蒼い夜には一杯のブランデーを



「雪、か……」
 その紅い部屋の中での唯一の窓から外を覗き見ながら、一人の少女は憂鬱そうに呟いた。
 淡い桃白の衣装に包まれた小さな身体を尊大に椅子へとふんぞり返らせ、宵闇時を思わせる淡い藍色の髪を物憂げにかき分ける仕草は、少女の外見の幼さとは余りにもかけ離れていた。
 尤も、それは少女が外見相応の年齢の持ち主だった場合のみ、であるが。
 彼女が齢五百年を数える吸血鬼、という事実を知っている者からすれば、その態度も仕草も何ら不思議なものではないのだろう。
 紅い館の主であり、永遠に紅い幼き月と称えられる少女――レミリア・スカーレットは手元に置かれたティーカップを口元へと運びながら、尚も降り積もる雪をひたすらに睨みつけていた。
「――雪は、お嫌いですか?」
 問い掛けの声は、少女のものとは全く正反対と言っていいほど落ち着いた、流麗な女性の声だった。
 傍らから突然聞こえた問い掛けにもレミリアは特に動じずに、物憂げな表情のまま振り返る。
 そこに立っていたのは、背筋を伸ばし身体の前で手を組みメイド服を着こなしている、一人の美しい女性だった。
 一振りのナイフを思わせる程に均整のとれた身体。鋭く、しかし何処か儚げで見る者を魅せる美しい顔。
 白銀を思い起こさせる、煌く銀髪。澄んだ川底に深みを加えたような、サファイアブルーの瞳。
 人間という身でありながら、吸血鬼であるレミリア・スカーレットの身の回りの世話を全面的に任されている、メイド長にして完全で瀟洒な従者――十六夜咲夜その人だ。
「雪自体は、割と好き。でも今日降られるのは、はっきり言って頂けないわね」
 傍らの従者に対して、口元を不機嫌そうに歪めながら、嘆息するレミリア。
 先程までの実年齢相応の表情とは打って変わって、今度は外見相応の子供を思わせるムスッとした顔を覗かせる。
 老いと幼さという正反対の表情をこうも混在出来るのは、多種多様な人妖溢れる幻想郷内でも、この紅く幼い吸血鬼以外にはそう居ないだろう。
「……なるほど。満月ですか」
「正解よ、咲夜」
 即座に答えを捻り出した咲夜に、レミリアは少しだけ機嫌を取り戻したかのように微笑む。
 そう、今夜は満月なのだ。
 月の影響を受けやすい妖の中でも、特にその傾向が顕著な吸血鬼。そんな種族の元に生まれたレミリアにとって、満月とはそれなりに重要な代物なのだ。
 満月があれば、単純に考えても普段の数倍は力が上がる。月光をその身に浴びれば、さらに効果は増すはずだ。精神も昂揚するし、思考だって隅々まで冴え渡る。
 そうやって月の恩恵――特に満月の影響を一身に受けてきた彼女にとって、今日という夜はそれなりには重要な夜なのだ。
 だから満月の夜はいつも、こうやって窓際でいつも以上に手間隙をかけてティータイムを過ごすのが、彼女の最近の楽しみの一つなのである。
 しかし今夜は外を見れば、鬱陶しくなるほどの曇天と憎々しく降り積もる雪。
 わざわざ窓の傍に自分専用の豪華な椅子を持ってきて、咲夜に頼んで少し珍しい紅茶を淹れてもらったのに、である。今頃はゆっくりと月光を浴びながら、誰もが畏れる笑みを浮かべて優雅なティータイムを送る予定だったというのに……
