ表情を装っている事によって、ぷるぷると微細に震えてもいたのだが――極度の緊張の上に、いきなり祖父の珍妙な姿を目の当たりにしてしまった妖夢にとって、そんな細かな部分まで察する事が、出来るはずも無かった。
 石にように固まってしまい、そのまま二の句が継げられなくなるのも、所謂、当然の結果であるだろう。
「…………」
 そんな孫の様子を、知ってか知らずか――恐らくは、知っているのだろう。
 左手だけを器用に動かし、炬燵机の前に鎮座する巨大な箱を指差してから、妖忌はぼそりと囁いた。


































「じっちゃん、ねる」


































 箱が映し出していたのは、動き続ける一つの世界。
 その隅で『10ch』という文字が、何処か控え目な雰囲気で鎮座していた。


 ◆◆◆


「ゆぅぅぅぅぅぅぅかぁぁぁぁぁぁぁりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
「あら妖忌じゃない、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるかぁ! 貴様に『貴方ってば、ちょっと強面過ぎる堅物なんだもの。そんな態度で妖夢に会っても、怖がられるだけよ』と言われ、渋々、助言に従ってみれば……なんだあれは! 妖夢にも泣かれてしまったではないか!?」
「うふふ……本当に、試したのねぇ」
「ふざけるなぁ! 久々に出会った孫に、あれだけ悲しくて辛そうな目で涙を一杯に溜めながら『……ごめんねお爺ちゃん。面白くない』などと言われてみろ! こちらが何かを言う前に、小さな手で必死に顔を隠しながら嗚咽と共に走り去られてみろ! 慣れない冗談をしてまで、孫を楽しませようとした……俺の気持ちにも、なってみろぉぉぉ!」
「ぶろーくん、まいはーと?」
「そこで横文字を使うか貴様はぁ……!」」
「まったく。口を開けば、妖夢妖夢妖夢妖夢妖夢妖夢妖夢妖夢――バカみたい」
「ふざけるなぁぁぁ!」
「あ、台詞が噛み合って良い感じね、今の流れ。まさに勇者王よ、勇者王」
「ぐ……ぬぅ……なるほど、真面目に話を聞く気は無いのか……」
「だってゆかりん、難しい話分かんない〜」
「年も顧みずに腰をくねらせてまで……俺をおちょくるつもりか、八雲紫……!」
「年増だなんて酷いわぁ〜、ゆかりん泣いちゃうかも」
「かくなる上は――っちゃあたぁぅおうりゃぁぁぁぁ!」
「っとと……危ないわねぇ、若本風味の神父様な怒号で手刀を繰り出すなんて……刀も無いのに、やる気?」
「この、怒れる魂魄妖忌の渾身手刀に――」
「呼ばれて飛び出てぇ……呑み込みなさい、私のスキマ」
「斬れぬものなど、殆ど無い!」
「って、えぇぇぇ!? ちょ、ちょっと待って! 貴方、今、手でスキマを斬っちゃったわよねぇ!?」
「……昔にも言ったはずだぞ、八雲紫。魂魄家の剣術の根幹は、決して刀に依存するものでは無い。その基本は、己の肉体を最大限に利用する事と!」
「いや、誰も貴方の根性論なんて聞いて――い、嫌ぁぁぁ〜!? 妖忌がオートジャイロみたいに腕をぐるぐる回転させながら、モーリス・グリーンも真っ青の速度で追いかけて来るぅぅぅ〜!?」
「俺だけならば別に良かった。俺だけが恥を忍ぶのならば、それは何でも無かった……だが貴様は、妖夢を泣かせてしまった! その、残虐非道にして犯し難い大罪、俺は絶対に許さんっ!」
「あ、貴方だって賛成していたじゃない!? 冗談とかは苦手だから、これなら良いかも知れないって! だから私は、貴方と妖夢の仲に、ほんの少しの朗らかな笑いを――」
「問答――無用!」
「いやん」

 八雲紫、撃沈。




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