「……ホント、鬱陶しい」
 ティータイムを楽しみにしていた時の気分を思い出したのか、またもや不機嫌そうな顔に戻るレミリア。
 幼い声色をこれでもかと低くして呟く様はかなり鬼気迫るものがあったが、覗き見える横顔がまんま子供の拗ねた顔なのだから、いまいち迫力に欠けているのも仕方ないだろう。
 そんな主の不機嫌な横顔を黙って見ていた咲夜だったが――
「――どうぞ」
 空になったティーカップをレミリアが差し出すタイミングを見計らって、赤黒い液体の注がれた丸いグラスを差し出す。
 先程までは何も持っていなかった事から察するに、恐らく【時間を操る程度の能力】を発動させて、厨房あたりから持ち出してきたのだろう。
「……咲夜、これは何かしら?」
 渡された当人であるレミリアは、手元のグラスの中身を興味深げに見つめながら、それだけを尋ねた。
 その声には、差し出された液体が何か、という純粋な好奇心以外は何も含まれていない。
「ブランデーですよ、お嬢様」
 果たして完全で瀟洒な従者は、何でもない風にさらりと言ってのけた。
 ちなみに、彼女の手元にも同じようなグラスが握られており、もう片方の手にも、注がれた液体の物と思われる一本のボトルがあった。
「いつもと違う満月の夜なので……折角ですから、いつもと違うモノを飲むのが良いのでは、と考えましたから」
 それだけ言って、うっすらと微笑む十六夜咲夜。
 無邪気とも妖艶とも取れるその笑みは、まさに完全で瀟洒。そして美しい。
「……まったく、主の許可も取らずに勝手に持ってくるなんて、いけない従者ね」
 とがめる様な内容とは裏腹に、表情も声色も嬉しそうなレミリア。
 手の平で覆うようにグラスを持ちかえると、じっくりと人肌――否、この場合は吸血鬼肌か――で温める。
 微妙な温度で香りを沸き立たせ、それを楽しみながら飲む。これがブランデーの正しい飲み方だ……たぶん。
「申し訳ございません」
 口にした言葉の内容だけで謝りながら、同じようにブランデーを人肌で温める咲夜。
 勝手に一緒に飲む事になっているのだが、それをレミリアは咎める事は無い。ただ楽しそうに微笑んでいるだけである。
 紅茶と違い、酒は酔う。紅茶は飲んでも飲まなくても大して差は出ないが、酒は酔う者と酔わない者という顕著な差が出てくる。
 そうした違いが出てくると、どうしても酔った者と酔っていない者との間で、話にズレが生じてくる。そうなってしまうと、その空間を共に過ごしている、とはお世辞にも言えない状態になってくるのだ。
 郷に入っては郷に従う。同じ条件下の下でないと、どうしても埋められない溝が出てくる。咲夜はそれを承知の上で、こうして主と共に酒を傾けようと思ったのだろう。
 尤も、彼女自身がただ単にお酒が飲みたかった、という可能性も捨て切れないが。
「――乾杯」
 やがてレミリアは、その幼い外見に似合わない荘厳で美しい笑みを浮かべながら、静かに呟く。
 赤黒い液体の注がれたグラスを眼前に掲げ、弄びながら。
「――乾杯」
 主に続いて、咲夜も静かに呟く。
 相変わらずの完全で瀟洒な、魅せる微笑みを浮かべながら。
 雪降らせる曇天覗く窓の前で、一人の吸血鬼と一人の従者のささやかな戯れが、今ここで静かに始まった。



 ◇◇◇◇◇



 二人は、静かにブランデーの香りを楽しみながら、静かに滑らかに飲み干していった。
 交わす言葉は、特に無い。
 普段から語り合う機会の多い二人にとっては、今ここで語る必要があまり無かったのだから。
 それに普段とは違う満月の夜に、普段とは違う趣向の物を飲んでいるのだ。ならば普段とは違い、ただ静かに飲むだけというのも一興。
 だから吸血鬼とその従者は、この静寂を慈しむかのように何も語らずに、ただ互いに向き合いながらグラスを傾けていた。
 片方は、幼さと威厳を思わせる微笑みを浮かべながら。
 もう片方は、完全で瀟洒で美しい微笑みを浮かべながら。
 静かに静かに、グラスを傾けていた。
「――?」
 窓の外に見える景色の変化に気付いたのは、従者の方だった。
 彼女の見つめる先には、いつの間にやら雪が止んで曇天の去り始めている満月の夜。
 散り散りになる曇天の合間に、うっすらと垣間見える蒼白の球体を目にして、咲夜は静かにレミリアの方へと向き直る。
「ご覧下さい、お嬢様。満月が見えてきましたよ」
 美しい満月を見て、無邪気な笑顔でこちらへと振り返るであろう主を脳裏に思い浮かべながら、咲夜は静かに呟く。
 しかし視線を向けた主の行動は、彼女が思い描いていた物とは全く違うものだった。
 咲夜の主である吸血鬼、レミリア・スカーレットは、窓の外で煌々と辺りを照らす満月も見ずに、椅子に座りながらうつむいているだけだった。
 何処か苦しげにも見える様に、額を手で押さえながら。
「――お嬢様?」
 訝しげに尋ねる咲夜にも、レミリアは特に反応を示さない。ただ黙りながら、床を睨みつけるように見つめているだけだ。
 普段とは全く違う、何処か弱々しいレミリアの様子に不安を覚えた咲夜は、即座に立ち上がってレミリアの元へ駆け寄ろうとする。
「……大丈夫よ、大丈夫」
 苦しげで小さな声が咲夜の耳朶を打ったのは、その時だった。
 声の主は間違いなく、目の前の主のもの。お世辞にも大丈夫とは言えない様子だったが、レミリアはそれでも気丈に、咲夜へと微笑み返す。
「少し、酔ったみたい……悪いけど、ベッドまで運んでくれないかしら?」
 外見に似合わず酒に強い主から始めて聞いた、『酔った』という言葉に少し戸惑いを覚える咲夜。
 しかし、目の前の主が苦しそうなのに戸惑っている場合ではない。そう思い直して、戸惑いを無理矢理に胸の奥に押し込めると、なるべく優しくレミリアを抱きかかえる。
 見かけ以上に軽い体が、今のレミリアの苦しげな状態と相まってしまい、脆く儚い印象を咲夜に与える。それは、夜の王と畏れられる吸血鬼、レミリア・スカーレットの姿とは余りにも懸け離れていた。
 だが、今はそんな悠長な事を思い浮かべている場合でもない。抱きかかえたレミリアになるべく振動を与えないように、即座に時を止めてベッドへと歩む咲夜。
 腕の中のレミリアの苦しげな息遣いも、蒼い月光が照らす舞い上がった埃も停止した中で、咲夜だけが何も変わらない動作で歩を進める。
 やがてベッドに辿り着くと、これも優しく慎重にレミリアを寝かせる。すると見計らったかのように、部屋の中全ての時が一斉に動き出した。
「――大丈夫ですか?」
 ベッドの傍らに跪いて、横になっている主と目線が合うようにしながら、咲夜は静かに尋ねる。
 一見すると表情に乏しい彼女の顔だったが、注意深い者であればそこに、優しさや心配などといった温かい感情が浮かんでいるのが、手に取るように分かっただろう。
 それ程までに今の咲夜は、主であるレミリア・スカーレットを、心の底から気遣っていた。
「ええ、随分と楽になったわ」
 言葉通り、先程よりは幾分か覇気を取り戻した声で応じるレミリア。尤も、やはり万全とは言い難いくらいに疲弊している様子だったが。
 その時不意に、寝転びながらベッドの上を移動し出すレミリア。決して起き上がらずに重力に逆らわずに、しかし器用にうねうねと動きながら移動するその様は、どう見ても芋虫以外の何物でもない。
 主のいきなりの行動に呆気に取られる咲夜の目の前で、レミリアは尚も器用にうねうねと移動する。
 やがて、跪きながらこちらを呆然と見つめる従者の近くまで寄ってくると、妙に座った紅い瞳を咲夜へと向けた。
「ねぇ、咲夜。こっちに座りなさい」
 言葉と一緒に、ばふばふとベッドの縁を叩くレミリア。
 どうやら、ベッドに腰掛けろとの事だ。それも命令口調で、言ってのけた。
「――失礼します」
 特に断る必要も無い上に、断ったら何をするか分からないお嬢様の性格もある。
 なので一言だけ断りを入れ、わずかにベッドを揺らしてシーツにしわを形作らせながら、咲夜は静かに腰掛けた。


 瞬間、彼女は微かな重みを膝の上に感じ取る。
 そこには、いつの間にか膝の上――太ももを枕にしたレミリアが、咲夜の顔をじっと見上げていた。


「……お嬢様?」
「んふふ〜、咲夜のひざまくら、きもちいい〜」
 突然と言えば突然の展開に、今度こそ戸惑いを隠せない咲夜に対し、妙に座った目と猫なで声で答えるレミリア。
 心なしかその顔は、紅い――いや、普通に赤くなっていた。笑みの形に開かれた口元からは、アルコール独特の鼻腔の奥で際立つ匂いもする。
 どうやら、先程彼女自身が言った『酔った』という言葉は、見事に的中していたようだ。
「お、お嬢様。どうか、お気を確かに……出来れば、退いてほしいのですが……」
 今までに主の酔った姿を見た事が無かった咲夜にとって、目の前のレミリアによる突然の暴挙は、彼女の冷静さを失わせるのに充分過ぎるほどだった。
 しかしそこは、完全で瀟洒な従者。尚も戸惑う思考を片隅に押し込んで、ひとまず膝枕をしているレミリアへと声をかけながら、何とか彼女に退いてもらうように尋ねてみる。
 だが。
「え〜、嫌よ」
 たった一言で却下されてしまい、咲夜は思わず頭が痛くなってしまう。
 それを他所に、レミリアは柔らかな太ももを満喫するかのように少しだけ左右に頭を動かすと、満足そうな満面の笑みを浮かべた。
 んふふ〜、という普段の様子からはとても想像が出来ないような、能天気な鼻歌を歌いながら。
「……はぁ……仕方ないですね」
 やがて諦めたかのように、溜め息をつく咲夜。
 その顔は、これからしばらく自分が膝枕として使われて動けないというのに、何処か嬉しそうだった。
 少しだけ姿勢を保つ力を抜いて、こちらを見上げるレミリアへと視線を移す。
「――ありがとう、咲夜」
 見上げる紅い瞳をうっすらと細めながらレミリアは、酔いで赤くなった顔に嬉しげな笑みを浮かべる。
「何故だか知らないけど、今はすごく貴方に甘えたいのよね……これも、酔った所為かしら?」
 悪戯っぽく微笑みながら可笑しそうに呟いた言葉が、咲夜の耳朶を軽く打つ。
 それに対して、咲夜はうっすらと透明な微笑を浮かべながら、呟く。
「――従者に甘えるなんて、紅い月と畏れられるレミリア・スカーレットには、余りにも不釣合いですわ。お嬢様」
「むぅ……たまには、いいじゃない〜」
 たしなめる様な内容とは裏腹の、面白おかしそうな響きを孕んだ咲夜の言葉に、むくれる様に頬を少しだけ膨らますレミリア。
 幻想郷での威厳を保つ事を気にする等、割と体面を重んじる傾向のある彼女にしては、かなり珍しい言動である。
 これもやはり、『酔った』事が原因なのだろうか。というか、それしか考えられなかった訳だが。
「――そうですね。たまには、良いのかもしれません」
 少しだけ間を置きながら、咲夜は静かに同意する。
 今夜は、普段とは違う満月。そして主と共に普段とは違う趣向の物を飲み、普段とは違い静かに過ごしたのだ。
 ならば普段とは違い、紅い月が酒に酔って従者に甘えるというのも、また一興なのかもしれない。
 そんな事をぼんやりと考えながら、咲夜はふと視線を上げる。
 部屋でたった一つだけの、外を覗く窓から見えるのは、蒼くて白くて丸い月。
 うっすらと地上を照らす蒼白い光は、窓が一つだけのこの紅い部屋も、澄み切ったような蒼で染め上げていた。
「……蒼い月っていうのも、たまには良いわね、咲夜」
 従者の視線に釣られるように外を見ていたレミリアは、溜め息と共に静かに呟く。
 その声には、同意を求めるような響きは含まれていない。ただ確認の為に尋ねただけ、の様に聞こえた。
「――そうですね。たまには、良いのかもしれません」
 だから咲夜は――完全で瀟洒な従者である十六夜咲夜は、ただそれだけを口にした。


 紅い月が酔うのは、蒼い月に照らされる一杯のブランデー。
 なかなか、洒落たモノではないか。


 二人は、そんな蒼く染め上げられた紅い部屋の小さな窓から、夜空に浮かぶ蒼い月を見ていた。
 ただひたすら、言葉も交わさずに、じっと見つめていた。



 ◇◇◇◇◇



 どれくらい、そうしていただろうか。
 不意に、膝元から聞こえてきた規則正しく静かな呼吸音に、半ば意識を喪失していた咲夜は一息に現実へと引き戻された。
 視線を下ろすとそこには、一片の威厳も感じさせない、無邪気で無防備な主の寝顔。その横顔は本当に安らかで、見る者を和ませる魅力があった。
 そんな、すぅすぅと気持ち良さそうに寝息をたてるレミリアの姿に、思わず微笑みが零れる咲夜。
 最早、退いてほしいという思いは、とうの昔に消え失せていた。無邪気で無防備な主の寝顔に比べれば、こうやって自分が膝枕として使われる事など、何でも無かったのだから。
 尤も、レミリアがメイド服のスカートをギュッと握り締めているので、こっそりと退く事は到底不可能だったのだが。
「――そんなに強く握らなくても、私は何処にも行きませんわ。お嬢様」
 自分の衣服を握り締める小さな小さな手を、優しく両手で包み込む咲夜。
 今の彼女の顔には、仕える者としての優しさと、見守る者としての優しさ――その二つが混ざり合って、自然と浮かんでいた。
「んぅ……」
 安堵するかのような吐息と共に、レミリアの口元が緩む。
 そこから僅かに覗いた鋭い犬歯が、彼女が夜の眷属に属する者だという事を如実に語っていた。
 しかしそれを見ても、咲夜の表情は微塵も変わらない。
 変わる事など、ありはしない。
 何故なら目の前の主こそ、存在を許される場所も祝福してくれる名も無かった自分に、言葉では表せない程のモノを与えてくれた、たったヒトツの存在なのだから。
 だから咲夜にとって、それが吸血鬼であろうが――紅い悪魔であろうが――我侭な幼い少女であろうが――正直、どうでも良かった。
 求められ、求めに応じてくれる存在に、これ以上なにを望むというのか?
 彼女にとっては、それで充分だった。充分過ぎる、程だった。
「……」
 そして今も、その気持ちは変わらない。
 変わる事など、ありはしない。
 蒼く染め上がった紅い部屋で、完全で瀟洒な従者は、永遠に紅い幼き月を想う。
 その年齢に侵されていない、触れるのも躊躇われる様な白く美しい頬に、そっと優しく慎重に触れながら。
「――貴方にとって私を従者にしたのは、ほんの戯れ程度だったのかもしれない……いえ、今でもそうなのかもしれない」
 一言一言、噛み締めるように、自分自身へと問い掛けるかのように。
 完全で瀟洒な従者は、その美しい顔に謎めいた微笑みを浮かべながら、流れるように言葉を続ける。
「それでも――それでも私は嬉しかった。生まれて始めて誰かに――貴方に感謝をしたし、貴方と出会えた運命にも感謝した……そしてそれは、今も変わらない。変わる事など、ありはしない」
 謳う様に、語り手の様に、十六夜咲夜は呟く。
 気持ち良さそうに眠る主を起こさない様に静かに、そしてその主に心からの忠誠を誓った自分への再確認の様に確かに、蒼く紅い部屋の中で呟く。
「だから私は、貴方に仕え貴方を助け、貴方を守り貴方と共に生きる。あの紅い月の夜、私がそう願い、貴方がそう求めたのだから……だから私は、貴方と共に生きる」
 そこまで言うと咲夜は、静かに視線を窓へと向ける。
 蒼、白、そして銀。それらが絶妙に混じり合い、まぁるく満ち足りた月。
 紅い月より、幾分か控えめな印象を受けるソレに己を重ねながら、蒼と白と銀の従者は静かに厳かに、語り終えた。



「紅い月を酔わせるのは、蒼い月に照らされた一杯のブランデー……蒼い月、とまでは行かなくてもせめて……せめて、その光に照らされる一杯のブランデー程度には、貴方が心許せるくらいに信頼されたい……そう願うから、私は貴方と並んで歩いて生きたいのです……レミリア・スカーレット……お嬢様」



 ◇◇◇◇◇



「――なるほど。レミィがお酒に酔うなんて始めは信じられなかったけど、貴方の話を聞いて何となく理解出来たわ」
 日の光も月の光も全く差し込まない、地下に作られた密室と言っても過言ではない程に、密室で広大な大図書館。
 あれから一夜明けた今日、十六夜咲夜はこの図書館の主とも言える魔女に、昨日の蒼い夜の事の顛末を事細かに話していた
「理解出来たって……私の話を聞いただけで、ですか? パチュリー様?」
「まあ、ね。あくまで、憶測でしかないけど……」
 パチュリーと呼ばれた、紫紺の髪にリボンを着け寝巻きを思わせる淡い紫の衣装に身を包んだ少女は、別段表情を動かさずに淡々と言ってのけた。
 咲夜と話している時にも手元の本からは少しも視線を逸らさずに、知識と密室の少女――パチュリー・ノーレッジは何でもない風に言葉を続ける。
「満月というのは一般的に、吸血鬼に力をもたらすと言われているわ。レミィの場合も、それは例外ではない。特に、彼女の象徴とも言える【紅い月】の時なんかは――言わなくても、分かるわよね?」
 ここで始めて、咲夜へと視線を向けるパチュリー。確認するかの様な眼差しを受けて、咲夜はゆっくりと同意の意味で頷き返した。
 何せ、片方にとっては仕えるべき主、もう片方にとっては愛称で呼び合う仲なのだから。それくらいは知っていて当然である。
「そして満月の時には、様々な感覚が鋭くなるってレミィから聞いているわ。力然り、視覚然り、聴覚然り、速度然り、能力然り――でもそれとは別に、余計なものは逆に鈍くなるらしいのよ」
「余計なもの……?」
「一番身近なのが痛覚ね。普段の暮らしでこれ程必要なものは他に無いけど、戦いの時には動きを鈍らせるだけの邪魔なものだから。他にも、味覚とか満腹感とかも鈍くなるらしいわ……だから普段は少食のレミィや妹様でも、満月の時はそれなりに食べるのよ。味にも五月蝿くないし」
「なるほど……でも、それとお嬢様が酔ったのとどういう関係が……」
「焦っちゃ駄目よ咲夜。焦りは、もっと急ぐ時の為に取っておくものなの」
 嗜める様な声と共に、人差し指でビシッと咲夜を指差すパチュリー。
 恐らく冗談のつもりでやっているのだろうが、どうもその無感情に近いジト目で見られている所為なのか、咲夜は言い知れぬ居心地の悪さを感じてしまい何も返すことが出来なかった。
 しばらくの間、指差す状態で沈黙する密室少女と、言い返すタイミングを逃して途方に暮れるメイド長。
 途中、通りすがった小悪魔が訝しげに思って声を掛けようとしたのだが、何だか異様な空気に気圧されてしまった様子で、そのまま何処かへすごすごと引き下がっていった。
「……私の予想としては、蒼い月はその余計な感覚も増幅させた。だからレミィは、いつも以上にお酒に酔いやすくなった……こんなところだと、思うんだけどね」
 やがて、気まずい沈黙が何でも無かったかのように、咲夜へと自分の仮説を説明したパチュリー。
 尤もその顔は、微妙に頬が赤くなっていたのだが。
「……つまり蒼い月の影響で、その酔い易いという余計な感覚が増幅された結果、お嬢様はブランデーに酔ってしまった。とパチュリー様は言いたいのですか?」
「だいたい、そんなところよ。まあそれだと、何で蒼い月に限ってレミィがそんな風になっちゃったか、って部分が全然分からないんだけど……紅と蒼は、確かに相反しているようにも見えるけどねぇ……」
 納得がいかないようにブツブツと呟いていたパチュリーだったが、不意に咲夜へと向き直りながら頬を柔らかく緩める。
 悪戯っぽく何処か含みのあるその笑みは、レミリアがよく浮かべる悪戯っぽい笑みと驚くほど似通っていた。
「案外、貴方がその蒼い月に似ていたから油断しちゃった――なんてのが、理由だったりしてね」
「……ご冗談にしては面白くないですわ、パチュリー様」
「そうね、考慮しておくわ」
 それだけ言うと、また元の仏頂面に戻りながら本へと視線を落とすパチュリー。
 どうやら、話はこれで終わりなのだろう。
 一言だけ断って、出口付近で途方に暮れていた小悪魔を労ってから、咲夜は地下の大図書館を後にした。



「――咲夜。レミィが私と会ってから大きく変わったのは、今までに二回あるのよ。一回は、あの紅い霧の事件の後。そしてもう一回は、一人の人間のメイドがこの紅魔館で働き始めた時から……尤も、貴方はこれを知らないでしょうけどね」
 誰にも気付かれないくらいに小さな声で知識と密室の少女は、書物に描かれる文字の羅列より視線を微塵も動かすことなく、虚空へと呟いた。
 そしてその呟きは、誰にも聞かれること無く地下図書館の天井にぶつかり、何処かへと消え去っていった。



 ◇◇◇◇◇



 先が薄闇に覆われるくらいに長く、目に優しくないくらいに紅い廊下を、咲夜は一人で歩いていく。
 絨毯を踏みしめる時の独特な、響かず埋もれるような規則正しい足音だけが、今のその場に聞こえる唯一の音源だ。
 耳朶を打つそれを軽く聞き流しながら、咲夜は目指す。
 主の寝る寝室へ、主を起こす為に。
 時刻は黄昏時。窓がひとつも無い紅く長い廊下では、時計以外に時刻の知り様が無かったが、恐らく外では燃えるような朱の珠が沈んでいる真っ最中なのだろう。
 そしてその、魑魅魍魎にとって忌むべき存在が一夜の休息を得る時こそ、主が目覚め過ごす為の始まりなのだ。
 規則正しく足音を刻む咲夜の瞳に、ひとつの扉が見えてくる。それは一見すると何の変哲も無い、多少豪華な造りをした木製の扉。
 それこそが、咲夜の目指すべき場所だ。心より忠誠を誓う主が、その御身を休める寝室だ。
 扉の前に、まるで王に謁見をするかのように立ち誇った咲夜は、改めて自分の姿を見下ろす。
 一分の隙も無く着こなされたメイド服に塵ひとつ付いていない事を確認して満足気に頷くと、今度は懐から懐中時計を取り出した。
 簡素ながら、骨董品を思わせる程に造りの精巧なその懐中時計は、規則正しく時を刻んでいる。それを見つめながら咲夜は、主を起こすべき時間までに多少の猶予が残っている事を確認した。
 来るべき時刻までの間にふと脳裏に浮かべたのは、昨日の蒼い夜の出来事。
 あの時、寝ている主に言った言葉に嘘偽りは全く無い。むしろあの程度では言い足りないと言っても、過言ではない。
 主への――レミリア・スカーレットという一人の紅い幼き吸血鬼への忠誠に、疑うべきものは何一つ無い。
 何故なら。



 ――何故なら、【十六夜咲夜】という一人の完全で瀟洒な従者が生まれたあの紅い夜に、願い願われ、求め求められたのだから。

 願い願われ、求め求められ、何かを得られるという満たされる心を、生まれて始めて感じさせてくれたのだから。



 ふと思考を現実に戻した咲夜の視線に飛び込んだのは、主を起こすべき時刻を刻んでいる精巧な懐中時計。
 従者としての生を共に歩んできた相棒を大事に懐にしまいながら、扉へと手を掲げる。



 思い描くのは、自分自身が昨日の蒼い夜に呟いた、ひとつの言葉。

 あの紅い夜に決意し、あの蒼い夜に再確認した、ひとつの言葉。

 それを声に出さずに口ずさみながら、蒼と白と銀の従者は謎めいた優しげな微笑みを浮かべて――





 忠誠を誓う主――レミリア・スカーレットと、今日を共に歩み生きる為に、十六夜咲夜は静かに扉をノックした。




もどる